第70話 はじまりの都
外海に突き出た大小ふたつの半島は、横たわる獣の
上下の顎に抱かれた湾にはおだやかな波が打ち寄せ、深緑色を湛えた海面は大型船の通行にもなんら支障のない水深があることを示している。
遠方にうっすらと見える陸地の影がなければ、よもや内海とは思われないほど広大な湾だ。
タナイス運河のように人間の手で大地を切り開いたのではない。それは、悠久の時のなかで形作られた天然の良港であった。
いまも湾の周辺に散在する遺跡の数々は、この地にいにしえの昔から人の営みがあったことを物語っている。
海沿いの山林から苔むした姿を覗かせているのは、いつ建てられたのかもさだかではない古い望楼や灯台だ。すでに本来の役目を失って久しいそれらの遺物は、この時代において船乗りたちが湾内を航行する際の目印として機能しているのだった。
湾の最奥に目を向ければ、陸地を覆い隠すように張り巡らされている白く高い城壁が目に入る。
天の蒼と海の翠を分かつようにそびえる白壁は、この地を訪れた者に鮮烈な印象を残すにちがいない。
城壁の正面に設けられた巨大な港には、数百隻からの軍船が艫を連ねている。
浮かぶ城郭といった風情の巨艦から小ぶりな
あくまで利便性を追求するなら、市街地にもっとも近い港は商船や貨客船のために解放すべきところだが、実際にはそうした民間船は城市から離れた港に追いやられている。
一旦周辺の港に降ろした荷物をわざわざ陸路で城内まで搬入するのだから、不合理といえばそれまでだった。
にもかかわらず、現在に至るまで市民から不満の声が噴出したことは一度もない。
諸事において軍事がもっとも優越するのがこの
この一帯はかつて東方でも屈指の海洋国家の
やがて古帝国時代も終わりに差し掛かったころ、この地を舞台にひとつの歴史的事件が起こった。
臣下の企てたクーデターによって玉座を逐われ、東方属州に流謫されていた興祖皇帝が挙兵したのだ。
当時東方に駐屯していた海軍の全戦力を掌握した興祖皇帝は、またたくまに西方諸侯の勢力を駆逐し、ついには独自の政権を樹立するに至った。
パラエスティウムが『東』のはじまりの地と言われるのは、そうした経緯をもつためだ。
建国からしばらくのあいだは『東』の首都とされていたが、興祖皇帝から数代を経るうちに、廷臣のあいだでは遷都を主張する声が大きくなっていった。
海はそれ自体が天然の要害である一方、ひとたび制海権を奪われれば海上からの攻撃を許すことになる。どれほど高い城壁を築いても海から攻め寄せる敵を完全に防ぐことは至難であり、さらに陸海から挟撃されれば容易に孤立するという点も大いに問題視された。
なにより、過去の歴史を顧みれば、かつてこの地に存在した都市が海からの攻撃によって陥落しているのである。
盤石の防備を固めてなお、臨海都市の抱える構造的欠陥は如何ともしがたい。
遷都を巡っては宮廷でも意見が百出し、喧々諤々の議論が日夜繰り広げられた。
やがて、より安全な”山の都”――新帝都イストザントへの遷都が決まると、その完成と同時にパラエスティウムは副都のひとつへと降格されたのだった。
かくして首都としての地位を喪ったパラエスティウムだが、興祖皇帝ゆかりの地としての価値はいまなお失われていない。
それどころか、皇帝とその一族が離れ住むようになったことで、国家創始の地としての価値はいっそう高まった感さえある。
新皇帝選出の承認式がパラエスティウムで挙行されているのは、その最たる例であった。
いま、パラエスティウムには『帝国』各地から陸続と要人が集いつつある。
主だった皇族をはじめ、元老院議員、各地の州牧、省庁の高官……いずれも国家の重鎮と呼ぶにふさわしい顔ぶれである。平時はみずからの任地に留まっている彼らが一堂に会する機会は、この時を置いてない。
あくまで形式的な儀式とはいえ、新皇帝の選出に関与できる栄誉は千里の道も遠しとはさせなかったのだった。
だが、必死の思いで馳せ参じた彼らは、よもや夢にも思わなかったはずだ。
刻一刻と儀式の開催が迫るなか、最も重要な人物はいまだパラエスティウムの城門をくぐってさえいなかったとは。
皇太子ルシウス・アエミリウス――次期皇帝となるべき男は、いまだ旅路の途上にある。
夕刻、パラエスティウム中心街の元老院公邸――。
「……またしてもしくじったというのか?」
デキムスはこみ上げる感情を押し殺し、努めて静かに言った。
すくなくとも、当人はそのつもりであった。
冷静さを保っているというのは、あくまで彼の主観にすぎない。実際の言葉の端々には隠しきれない怒気がにじんでいる。
額に隆起しつつある太い血管は、デキムスの体内で煮えたぎる血がさかんに巡りはじめたことを示している。やがて感情が激発に至ったならば、皮膚の上にのたうつ蛇みたいな形をくっきりと浮かび上がらせるだろう。
デキムスは答えを催促するように、部屋の片隅にひざまずいた鉄仮面の男に目を向けた。
「いかにも――アウダースは討ち死にを遂げました。そして、標的はいまだ健在にございます」
苛立っている雇い主をこれ以上刺激すまいとの配慮からか、ラベトゥルはあくまで淡々と述べる。
顔全体を覆う不気味な仮面のために表情は伺えない。
それどころか、外見からは男女の区別すら判然としない奇怪な風貌であった。
「二度までもしくじるとは、どこまでも頼りにならぬ奴らよ」
「……面目次第もございません」
「うわべだけの弁明など無用だ。ルシウスめはじきにパラエスティウムに到着する。このまま儀式が開かれれば奴が次期皇帝に即位するのは確実……そうなれば、儂とエンリクスの生命が危うい。その前に何としても手を打たねばならぬ」
言って、デキムスはのっそりと椅子から立ち上がる。
年齢を感じさせない堂々たる体躯は、ただそこにいるだけで他者を威圧せずにはおかない。
長年権力の中枢にいた者だけが帯びる風格であった。
わずかに憔悴の色がみえるのは、長旅の疲れに加えて、精神的に追い詰められているためだろう。
「今度こそ奴を始末するのだ。もはや失敗は許されぬぞ」
「御意にございます――」
「もし一両日中に奴を殺すことが出来ねば、儂も貴様も生きる道は断たれるものとおもえ!!」
「もとよりそのつもりです。次こそは必ず
ラベトゥルは慇懃に言うと、一礼してその場を辞去する。
デキムスが何も言わずにその背を見送ったのは、これ以上言葉を交わせばみずからの不安と狼狽をさらけ出しかねないと危惧したためだ。
もしルシウスの即位が実現すれば、デキムスの命脈は完全に絶たれることになる。
これまでルシウスに向けてきた悪意がそっくりおのれに返ってくると思えば、デキムスが言いようのない不安に駆られるのも当然だった。
皇帝となったルシウスは、デキムスから元老院議長の地位を剥奪し、庶民に落とす程度は平然とやってのけるにちがいない。
そして、能うかぎりの苦痛と恥辱を与えたのち、最も残酷な方法でデキムスの生命を奪うだろう。
おそらくエンリクスも無事ではいられまい。ひとたび将来の禍根とみなされれば、幼いうちに芽を摘まれるのが世の常だ。
デキムスの瞼にありありと描き出されたのは、寒風吹きすさぶ帝都の広場で斬刑に処される老人と少年の姿だ。それはけっして妄想などではない。このままルシウスの即位を許したなら、遠からぬ未来において自身と最愛の孫に降りかかる必定の災厄であった。
古帝国時代から現在に至るまで、皇位継承者が即位と同時にその政敵を粛清した例は枚挙にいとまがない。
敵対者の血は新体制を発足するために不可欠な供物であり、それゆえにデキムスもエンリクスを即位させるためには手段を選ばなかったのだ。
(たとえこの身が滅びようとも、奴だけは殺さねばならぬ――)
デキムスは心中で何度も同じ言葉を繰り返した。
それはみずからにかける暗示であると同時に、不退転の決意の表明でもある。
政治家にとって言葉は最大の武器である。時に人を扇動し、時に国家百年の大計を打ち立てる言葉の魔力。元老院の長たるデキムスは、誰よりもその威力を知悉している。
いま、老政治家はその力を以って自分自身を縛りつけ、決して違えることのできない宣誓としたのだった。
新皇帝の承認式は明後日に迫っている。
ルシウス一行がパラエスティウムに入ったという報せは、いまだ入っていない。
道中でのデキムスの企てはことごとく失敗したが、一方でルシウスもエンリクスを奪い返されている。どちらも絶対的な優位にはなく、また自由に持ち駒を動かせるという点もおなじだった。
それは同時に、まだ状況が大きく動く余地があるということを意味している。
この二日間のうちにすべての決着がつく。二度目の陽は勝利者だけを照らすだろう。
次期皇帝の座をかけた最後の戦いが始まろうとしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます