第73話 引き裂かれる心

 「おじいさまは、ルシウス叔父上のことがお嫌いなのですか?」

 最愛の孫の口からふいに発せられた問いに、デキムスは苦りきった笑みを浮かべるのが精一杯だった。

 だだっ広い公邸の一室には、エンリクスとデキムスのほかには誰もいない。

 つい先ほどデキムスが人払いをさせたのだ。多忙な職務の合間を縫って孫の顔を見にきたからには、水入らずでの時間を望むのは当然だった。

 顔を合わせて早々に思いもよらぬ問いを投げかけられては、さしもの元老院議長も当惑せざるをえない。

 「嫌い……とは? どういうことかな、皇子みこよ」

 「言ったとおりの意味です。おじいさま、どうか本当のことを答えてください」

 「ふむ……」

 デキムスは瞑目し、左手を顎と喉のあいだで何度も往復させる。

 この男が思案に耽るときのお決まりの仕草だが、エンリクスの目にはひどく新鮮で奇異なものに映った。

 少年にとって、これが祖父が思い悩む姿を見るはじめての機会だったからだ。

 兄である皇帝の右腕として五十年ちかく『東』の政権の中枢に君臨し、その盛名は海を越えて『西』の諸侯にまで響きわたる――そんな外向きの顔とは裏腹に、少年の記憶のなかの祖父は、いかなる時も柔和な笑顔を浮かべた好々爺だった。

 それは少年の勝手な思い込みではなく、デキムス自身もエンリクスの前ではおのれの苛烈な性状を決して見せまいと努めていたためだ。

 だが――いま、デキムスはおのれに架したよき祖父の仮面が半ば外れかかっていることを否応にも自覚せずにはいられなかった。

 ルシウスについてなんらかの言葉を紡ごうとするたび、みずからの意志では抑えようのないどす黒い憎悪が喉元までこみ上げてくる。ひと思いに吐き出すのは容易だが、エンリクスのまえで自分の最も醜悪な部分をさらけ出すのはどうにも憚られたのだった。

 デキムスは黒い塊を飲み込むように臓腑はらの奥底へ押しやると、ふだんと変わらぬ優しげな口ぶりでエンリクスに語りはじめた。

 「わが愛しき皇子みこよ、今から言うことをよく聞きなさい。……たしかに儂はあの男を好ましく思っていない。だが、それはすべて皇子のためなのだ」

 「私のため……ですか?」

 「そうだ。あの男は皇子に取り返しのつかぬ害をなす。儂のなにより大事な宝を傷つけようとする者を、どうして好きでいられようか?」

 「ルシウス叔父上が、私を? なぜ? 叔父上はいつも私に優しくしてくれます!」

 「皇子よ、奴の弄する甘言に騙されてはいけない」

 デキムスはエンリクスの肩を抱き寄せると、耳元でささやくように言葉を続けた。

 「人間は欲を離れては生きられぬ。あの男は、皇子に代わっておのれが玉座に就こうというおそろしい欲を抱いている。たとえ一時の優しさを見せたとしても、それは皇子を惑わすためのまやかしにすぎん……」

 「そんな……嘘です! 叔父上はそのような方ではありません!」

 「嘘と思うか。ならば皇子よ、あやつと儂のどちらが信頼できるかな。いままでずっと皇子を守ってきた儂と、帝位ほしさにぬけぬけと『西』から出戻ってきたあの不埒者と、いったいどちらを信じるというのだ?」

 エンリクスはほとんど涙声になりかかっている。

 敬愛してやまないふたりを天秤にかけるのは、まだ十歳にもならない少年にとってあまりに過酷な試練だった。

 デキムスはもうひと押しとばかりに、少年の小さく華奢な身体を強く抱きすくめる。

 「この世で儂ほど皇子のことを大切に思っている者はない――どうか信じておくれ。そなたを守ることが、この哀れな老いぼれの最後の生きがいなのだ」

 「おじいさま……」

 「アストリカでの一件は覚えていよう。あのとき、あやつの手先は皇子を拐かそうとしたのだ。皇子にはあえて言わずにおいたが、儂が必死の思いで取り戻しておらねば、今頃そなたの身はどうなっていたか知れぬのだぞ」

 エンリクスが「あっ……」と驚嘆したような声を漏らしたのは、今さらながらにおのれの身に起こった出来事の異常さに気づいたためだ。

 むろん、エンリクスも違和感を覚えなかったわけではない。いかに世間知らずの貴公子とはいえ、あの時のラフィカの行動があきらかに拐かし――誘拐犯のそれであるということくらいは理解している。

 空を飛んだのはいまなお夢とも現実ともつかないが、祖父のもとから引き離され、ルシウスの面前に引き出されたことは揺るぎない事実だった。

 にもかかわらず、いままで誘拐という発想が思考の埒外にあったのは、ひとえにルシウスに抱いていた好意のためであった。

 好意を抱いている相手がしたことであればこそ、多少強引でもよい方へと解釈し、それが悪意によるものだとは思わないように努めていたのだ。

 はじめて対面した時以来、ルシウスに対して漠然と抱いていた好ましい感情は、デキムスの悪意に満ちた言葉によって容赦なく上塗りされようとしている。

 「ほんとうに……叔父上は私を……?」

 「奴こそは悪逆無道の奸物よ。戎装騎士ストラティオテスなどというおぞましい怪物バケモノを飼いならす恥知らずでもある。この国の将来のためにも、あのような輩はなんとしても除かねばならぬのだ」

 「おじいさま……私はどうすればいいのでしょう……」

 「皇子は何も案ずることはない。この儂がいるかぎり、ルシウスが何を企もうと無駄なことだ」

 デキムスは自信たっぷりに言うと、白い歯を見せてエンリクスに微笑みかけた。

 それは少年が幼いころから慣れ親しんだ、逞しくも優しい祖父の顔だった。

 「明後日の儀式にて、皇子はかならずや次の皇帝に選ばれるであろう。それはそなたの亡き父母、そしてこの儂の長年の悲願でもある。何人にも邪魔はさせん」

 「はい……ありがとう、おじいさま」

 雷鳴が轟くようなデキムスの声とは対照的な、それは蚊の鳴くような声だ。

 間近に心臓の鼓動を聞きながら、しかしデキムスはついぞ思い至らなかった。

 祖父と叔父とのあいだで板挟みとなり、悲痛な軋りを立てる小さな胸のうちを。

 生きながらにして身を裂かれるような苦しみが少年を苛む。最も近くにいる者にさえ届かない絶望が追い打ちをかける。

 明けない暗夜にも似た孤独のなかで、少年の心はすこしずつひび割れはじめていた。

 ノックの音が響いたのはそのときだった。

 「元老院議長閣下、客人がみえております」

 「しばらく誰も近づけぬようにと言い置いたはずだ。誰であろうと構わん。今日のところは追い返すがいい」

 「そのように申し上げたのですが、どうしても閣下に直接伝えたい用件ことがあると譲らず……」

 当番兵の声は哀れなほど震えていた。

 ドア越しとはいえ、デキムスを前にすっかり萎縮しきっているのはあきらかだった。

 彼らにとって主人であるデキムスは神にも等しい。いつ爆発するともしれない激情を秘めたおそるべき神であった。

 それだけに、当番兵が怒りを買う危険を冒してまで報告に来たのは、相応の理由があるにちがいなかった。

 「……いったい何者だ?」

 「海軍の将校と名乗っているのですが、『』と伝えれば分かると繰り返すばかりで……」

 その言葉を耳にした途端、デキムスはむっとばかりに眉根を寄せた。

 それはルシウスがパラエスティウムに入ったことを知らせる暗号であった。

 「よかろう。すぐに行くと伝えておけ」

 デキムスはそれだけ言うと、ふたたびエンリクスに視線を向けた。

 一瞬浮かんだ渋面はすでに消え失せ、慈愛に満ちたあたたかな微笑だけがある。

 「皇子よ、何も心配はいらぬ。儂は用件を済ませたらすぐに戻る。それまで待っているのだぞ」

 「はい……おじいさま」

 名残を惜しむようにエンリクスの頭を撫ぜ、デキムスは部屋を後にする。

 寂寞とした部屋にただひとり残されたエンリクスは、心の奥底がと冷えていくのを感じていた。

 祖父の悪意に彩られた顔を見てしまったためか。叔父の善意の裏に隠された思惑を知らされたためか。

 ――あるいは、その両方か。

 答えを見つけられぬまま、少年はただ呆然と窓の外を眺めることしかできなかった。

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