第75話 仮面の真意
いにしえの昔、東方の民は昼と夜のあいだに横たわるあいまいな時間を恐れた。
まだ人間が火を持たなかったころ、夜は人の支配の及ばぬ異界だった。
光なき異界のなかでは人は無力である。世界にふたたび光が戻るまでのあいだ、互いに肩を寄せ合い、息を潜めて朝を待つことしかできない。
それでも、人界と異界とを隔てる境界線が画定されているかぎり、人はみずからの棲むべき世界を見誤ることはない。
だが、ひとたびその境界線がゆらいだならば、どうか?
昼と夜が混ざり合う汽水域みたいな時間は、人に判断を誤らせる。知らぬうちに光なき世界へと足を踏み入れ、気づいたときには引き返せない深みにはまり込んでいる。
それゆえに人は完全な異界である夜そのものよりも、異界と人界とが境界を接するわずかな時間をこそ恐怖の対象としたのだ。
いま――港湾都市パラエスティウムは、まさに昼夜の端境にある。
折しも黄昏時である。湾は一面に金箔を貼ったみたいにまばゆく輝き、海に面してそびえる城壁をえも言われぬ色合いに染めている。
巨大な軍港の添えもののように形作られ、景観美とはおよそ無縁のこの城市だが、夕の半刻ほどのわずかな時間だけは比類なき美しさをまとうのだった。
その美しさが最高潮に達したころ、デキムスは紙の上でしきりに往復させていた筆を止め、ちらと窓の外を見た。
元老院議長の公邸は、長い坂を登りきったさきの高台に所在している。デキムスが身を置く一室からは、甍を連ねる城内の家々や、彼方でまたたく軍港の灯りを見晴るかすことができた。
パラエスティウム全市で最高の眺望を独占できる特等席といってよい。
だが、まもなく夜に呑まれて失せるはかない美景も、狷介な老政治家の心を動かすには至らなかったようだ。
デキムスは何事もなかったかのように机に向かうと、ふたたび筆を動かしはじめた。
各省庁から提出された資料の吟味、推挙された人物の精査、条文の起草……いちいち挙げていけば枚挙にいとまがない。
元老院議長としての職域は多岐にわたり、その多忙さは筆舌に尽くしがたい。
皇帝が病床に臥して久しい現在、デキムスは名実ともに『帝国』における最高権力者の地位にある。
『帝国』には元老院を筆頭にさまざまな政策決定機関が存在しているとはいえ、デキムス個人の判断を必要とする局面はあまりにも多い。
畢竟、政治という営みはどこまでも人治の羈絆から逃れられないものだ。
帝都を離れても仕事は待ってはくれず、処理すべき文書の数は日を追うごとに増える一方。とりわけ急ぎの案件は、デキムスが立ち寄る先々に先回りをして待ち受けているというありさまだった。
たとえ皇位継承の儀式の前日であろうと――否、そうであるからこそ、片付けられる仕事はいまのうちに片付けておかねばならない。
(片付ける――か)
デキムスの双眸の奥で暗い炎がちらついた。
まもなく夜の帳が降りる。
ラベトゥルに率いられた刺客たちがルシウスのもとに向かっている頃合いだ。
彼らには二度までも失望させられているデキムスだが、今度という今度こそはという思いもある。失敗すればもう次はないのだ。刺客たちも死に物狂いとなってルシウスの首を狙うだろう。
アストリカでみせた見事な連携が再演されたならば、戎装騎士を抑えてルシウスを殺害することも不可能ではないはずだった。
いよいよ憎きルシウスの命運もこれまでかと思うと、デキムスは内心でほくそ笑まずにはいられない。
とはいえ、明日までは期待も歓喜もあくまで胸裡に留めておかねばならない。わずかでも疑われるようなことがあれば、これまで築き上げてきた皇帝の片腕としての立場さえも失いかねないのだから。
考えを巡らせながらも手際よく仕事をひとつ片付け、休む間もなく別件に取り掛かろうとした、まさにそのときだった。
「失礼いたします――旦那様」
ドア越しに入室の許可を求めたのは、デキムスに長年仕える執事だ。
主人の承諾を得ると、白髪の老執事はおずおずと部屋のなかに足を踏み入れた。
「旦那様にお会いしたいという方がみえておられるのですが、いかがなさいましょう?」
「客人だと? 見ての通り今は手が離せん。今日の夜はだれとも面会の予定はないはずだが、いったい誰が訪ねてきたというのだ」
「それが――」
執事はあっと声を上げたかと思うと、尻餅をついた。
気配もないまま背後に立たれたのだから、腰を抜かしたのも無理もない。
鉄仮面の怪人はまるで影法師みたいにするりとドアの隙間を抜けると、デキムスのまえに立った。
「ご機嫌うるわしく――元老院議長閣下」
「ラベトゥルか。貴様、ここで何をしている? まもなく予定の刻限ではないのか?」
「指揮はシュラムがおりますれば。ご心配なく、万事順調に進んでおります」
ラベトゥルは慇懃に言うと、音もなくデキムスのまえに進み出た。
「それで、いったい儂に何の用だ。吉報だけを持ってくればよいと申したはずだぞ」
「じつは先刻、私の手の者が重大な情報を手に入れたのです。一刻も早く閣下のお耳に入れる必要があろうとおもい、こうして推参した次第……」
「それはルシウスめに関することか?」
「ご明察――つきましては閣下、なにとぞお人払いを願いたく」
ラベトゥルに言われるがまま、デキムスは執事を部屋から追い出す。
老政治家と仮面の怪人は、机を挟んで差し向かいになった。
「仔細を記した文はこちらに……よくご覧くださいませ」
言いつつラベトゥルが懐から取り出したのは、厳重に封印された書状だ。
(人払いをさせておいて、今さら迂遠な真似をするやつ――)
デキムスは訝しげな面持ちで書状を手に取ると、慣れた手つきで封印を解いていく。
梱包はどうやら三重になっているらしい。あまりの仰々しさに呆れつつ、デキムスは最後の一枚に手をつけた。
書状が半ばまで見えたところで、ふいにデキムスの指が止まった。
「うぬっ……?」
反射的に指を書状から離そうとするが、叶わない。
半開きになった唇から呻吟を漏らしつつ、デキムスは視界が奇妙に歪みはじめたのをはっきりと自覚する。
振り返ってみれば、奇妙な感覚は二枚目の包みを取り去ったときから生じていた。疲れのせいと気にも留めなかったが、それは決して思い過ごしなどではなかったのだ。
「ラベトゥル――きさま、なにを……」
前後して、室内ににわかに漂いはじめたものがある。
それは、この世のものとも思われぬほど芳しい香であった。
まるでその場で香を焚きしめたみたいに濃厚な香気が立ち昇ってくる。
書状に香りをつけるという行為自体は、『帝国』の上流階級においてはさほど珍しいものではない。
あるいは微量の香水をふりかけ、あるいは香木の煙に燻し、開封と同時にほのかな香りが漂うように仕向けるのは、風流好みの貴族のたしなみとして定着している。
むろん、それもごく親しい間柄で交わされる私信にかぎってのことだ。
まして密偵の書状となれば、そのような趣向が凝らしてあるのは不自然の一語に尽きる。
違和感を感じながらもデキムスが開封の手を止められなかったのは、鼻腔をくすぐる甘やかな香に誘われたからにほかならない。それほどまでに蠱惑的な芳香であった。
「さすがはエフィメラが調薬した香水。効果は覿面と見えますな」
ラベトゥルはすっかり脱力して机に突っ伏したデキムスに近づくと、嘲笑うように言った。
「きさま……なにを……した……?」
「まだ口が動くとは、さすがは元老院議長。しかし、この期に及んでもご自分の置かれている状況が理解できないとは、頭のほうはだいぶ鈍っておられるようだ」
身動きの取れないデキムスをなぶりつつ、ラベトゥルは鉄仮面に覆われた顔を近づける。
細い覗き穴から血走った眼がデキムスを見下ろす。
「ルシウスの……さしがね……か?」
「いいえ? これは私が自分の考えでやっていること。しかし、閣下には安心していただきたい。予定どおり奴は始末する――いや、『奴も』と言うべきですかな」
ラベトゥルはくっくと小さく哄笑を漏らすと、デキムスの頭を掴み上げる。するどい爪が皮膚に食い込み、赤い筋がいくつも老人の顔を伝った。
声帯が麻痺しはじめたのか、声も出せぬまま呻くデキムスに、ラベトゥルはなおも続ける。
「ルシウスも、エンリクスも――そして元老院議長、あなたもだ。皇帝に最も近い血筋が一夜にしてこの世から消えるのです。これほど愉快なことはない」
愉悦に満ちた声で紡がれる苛烈な暴言の数々は、ラベトゥルの常軌を逸した嗜虐心を浮き彫りにする。
デキムスは何かを言おうと必死に口唇をひくつかせるが、すでに全身に回った香毒のため思うに任せない。
濁った視界のなか、焦点も定まらぬ目で仮面の男を睨めつけるのが精一杯だった。
「さあ、お出かけの時間です、議長閣下。まだ殺しはしませんよ。あなたとエンリクスには私たちの役に立っていただかなければ」
あからさまな害意を告げられてなお、デキムスの心に恐怖が生じることはなかった。
いまデキムスの心中に去来するのは、ただ自責と悔恨の念のみ。
ラベトゥルの本性を見抜けぬまま今日まで重用してきたのは、ほかならぬデキムスの責任だ。ルシウスへの憎悪がかれの眼を曇らせ、ついには致命的な破局をもたらしたのだった。
(許してくれ、エンリクス――)
次第に重さを増していく瞼の裏、最愛の孫の顔が浮かんでは消えていった。
数時間後――
ルシウスの逗留する岬の屋敷はにわかに騒然となった。
つい先ほど、近隣に住む漁師が持ち込んだ一通の文のためであった。
ごくありふれた書簡の体裁だが、奇妙なことにどこを探しても差出人の名は記されていない。
漁師に尋ねても、たまたま市場で会った男に配達を頼まれたと繰り返すばかり。
男は文とともに若干の礼金を漁師に渡すと、そのままいずこかへと立ち去ってしまったという。漁師は文が皇太子ルシウス宛てのものとはつゆ知らず、金を受け取ってしまった手前、不承不承ながらも屋敷まで届けにきたという次第だった。
不審と言えばあまりに不審である。
が、それ以上に衝撃的だったのは文の内容だ。
文に目を通したルシウスとヴィサリオンはともに息を呑み、しばらく重い沈黙が流れた。
――親王エンリクス・アエミリウスと元老院議長デキムスの身柄はわが掌中にある。両名を助けたくば、皇太子ルシウス・アエミリウス直々に参られたし。今夜ネヴァラの廃造船所にて待つ。
ネヴァラはパラエスティウムの南西十キロほどにある港町である。
かつてこの街には『帝国』海軍の造船工廠が置かれ、職工人とその家族が居住したことで街は非常な賑わいを呈していた。
もっとも、それも三十年ほどまえに造船工廠が別の場所に移されるまでのことだ。
基幹産業を喪った街は衰退の一途を辿り、いまでは海沿いのさびれた小集落として存続しているにすぎない。
そのような場所に、皇帝のただひとりの孫と、国家の最高権力者である元老院議長が囚われているという。
普通であれば、およそ信じるに値しない与太話として一笑に付すべきものだ。
「……ふむ」
ルシウスは片目を交互に瞑り、視線を文の上に往復させている。
どちらの眼で見直しても、末尾に捺された元老院議長の印章はまちがいなく真物であった。赤黒い印泥はどうやら血のようだ。
「殿下、これはどう見ても罠です。誘いに乗るのはあまりにも危険すぎます」
「余もそう思いたいが、あの男がこういう策略にエンリクスを利用できるとも思えん」
柔和な面立ちに険を浮かべて諫言するヴィサリオンに、ルシウスは苦笑しつつ答えた。
「デキムスめ、どうやら墓穴を掘ったな。おおかた余を殺すために得体のしれぬ者たちを自陣に引き入れ、いよいよという段でそやつらに裏切られたのだろう。我が叔父ながら浅慮にすぎる。指し手が駒に出し抜かれるとは、笑い話にもならん」
ルシウスはすっかり呆れ果てたといった様子でため息をつく。
「デキムスがどうなろうと奴の自業自得だが、問題はエンリクスだ。あの子まで巻き添えになっているとあれば、余としても捨て置くわけにはいかん」
「では、ネヴァラに向かわれるのですか?」
「こうなったからには致し方あるまい。騎士たちにはそなたから伝えおくがいい。すぐに出立する――ラフィカ、聞いたな?」
音もなく背後で扉が開いた。それは返答の代わりだ。
赤銅色の髪の従者は一切の気配を断ったまま、先ほどからずっとそこに控えていたのであった。
「馬車の用意は出来ていますよ。こんなことではないかと思ってましたから」
「まったく、悪い時の勘はよく当たる奴だ」
「どうせ勘が当たるなら悪い時のほうが役に立つでしょう?」
「おかげで余も長生きができそうだ」
軽口を叩きながら、ルシウスは慣れた手つきで剣帯を腰に巻いていく。
そして長剣を革の吊具に差し込むと、力強く一歩を踏み出した。
貴人にはおよそ不似合いな荒々しい挙措は、まぎれもなく戦場へ向かう男のそれだった。
「敵はまんまと罠に嵌めたつもりでいるだろうが、はたしてそう上手く行くものかな。虎口に飛び入ったのはどちらか、やつらに思い知らせてやるとしよう――」
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