第72話 疑心錯綜
夜半――
パラエスティウムの歓楽街は、この時間になってもまだ通行人であふれていた。
『帝国』でも指折りの”軍都”だけあって、道行く人々のなかにも軍人の姿が目立つ。
簡素な制服に身を包んだ最下級の水夫もいれば、きらびやかな肩章を下げ、腰に剣を佩いた海軍の高級将校もいる。
一見すると上下の別なく楽しみを共にしているようにも見えるが、それはあくまでうわべだけのことだ。
よくよく観察していれば、高級将校が通りに面した華やかな酒場に入っていくのに対して、水兵は薄暗い路地裏へと消えていくのに気づくだろう。むろん路地裏にも酒場はあるが、どの店も狭くじめじめとして、泥水と見紛うような粗悪な酒を提供するのが常であった。
そうして安酒でしたたかに酔っ払った水夫たちは、同じく路地裏にあるうらぶれた娼館に吸い込まれていく。
シラミだらけの不潔な万年床でつかのまの快楽を貪ったあと、余韻に浸る間もなく、ふらつく足取りで兵舎に帰っていくのだった。
上機嫌で帰路につく水夫たちが放吟する声は、薄い壁を通り抜けて部屋のなかによく響いた。
細い路地に面した古い民家の一室である。
家具らしい家具もなく、破れた天井から差し込んだひとすじの月明かりが荒れ果てた室内をほのかに照らす。床に堆積した分厚い埃の層は、人の出入りが途絶えてかなりの年月が経過していることを示している。
入り組んだ路地のさらに奥にあるため、廃屋となってからも取り壊されることなく放置されているのだった。
いま、無人であるはずの部屋に佇む人影がある。
四人――いずれも異なる輪郭を持っている。
「……ファザルに続いてアウダースまでもが仕損じた。儀式の開催も明後日に差し迫っている。もはや後はないということだ――」
影のひとつが口を開いた。
くぐもって聞こえるのは、その声が鉄製の仮面の下で発せられたためだ。
声の主――ラベトゥルは、音もなく部屋の中心に進み出ると、ほかの三つの影をそれぞれ見回した。
「アウダースはよく戦ったわ。ただ、敵がそれ以上の怪物だったというだけ――」
言って、エフィメラは深い溜め息をついた。並の男ならたまらず腰をとろかせるような艶然たる吐息であった。
バリュストノイ峡谷でのアウダースの敗北を見届けたあと、エフィメラはひとり運河を下り、戦いの顛末をラベトゥルに報告したのだった。
「い……いよいよ、お、
吃りながら怪気炎を上げたのはザザリだ。
言い終わるが早いか、ぱん! と音を立ててみずからの両頬を叩いてみせる。
続けざまにでっぷりとした身体をぶるぶると揺らしたのは、どうやら戦意の昂ぶりを示しているらしい。
当人としてはあくまで真剣そのものだが、潰れたガマガエルみたいな醜悪な外見のせいで、なんとも形容しがたい滑稽さが滲んでもいる。
「それで――いつ仕掛ける?」
二人が言い終わるのを待っていたように、シュラムが重い口を開いた。
窓際に佇む暗器使いの男は、抜き身の刃みたいな眼光をラベトゥルに向ける。
「決行は明日の夜半……遅くとも払暁までには
「それは依頼主の意向か?」
「いや――私が決めたことだ。アストリカの時と同様、
ラベトゥルはエフィメラとザザリに視線を向ける。
「私はそのほうがありがたいわ。前もって風向きや天気を調べておかないと、どんなに強力な薬もうまく効いてくれないもの」
「お、
一瞬言いよどんだザザリだったが、エフィメラがいちはやく賛意を示したのを見るや、遅れまいと首肯してみせる。
それは本当に彼自身の意志から出たものとは言いがたい、せいぜいエフィメラと同じ側に立っていたいという程度の浅はかな考えであったが、ともかくもラベトゥルの意見が過半の支持を得たことには違いない。
一方のシュラムは、ふっと口中に含んでいた気を吐き出すと、三人のまえにゆっくりと進み出た。
「……承知した。明日の夕刻、日没を合図に仕掛ける。ザザリは敵陣の撹乱をたのむ。拙者は……」
落ち窪んだ眼窩の下、暗殺者の双眸がにわかに輝きを増した。傍目にも明瞭なそれは、まぎれもない殺意の光であった。
「――例の
「
「その役目は、エフィメラ、貴様に任せる。使える手はどんなものでも使え。標的を仕留めるまでのあいだ、厄介な敵は拙者が釘付けにしておく」
決然と言い放ったシュラムに、エフィメラはただ頷くことしかできなかった。
ザザリの援護があるとはいえ、実際に四人の騎士たちと剣を交えるのはシュラムただひとりなのだ。そこに騎士ではないとはいえ、剣技においてシュラムと互角に渡り合ったラフィカまで加われば、もはや多勢に無勢という言葉ではなまぬるい。
いかに卓越した技量をもつ武芸者でも、文字通りの死戦となるのは必定だった。
シュラム自身、もとより生きて還れるとは思っていない。
もともと死への恐怖がすっかり欠落しているような男だ。暗器使いとして完成に至るためには、生への執着を捨て去らねばならない。それは生きながらにして生を放棄するという矛盾の上に成り立つ境地であった。
「シ、シュラム……まさか死ぬつもりなのか? 死んだら、褒美ももらえねえのに――」
ザザリが上ずった声で問うた。
次期皇位継承者の暗殺という、もし露見すれば九族に至るまで根絶やしにされる大罪に手を染めたのは、言うまでもなく多額の報酬のためだ。
ファザルやアウダースのように標的を仕留めるまえに命を落とせば、むろん報酬にはありつけない。金で雇われた暗殺者にとって、報酬を手にすることなく死ぬのは犬死に以外の何物でもない。
みずから率先して危険に身を晒そうというシュラムの行動は、ザザリには到底理解できるものではなかった。
「これまであえて言わずにおいたが――拙者にとって、金銭など何の価値もない。報酬はエフィメラと二人で分けるがいい」
「本気で言っているの?」
「いかにも――拙者はいままで数えきれないほどの敵と戦ったが、あれほど恐ろしい敵とはついぞ巡り合ったことがない。その敵を相手に死力の限りを尽くし、おのれの力の限界を試せるなら、この命を喪ったとしても何の悔いもない。拙者にとって他に望むものなど何もありはしない」
静かな、それでいて一切の反論を許さぬ覚悟と気迫に満ち満ちた言葉。
エフィメラとザザリはもはや何も語ることなく、沈黙によって諒解の意を示すのみであった。
「話は決まったようだな。実行にあたっての手筈は追って指示する。では、明晩――くれぐれも抜かりなきように」
ラベトゥルは短く言うと、三人の刺客に背を向けた。
「待て」
呼び止めたのはシュラムだ。
「……なにか?」
「我らに隠していることがあるなら、今のうちに言ってもらいたい。こうして顔を合わせるのも、これが最後になるかもしれん」
「何を言いだすかと思えば、そのようなこと――」
ラベトゥルはやはり背を向けたまま、仮面の下で小さく哄笑を漏らした。
「この一件には私の命もかかっているということを忘れたのか、シュラム。隠し事などして何の得がある?」
「それが拙者にはどうも気にかかるのだ。御前への態度といい、ここまで貴殿の不審な素振りをたびたび目にしていることもある。疑念を払拭するためにも、いまのうちにすべてを話してもらいたい」
「その必要はない。私を信用できないというなら、それで結構――」
突き放すように言ったあと、ラベトゥルは肩越しにシュラムに一瞥をくれる。
仮面の怪人と歴戦の暗殺者。主従であるはずの両者のあいだに、にわかに緊張が走る。
室内にただならぬ殺気が漂いはじめたのも無理からぬことだ。水もぬるむ初春にあって、廃屋の一室だけは真冬に逆戻りしたかのようであった。
エフィメラとザザリが固唾を呑んで見守るなか、ラベトゥルはふたたび口を開いた。
「私が望むのは結果だけだ。私たちの関係には信用も情愛も必要ない。私は皇太子ルシウスを仕留めるために最善の策を講じ、お前たちはそれを実行する……他になにも求めはしない」
「……その言葉に偽りはないな」
「明日の夜、ルシウスを仕留めたあとは各々好きに逃げるがいい。報酬は前もって取り決めていたとおり、あらかじめ指定した場所に送り届けさせる。それで私たちを結ぶ一切の縁は切れる。もはや二度と顔を合わせることもないだろう」
言い終わるが早いか、ラベトゥルはそれきり振り返ることもなく、足早に廃屋を後にした。
意外に素早い身のこなしだが、忽然と影も残さずに消え失せたわけではない。シュラムの俊足を以ってすれば追跡は十分に可能だ。
それにもかかわらず、シュラムはその背を追わなかった。
もし追えば、かりそめの主従関係も、二人を失いながらもかろうじて繋ぎ止められている”仲間”の紐帯も、すべてが崩れ去る予感がした。
なにより、最後の機会と理解しながら、迂遠な問いに終止したのはシュラム自身の落ち度でもある。
知りたかったのは、ただひとつ。
ラベトゥルがああまで皇太子ルシウスの抹殺にかける情熱――その根源。
暗く淀み、それでいて隠しきれない熱量を帯びたなにかが、分厚い仮面の内側に息づいている。たんに欲に目がくらんでルシウスの暗殺を企てただけの俗物であれば、おそらくシュラムもここまで疑念を抱くようなことはなかったはずだ。
アストリカでの一件では意図的にエンリクスを拐かしたラフィカを見逃し、さらにはデキムスに第四の騎士の存在を伏せていた疑惑もある。
あのときはシュラムとザザリ、エフィメラの連携によってエンリクスの奪還には成功したものの、一歩間違えればデキムス陣営は致命的な打撃を被っていた可能性もある。もしエンリクスが殺害されていれば、その時点で次期皇位をめぐる争いはルシウス側の勝利で幕を閉じていたのだから。
あるいは、ラベトゥルの敵意はルシウスだけでなく、『東』の皇族すべてに向けられている――そのような可能性もないとは言い切れなかった。
アストリカで見せたデキムスとエンリクスへの不可解な態度も、そう考えれば得心が行く。
底なし沼の底からふつふつとわき上がる泡みたいに、さまざまな考えがシュラムの脳髄に浮かんでは消えていく。
とめどもなく溢れだす憶測をきっぱりと断ち切ったのは、職業的暗殺者として思考を遮断する技能を会得していたためにほかならない。
必要に応じてみずからの精神状態を操ることは、殺人という異常な営みを生業とする暗器使いには不可欠の能力であった。
ラベトゥルの思惑がなんであれ、すでに事態は後戻りできない段階に入っている。
そして、シュラムの考えが正しければ、ルシウスを殺すという一点においてラベトゥルの策は十分に信頼できるはずだった。
ラベトゥルへの疑念はひとまず棚上げとし、間近に迫った戦いに全力を注ぐ――今のシュラムたちにとって、それに如く選択はない。
雑念を抱いて戦いに臨めば、勝てる相手にも遅れを取る。人間の理を超越した難敵であればなおさらだ。
シュラムはあらためてエフィメラとザザリを見やる。
はたして、この三人のうちの誰が生きて明後日の朝日を浴びることが出来るか。
ただひとつ確実に言えるとすれば、全員が無事に生き延びる結末だけは決してありえないということだけだ。
すくなくともシュラムはそこにはいない――いてはならない。
望みうる最高の死に場所への筋道は、うっすらと見えはじめている。あとは、いかにしてそこへ辿り着くか……それだけが問題だった。
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