第71話 平穏と暗雲

 ルシウス一行を乗せた船がパラエスティウムの軍港に入ったのは、ほとんど日も暮れかけた頃だった。

 御座船は、アストリカを出発した時に乗っていたものよりだいぶ小さい。

 アウダースの襲撃を辛くも切り抜けた一行だったが、船の被害状況は思いのほか深刻だった。

 しばらくは応急修理を施してだましだまし航行を続けていたが、そんな状態ではとてもパラエスティウムまで辿り着けるはずもない。

 バリュストノイ峡谷を抜けてすぐに立ち寄った港で折よく程度のいい小型船が見つかり、もっけの幸いとばかりにこれを徴発して臨時の御座船としたのだった。

 大破した船の処分から代替船への移乗に至るまで、すべてを取り仕切ったのは船長であるフィオレンツァだ。

 異邦人であることを微塵も感じさせない、それは実にあざやかな手際だった。

 船の所有者との折衝に奔走したヴィサリオンの働きも軽んじることはできない。

 うっかり皇太子の一行ということを明かせば大騒動になるのは避けられない。そこで帝都から地方に赴く巡察使の一団という体裁を整え、疑われることなくその場を切り抜けたのだった。

 戦いの役に立てない分、文官として精一杯の貢献をしたい――線の細い青年を駆り立てたのはその一念であった。

 一方、当のルシウスはといえば、新しい船に乗り換える段になってようやく姿を見せたというありさまだった。

 傍らのラフィカがどこか呆れたような表情を浮かべていたのは、むろんそれだけの理由がある。

 「久しぶりによく眠れた――」

 船が襲撃を受けているあいだ、未来の皇帝はただの一度も目覚めることなく、揺れる船内で熟眠を貪っていたのだった。

 それならそれで適当に言い繕うべきところを、みずから進んでぬけぬけと白状してみせるのは、ほとんど常識外の図太さであった。

 ルシウスは小さくあくびを噛み殺すと、三人の騎士たちのまえに歩み出た。

 先ほどアレクシオスを救った四人目の騎士――エウフロシュネーの姿はすでにない。

 運河の下流に敵が潜んでいないか探ってくると言い残し、早々に船から飛び去っていったためだ。

 ルシウスはみずからが眠っているあいだに繰り広げられた戦いについての報告に耳を傾け、しきりに頷くばかり。

 エウフロシュネーが皇帝直属の騎士と名乗ったことを聞いてもとくに気に留めた様子もないのは、一同を多少なりとも戸惑わせずにおかなかった。

 アストリカでラフィカがエウフロシュネーによって窮地を助けられ、ルシウスもまた父皇帝が秘密裏に送り込んだもうひとりの戎装騎士ストラティオテスの存在を把握していたなどとは、むろんアレクシオスらにとっては知る由もない。

 やがてルシウスは騎士たちの顔にひと通り視線を走らせると、

 「この旅に出たときから、生きるも死ぬもそなたらに託している。おかげでこうして無事に朝を迎えられた。余はよい臣下を持ったな」

 こともなげにそう言って、ふっと微笑を浮かべてみせたのだった。

 「さあ、パラエスティウムは目と鼻の先だ――いますこしのあいだ、この命をそなたらに預けるとしよう」

 一行は慌ただしく船出すると、タナイス運河をひたすら南へと下っていった。

 最大の難所であるバリュストノイ峡谷を抜ければ、運河はふたたび広大な川幅とおだやかな流れをとりもどす。

 身軽な船は軽やかに水面を滑り、太陽が中天にかかるころには、運河の終着点である巨大な汽水湖を抜けて海に出ていた。

 そこからさらに南下し、牡鹿の角みたいに外海に突き出た半島の先をまわって、船はパラエスティウムの湾へと入ったのだった。

 湾内に入ってまもなく、船尾に一旒の旗が翻った。

 赤地に両翼を広げた黄金色の鳳凰が染め抜かれた、絢爛華麗な旌旗――

 傾きかけた日差しを浴びていっそう輝き、潮風をはらんで翩翻とはためくさまは、まさしく王者の印と呼ぶにふさわしい。

 数ある『帝国』の紋章のなかでも、その意匠デザインはひと握りの皇族だけに許された特別なものだ。

 いまこの瞬間も帝都イストザントで病床に臥せっている皇帝イグナティウスを除けば、この世で皇太子ルシウスただひとりに許された旗であった。

 遠目にも鮮やかなその旗を認めるや、湾内を遊弋していた軍船が三隻ばかり近づいてきた。もともと海路でパラエスティウム入りする賓客を出迎えるために待機していた船である。目の前に予期せず最上級の貴賓が現れたとなれば、一目散に馳せてくるのは当然だ。

 それにしても、よもや『帝国』の次期皇帝となる男が、そこらを行き交う商船よりずっと小さな船に乗って現れるとは――

 兵士たちが多少の懐疑を抱いたとしても責められる筋合いはないはずだ。まして皇太子ともあろう者がここに至るまで数度の死線を潜っているなどとは、彼らにとっておよそ信じがたい話にちがいない。

 いずれにせよ、旅はようやく終点を迎えようとしている。

 幾多の苦難を経て、ルシウスの一行は目的地であるパラエスティウムに辿り着いたのだった。

 本来の予定よりだいぶ遅れているが、かろうじて承認式には間に合った格好になる。

 儀式の慣例として、承認の瞬間にはルシウス本人が居合わせる必要がある。主だった皇族や軍司令官は早々とルシウス支持を表明し、皇帝即位はほとんど内定しているとはいえ、儀式に遅れるようなことがあればデキムス陣営を勢いづかせることにもなりかねない。

 『帝国』の次代を担う新皇帝が決定するまで、残すところあと一日あまり。

 旅は終わったが、まだ危険が去った訳ではない。

 ルシウスをはじめ、一同のだれもデキムスがこのまま手をこまねいて事態を座視するとは思っていない。

 今度こそルシウスを亡き者とすべく、デキムスは最後の攻撃を仕掛けてくるはずだ。

 敵としてももはや後がない以上、戦力を出し惜しみする必要もない。襲撃はこれまでになく苛烈なものになるだろう。

 いま、一足先に舷側から桟橋へと飛び移るアレクシオスの脳裡を占めるのは、敵の次なる手をどのように防ぐかということだけだった。

 「――アレクシオス、アレクシオスってば!!」

 ふいに背後から声をかけられて、少年騎士ははたと我に返った。

 振り返れば、同じように桟橋に飛び移ったイセリアが立っている。

 「大丈夫? なんだかボーっとしてたみたいだけど?」

 「なんでもない。……すこし考えごとをしていただけだ」

 「考えごと?」

 イセリアは不思議そうに首を傾げた。

 「敵のことだ。やつらがこのまま黙って見ているとは思えん。おれたちが到着したことを知ったらすぐにでも刺客を差し向けてくるはずだ。そうなれば、殿下をどうお守りするか……」

 「なーんだ、アレクシオスってばそんなこと心配してたんだ?」

 「そんなこと、とはなんだ。おれは真面目な話をしているんだぞ!!」

 「べつにふざけてる訳じゃないわよ。ただ、敵が来たってべつに心配いらないんじゃないかって思っただけ」

 そう言いのけたイセリアには緊張感の欠片もない。

 むっとした様子のアレクシオスをよそに、イセリアはあくまで余裕たっぷりに続ける。

 「だってさ、こっちは騎士が四人いるのよ。それに殿下にはラフィカがいつもくっついてるんだし、どんな敵が来たって怖くないわ。――ほら、あんたもそう思うでしょ?」

 ふいに水を向けられたのはオルフェウスだ。

 先に飛び移った二人とは異なり、オルフェウスは桟橋と船のあいだにかかった舷梯を降りようとしている最中だった。

 前触れもなく話の輪に引き込まれたことに戸惑っているのか、亜麻色の髪の少女はその場で立ち止まる。

 「……私?」

 「あんた以外に誰がいるってのよ! 悔しいけど、あたしたちのなかではあんたが一番強いんだから、ちょっとは自信ありげなこと言ってみんなを安心させなさいっての!」

 「ごめん――私にはよく分からない」

 「ああもう! あんたって本当に気が利かないわね! ――もういいわ、期待したあたしがバカだった」 

 「……イセリアはバカなの?」

 「あんた、わざと言ってるなら海に沈めるわよ!!」

 ふたりの少女のやり取りをうんざりした面持ちで聞きながら、アレクシオスは大きな溜め息を漏らした。

 (こいつらはたしかに強い。だが、頼りにするのは危険すぎる――)

 万が一の時に頼りになるのは自分だけだ。

 そう肝に銘じておかなければ、迫りくる敵の手からルシウスを守り抜くことは至難と思われた。

 ふと空を見上げれば、太陽はすでに傾き、夕闇が街を覆い尽くそうとしている。

 暮れゆく空のどこかにエウフロシュネーはいるはずだった。

 はるか空の上から一同を見守り、敵の動きに目を光らせている。おそらく一同がイストザントを出立してから今に至るまで、ずっとそうしていたのだろう。

 自分以外で信頼に足るとすれば、あの翼の少女だけ――そう思いかけて、アレクシオスは否定するように頭を振った。

 たとえ一度助けられた相手といえども、やすやすと他力をあてにするのは甘えでしかない。

 ルシウスはたしかに命を預けると言った。

 その信頼に応えるためには、誰でもない自分自身が最善を尽くすほかない。

 なおもオルフェウスに絡みつづけているイセリアを横目に、アレクシオスは静かに決意を固めるのだった。

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