第74話 嵐の前・静けさの後

 パラエスティウムの正門から西北に三キロほど進んだ場所に、その屋敷はある。

 一見すると何の変哲もない屋敷である。緻密な彫刻が施されたファサード、そしてテラスを備えた典型的な古帝国様式の外観は、この国の上流階級の住居としてはごくありふれたものだ。

 貴人の邸宅としては別段みすぼらしくもなく、かといって目を引くほど豪奢なつくりというわけでもない。

 特筆すべき点があるとすれば、屋敷が岬の先端に所在しているということだ。

 湾内に無数に突き出たちいさな岬のひとつである。そういった岬の例に漏れず、地図上においては無名の岬であった。

 猫の額ほどの面積のほとんどは、件の屋敷と付随する小規模な庭園によって占有されている。

 このような辺鄙な場所に屋敷が作られたのは、いまからおよそ二十年ほど前のこと。

 当時パラエスティウムに赴任していた高官が湾を眺望できる別邸をもとめ、巨額の私費を投じて完成させたのだった。

 やがて高官が流行り病に倒れると、主なき屋敷の所有権はパラエスティウムの行政府へと移った。

 迎賓館への改装を経たのち、屋敷は行政府が所有する公邸のひとつとして今に至っている。

 もっとも、港や市街地からだいぶ離れていることもあり、めったに利用されることもないのが実状だった。行政府によって管理されていなければ、たえまなく潮風が吹き付ける過酷な環境のなかで、とうに自然に還っていたにちがいない。

 それだけに、皇太子ルシウスがパラエスティウムでの一時的な滞在先としてこの屋敷を選んだことは、周囲の人間に多少なりとも動揺を与えたのだった。

 ルシウスのために数ある公邸のなかでも最も格式が高く、警備も厳重な居館が用意されていたのである。それを蹴って街はずれの奇妙な屋敷を仮住まいとしたのは、どう考えても正気の沙汰ではなかった。

 皇太子の奇矯と気まぐれ、ここに極まれり――。

 陰で悪しざまに噂する者があったとしても、それを責めることはできまい。

 一見突飛にみえる行動もルシウスなりの考えに基いているとは、他の人間には思いもよらぬはずだ。

 そして、いま――

 午後の日差しに包まれたテラスに、ふたつばかり現れた人影がある。

 「ここなら敵も攻めやすいだろう。なあ?」

 ルシウスはテラスと中庭を隔てる柵に背をもたせかかったまま、傍らの華奢な青年に向かって深刻さの欠片もなく言ってのけた。

 突然の問いにヴィサリオンが困惑したのも無理はない。

 肯定すべきか否定すべきか――逡巡しているうちにルシウスが言葉を継いだ。

 「どこにいても、どうせ敵はやってくる。街中でいたずらに被害を拡大させるよりは、こうして人気のない場所で待ち構えていたほうが得策ではないか?」

 「殿下は無辜の民草が巻き添えにならないようにこの場所をお選びになったのですね」

 「さあな――余はあの者たちが戦いやすいほうを選んだまでだ」

 言って、ルシウスはふいに視線を中庭に向けた。狭いながらもよく整えられた庭園であった。

 「それにしても、ここに来るのも久しぶりだ」

 「殿下、以前にもこの屋敷に滞在されたことが……?」

 「子供の時分ころにな。あのころは兄上も健在であった。帝都を離れられぬ父に代わり、余の見送りに来てくれたものだ」

 ルシウスはしみじみと言うと、懐かしげに目を細めた。

 はじめて見る表情に戸惑いながらも、ヴィサリオンはおそるおそる問うてみる。

 「……それは、『西』に発たれたときのことですか?」

 「発たれた、か。気を遣っているのだろうが、余は遠回しな言い方は好まぬ。要するに体よくこの国を追放されたのだからな」

 「追放などと……現に殿下はお戻りになられたではありませんか」

 「兄が存命であればそれも叶わなかっただろう」

 ここに至って、ルシウスは自嘲を隠そうとはしなかった。

 皮肉っぽい笑みを口辺に浮かべたまま、ヴィサリオンに向き直る。

 「そなた、余をプラニトゥーデ家に養子にやったのはだれか知っているか?」

 「いえ……申し訳ありませんが、存じておりません」

 「すべてはデキムスの差し金だ」

 「元老院議長が?」

 「あれは兄上に自分の娘を嫁がせ、そうして生まれた世継ぎを皇帝に仕立てる腹づもりであった。あのころはまだエンリクスは影も形もなかったがな。ともかく、将来の禍根となる余をこの国に置いておくのは都合が悪い――何事にも万全を期そうとするあの男らしいことだ」

 「……失礼ながら殿下、ひとつだけ腑に落ちないことがございます」

 「なんだ?」

 おっかなびっくりといった様子のヴィサリオンとは対照的に、ルシウスはあくまで鷹揚に応じる。

 「これまでの歴史を顧みれば、エンリクス親王殿下のご即位に何の問題もないはずです。過去にはさらに幼くして皇位に就かれた例もいくつかあります。それだけに殿下をわざわざ『西』から呼び戻し、あらためて皇太子としたのは、どうも奇異に思えるのです」

 「余に直接それを訊くとは、そなた、顔に似合わず案外と胆力があるやつだな」

 「も、申し訳ありません。私としたことが、殿下に対してご無礼を――」

 「べつに怒っているわけではない。そなたの疑問は当然だ」 

 先ほどから恐縮しきりのヴィサリオンをからかうように呵々と笑声を上げると、ルシウスはテラスから庭園に出た。

 ヴィサリオンもその背を追うように駆け出す。非力の身とはいえ、護衛対象であるルシウスを一人きりにするのはいかにもまずい。

 ルシウスはといえば、そんな心配などどこ吹く風とでも言うように、庭園の片隅にしつらえられたギンバイカの花壇のまえで手招きをしている。

 「いい機会だ。そなたには今のうちに教えておくとしよう。もっと近う寄れ――あまり大声では話せぬことだからな」


 海鳴りの音が響いた。

 沿岸部ではさして珍しくもない現象だが、足元から沸き起こってくるのは奇妙な感覚だった。目を閉じて耳をすませば、自分がまるで海上を漂う小舟のうえにいるみたいな錯覚すら覚える。

 もっとも、いまの騎士たちにはそんな風趣に浸っている暇も余裕もない。

 アレクシオスとイセリア、そしてオルフェウスが屋敷の外で警備についてから、すでに三時間あまりが経過している。

 邸内の警備はラフィカにまかせ、かれらは外部からの攻撃に備えて盤石の構えを取っている――はずであった。

 「つまんない……」

 耐えかねたように呟いたのはイセリアだ。

 栗色の髪先を所在なさげに弄っているのは、いつ終わるともしれない退屈な時間へのささやかな抵抗だった。

 わざとらしく大きな生あくびをひとつふたつしてみせたところで、すこし離れた位置で待機していたアレクシオスがつかつかと歩み寄ってきた。

 三人の騎士のまとめ役を自認しているアレクシオスである。たんなる不平不満ならいつものことと聞き流すところだが、護衛にあるまじき態度を取っているとなれば話は別だった。

 「任務につまらないも面白いもあるか。まじめにやれ、イセリア」

 「だってさ、ずっとこうして仕掛けてくるのを待ってるだけなんて退屈じゃない? だいたい、敵だってこんな真っ昼間から仕掛けてくるはずないと思うけど」

 「それは敵が決めることだ――むこうに主導権を握られているのは癪だが、仕方ない。とにかく、明日の朝までは油断するなよ!!」

 「はいはい、分かってるわよ。仕事はちゃんとやるから大丈夫、大丈夫」

 イセリアは掌をひらひらと振って応じると、白漆喰の塀にもたれかかった。

 「本当にまじめにやれよ!」

 そう言って踵を返したアレクシオスの背に、イセリアはいたずらっぽく微笑んでみせる。

 どうやら退屈しのぎにアレクシオスと会話がしたかっただけらしい。

 不用意な振る舞いのために叱責を受けた反省など微塵もなく、まんまと釣り上げてやったという達成感だけがある。

 「それにしても、このまま明日の朝までかぁ……このままだと本当に退屈で死んじゃうかも……」

 「――それじゃ私とお話する? お姉ちゃん」

 ふいに傍らから沸いて出た声に、イセリアはおもわず叫び声を上げそうになった。

 つい先ほどまで誰もいなかったはずのイセリアの隣に、いつのまにか藍色の髪の少女が並んで立っている。

 エウフロシュネーがほんの数瞬前までそこにいなかったのは、アレクシオスが何の反応も示さなかったことからもあきらかだ。まさに神出鬼没。無から湧いて出たような出現だった。

 「あ……あ、あんた、いつからそこに――」

 「いつからかな? ところでお姉ちゃんさ、髪を指でくるくるってするクセ、毛先が傷むからやめたほうがいいと思うよ。女の子なんだからさ」

 「うっさいわね! 放っておきなさいよ!」

 アレクシオスの後ろ姿が視界から消え失せたことを確かめると、イセリアは語気を荒げて応じる。

 どうやらエウフロシュネーはずいぶん前からそこにいたらしい。イセリアがことさらに憤激してみせたのは、羞耻心の裏返しでもある。

 「だいたいあんた、あれからどこにいたわけ? たしか皇帝直属の騎士ストラティオテスとか言ってたけど、どうしてあたしたちと別行動してんのよ?」

 「ええと、それは――秘密、じゃダメ?」

 「……あんたね、あんまりおちょってるとほっぺた抓るわよ。言っとくけど、あたしのは死ぬほど痛いから覚悟しなさい」

 「そうなの? だけど、足の遅いお姉ちゃんに私が捕まえられるかなあ」

 おどけたように言うと、エウフロシュネーはちいさく舌を出す。

 茶目っ気に富んだ一連の言動と仕草は、イセリアを苛立たせるには十分だった。

 「だれが足が遅いですって? そっちこそちょっと空が飛べるからっていい気になってんじゃないわよ! ちんちくりんのチビのくせに!」

 「またチビって言った! いまはチビかもしれないけど、そのうち大きくなるもん!」

 「はん、なれるもんならなってみなさい! あたしたち普通の人間と違うんだから、あんたもこの先ずっとチビのままかもしれないわよ。もしかしたら、十年経っても百年経ってもずーっと子供のままかもね?」

 「そんなの……分かんないよ……」

 これまで年上のイセリア相手に一歩も引かずに反駁していたエウフロシュネーだったが、ふいに声が小さくなった。

 そして、それ以上は言葉を続けようともせず、ただ黙って俯くばかり。固く握りしめたちいさな両拳が震えているのは、あるいは泣き出しそうになるのを精一杯堪えているためか。

 先ほどまでとは一変したエウフロシュネーの様子に、イセリアもようやく歳下相手に言葉がすぎたことを自覚する。

 「ち、ちょっと……もしかしてあんた、本当に気にしてんの? 泣くほどのことじゃないでしょ? ねえってば?」

 「だって……本当にこのまま大人になれなかったらどうしようって……」

 「バカね、あたしだって昔から大人だったわけじゃないっての。北の辺境で戎狄バルバロイと戦ってたころは背も胸も今より小さかったわ。騎士だってちゃんと成長すんのよ」

 「……本当?」

 「本当に決まってるでしょ。あんたもそのうち大きくなるから、心配いらないわよ」

 イセリアは宥めるように言うと、エウフロシュネーの肩に手を置く。

 エウフロシュネーは相変わらず俯いたまま、小刻みに肩を震わせている。

 最初は嗚咽のためかと思ったイセリアだったが、やがてエウフロシュネーの身体がふっと後退すると、

 「ふふっ――引っかかった。ちょっと泣き真似したらすぐ信じちゃうんだから、お姉ちゃんも結構単純だよね」

 破顔一笑、喜色満面。

 エウフロシュネーはしてやったりといった面持ちでイセリアに向かい合う。

 「こ……このクソガキ!! よくもあたしを騙してくれたわね! そこ動くんじゃないわよ!!」

 「さっき言ったよね? ノロマなお姉ちゃんには捕まえられないって!」

 言い終わるが早いか、エウフロシュネーは飛びかかってきたイセリアをひらりとかわす。

 たとえ戎装していなくても、騎士の繰り出した攻撃を回避するのは至難である。イセリアが鈍重というよりは、エウフロシュネーの動体視力と敏捷性が飛び抜けていると言うべきだろう。

 そして――頭から勢いよく地面につんのめったイセリアが立ち上がったときには、エウフロシュネーの姿はすっかり消え失せていた。

 「どこ行ったのよ! 出てきなさい!」

 「遠慮しとくよ。だって出ていったら酷い目に遭わされちゃうでしょ?」

 やはり姿は見えないが、それはたしかにエウフロシュネーの声だ。

 岬を吹き抜ける海風と一体になったみたいに、少女の声はあくまで涼やかに語りかける。

 「からかったのは悪かったけど、お姉ちゃんが意外と優しくていい人だって分かってよかったよ。またね――もうお仕事サボっちゃダメだよ!」

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