第76話 その血を憎み呪う者
建物の内部には冷たい夜気が満ちていた。
いやにかびくさいのは、長らく訪れる人も絶えているためだ。
エンリクスが目覚めたのは、浜辺の片隅に打ち捨てられた廃墟の一室だった。
抜けかけた床板。海風にぎしぎしと軋りを立てる薄い壁。部屋を構成するすべてが、『帝国』でも指折りの貴人の寝所としてはおよそ不適格と思われた。
呼気に混じって口中にへばりついた塵埃のなんともいえない苦味に、エンリクスは「けほ」と小さく咳く。
覚醒とともに少しずつ鮮明さを増していく視界のなかで、少年は無意識のうちに祖父を探していた。
自室で休んでいたはずの自分がなぜこのような場所で目覚めたのか?
そもそも、ここはどこなのか?
次々と浮かぶそうした疑問も、敬愛する祖父の顔をひと目みればすぐに霧消するはずであった。
たとえここが地獄であったとしても、祖父と一緒であれば何も恐れることはない。
と、ふいに目の前の扉が開け放たれた。
エンリクスは一瞬期待に目を輝かせたが、それもつかの間のことだ。
「お目覚めですか、親王殿下――」
ラベトゥルはエンリクスの傍らに歩み寄ると、まるで歌うみたいな調子で言った。
灯りと言えば、破れた天井から差し込むかそけき月明かりばかりという薄暗い部屋のなかで、仮面の下の血走った目が浮かび上る。
それはまるで独自の意思を持った生き物みたいにエンリクスを見下ろし、視線だけで少年を嬲るかのようであった。
「おじいさまは……? おじいさまは、どこにいるのですか?」
「すぐ近くにおられますよ、殿下。いま会わせてさしあげます――」
言って、ラベトゥルは軽くかかとを鳴らす。
乾いた音が響くと、扉の向こう側で一塊の影がゆらいだ。
人影であった。
影はふらつき、脚を引きずりながら、ゆっくりと近づいてくる。
時おりかすかな呻き声を漏らすのは、肉体を苛む苦痛に耐えているためか。
きょとんとした様子でその挙動を見守っていたエンリクスだったが、影が近づくにつれて華奢な肩が震えはじめた。
「おじいさま――!!」
エンリクスが悲痛な叫び声を上げたのと、デキムスが崩折れるように膝を突いたのは、ほとんど同時だった。
力なく床に身を投げだしたデキムスには、もはや『帝国』を牛耳る最高権力者としての面影はない。
いまエンリクスのまえに引き出されたのは、おのれの血にまみれた哀れなひとりの老人であった。
年齢に不相応なほど逞しかった肉体も、こころなしか別人みたいに萎えてみえる。気力体力ともに尽き果てていることを思えば、あながち錯覚ではあるまい。
裂傷、擦過傷、
ぼろ布一枚をまとっただけの肉体は、頭頂から爪先まで余すところなく大小さまざまな生傷で埋め尽くされている。ただ一つとして致命傷に至っていないのは、むろん配慮などではなく、できるだけ長く苦痛を与えるためだ。
拷問者によほどの憎悪と嗜虐心がなければ成し得ない所業であった。
「エン……リクス……」
「おじいさま、どうして……誰がこんなことを?!」
大粒の涙で双眸を濡らしながら、エンリクスはラベトゥルを問い詰める。
「誰が? ――これは異なことをおっしゃいます」
「答えなさい! 知っているのでしょう!?」
「まだ分からないのですか?」
ラベトゥルはくっくと嘲るような笑声を立てながら、デキムスの顔を右手で掴み上げる。
「ご安心を、殺さぬ程度に加減はしてあります」
そして額に左手の爪先を這わせると、エンリクスの目の前であらたな傷がぱっくりと赤い口を開いた。
「やめなさい! やめて……」
「おやおや、あなたはまだ私に命令できると思っているのですか? すでにあなたがたの生殺与奪の権はこの私の手にあるのですよ。こんなふうにね――」
ラベトゥルはさらに二本、三本とデキムスの額に線傷をつけていく。
そのたびにデキムスは苦しげに呻吟し、エンリクスは無力感に打ちひしがれてただ涙を流すばかりであった。
「どうして……こんなひどいことを……」
「ひどい? あなたの一族がやってきたことに較べれば、この程度どうということもないでしょう」
それまで剽気ていたラベトゥルの声が急に低くなった。
「悪しき『帝国』が私たちに何をしてきたか。皇帝の血族がどれほどの罪を犯してきたか。幼子のあなたが知らないというなら、教えて差し上げましょう」
ラベトゥルの手が仮面にかかった。
音もなく外れた仮面の下から現れたのは、皮膚のない顔面だった。
顔面を縱橫に走る筋繊維がくっきりと浮き出ている。肉がぼこぼこと盛り上がり、表層部が黒茶に変じていることから、かなり古い傷であることは容易に見て取れる。
鼻梁も耳朶も口唇も、ごっそりと削ぎ取られた異相であった。
ラベトゥルは、恐怖のあまり顔を背けようとしたエンリクスの頭をむんずと掴み、決して目を逸らさせまいとする。
「よくごらんなさい。これがあなたがた一族、そしてこの国が犯してきた罪だ」
「やめて……おねがい……」
「私は生きたまま耳と鼻を削ぎ落とされ、顔の生皮を剥がれたのですよ。ちょうどあなたくらいの
互いに正対したままの姿勢で、ラベトゥルは滔々と語り続ける。
「嫌疑がまったくのでっち上げだったことが分かったのは、それから間もなくのことでした。たとえ疑いが晴れても、殺された一族は生き返らない。この顔も決して元に戻ることはない。何の罪もない者にここまでの仕打ちをしておきながら、この国はとうとう私に一言の詫びさえなかった――」
ラベトゥルの言葉がにわかに熱を帯びる。言葉を紡ぐたび、凄まじい怨嗟と憤怒の炎が迸るかのようであった。
「今夜ここで貴様らを鏖殺し、皇帝の血筋を絶やしてやる。忌むべき『
言葉を失って俯くエンリクスに、ラベトゥルはわざと甘い声で囁きかける。
「あなたには愛するおじいさまと叔父上の最期を見せてさしあげましょう。そうしてとびきりの苦しみと絶望を味わわせたあとで殺してあげます」
常軌を逸した執念と嗜虐心。ラベトゥルを衝き動かしているものは、その二つであった。
ラベトゥルは心身ともにすっかり憔悴しきった様子のエンリクスから手を離すと、ふたたび仮面をつける。
「さあ、来い、ルシウス・アエミリウス。あとは貴様が揃えば、宴の幕は開く――」
仮面の男は両手を広げ、彼方のルシウスにむけて語りかける。
その声に呼応するように、ラベトゥルの背後で十とも二十ともしれない怪しげな影が蠢いた。
潮が満ちるごとく、狂気と妄執が夜の浜辺を静かに満たしていった。
馬車は丘の上で止まった。
急制動をかけられた車輪が砂利を噛み、ぎしといやな音を立てた。
街はずれの小高い丘である。
まばらに繁った木々のあいだを縫うように視線を巡らせれば、夜の海と波打ち際を一望することができる。
かつては風光明媚な景勝地として人々の憩いの場となっていたこの海岸だが、いまではめったに訪れる人もない。
浜辺のそこかしこに放置された大小さまざまの廃船と、その奥に鎮座する巨大な廃造船所のためであった。
寄せくる波のほかにはしわぶきひとつ聞こえない静寂のなか、奇怪な廃墟群が暗闇に茫と浮かび上がり、あたりには異様な雰囲気が漂っている。
「なんかイヤな雰囲気……」
イセリアは馬車を降りつつ、心底うんざりした風に言った。
「見渡すかぎり家も灯りもないし、幽霊が出てくるのってこういう場所なんじゃない?」
「……幽霊ならまだいいがな」
周囲を警戒しながらアレクシオスは答える。
イセリアとはちょうど
「イセリア、オルフェウス、気を抜くなよ。少なくとも敵はまだ三人はいる。それぞれ違う武器を使う連中だ」
あの夜――
アストリカの旅籠でアレクシオスを襲った三つの武器は、いずれも熟練の域に達していた。無数の黒蝶によって視界がほとんど奪われていたとはいえ、実際に戦った感触から敵の技量を推し量ることは十分に可能だ。
それが実際にはただひとりの敵――シュラムが繰り出したものだとは、むろんアレクシオスは知る由もない。
古今東西、武器という武器の扱いに通じた歴戦の暗器使いだけが成しうる芸当であった。
広い天下には、剣と槍、矛と鞭というように、異なる種類の武器を使いこなす者は少なくない。
もっとも、そうした場合でも多くて二、三種類にとどまるのが常だ。ひとつの武器の扱いに熟達するのにも多大な努力を払わねばならない以上、実戦で通用する水準に到達するものが少なくなるのは当然だった。
槍、長剣、矛、弩、斧、弓、匕首、鎖鎌、棒……
いずれの武器もその道の達人以上に使いこなしてみせるシュラムは、まさしく異能の持ち主というほかない。
天下に並ぶ者のない暗殺者は、いまこの時も闇夜に紛れ、ルシウスと騎士たちを狙っている。
「アレクシオスってば、あいかわらず心配性なんだから。どんな敵が来たって返り討ちにしてやればいいだけよ!!」
「べつにおまえの心配はしていない。――殿下に何かあってからでは遅いからな。くれぐれも油断はするなと言っている」
「それはまあ……たしかにその通りだけど」
先ほどまでの威勢のよさから一転して、イセリアは口を濁す。
一行はすでに敵地に足を踏み入れている。どのような罠が張り巡らされているともしれず、いつどこで戦いの火蓋を切るかさえも敵の手に委ねられている。
それを思えば、アレクシオスが慎重を期すのも道理だった。
と、二人の会話が聞こえていたのか、車内から声がかかった。
「余の身を案じてくれるのはありがたいが、そなたらにはやってもらわねばならぬことがある」
ルシウスはあくまで鷹揚に言うと、貴人に似合わぬ身軽さで馬車を降りた。
「エンリクスはこの近くにいるはずだ。そなたらはあの子の救出に向かってくれるか。おそらくデキムスも一緒だろうが、あの男もついでに救い出してやってくれ」
「しかし、殿下!」
こともなげに言うルシウスに、アレクシオスは非礼を承知で食い下がる。
「お言葉ですが、殿下の御身をお守りすることが我らの務めです。どうあってもおそばを離れる訳には参りません」
「心配には及ばん――余の警護は万全である」
言って、ルシウスは夜空を指差した。
エウフロシュネーの姿はみえないが、ルシウスはその存在を前提に自身の安全を確信しているらしい。
「それに、ラフィカもついていることだ。そう護衛が多くては余も息が詰まる。そなたらは心置きなくエンリクスのところへ行くがいい」
「殿下がそのように仰せなら……」
アレクシオスもこれ以上ルシウスの意向に逆らうことは憚られたのか、ためらいがちに了解の意を示す。
その傍らには、はらはらしながら事のなりゆきを見守るイセリアに加えて、いつのまにかオルフェウスの姿がある。
ルシウスは三人の騎士たちの目をそれぞれ見据えると、闇に茫乎と浮かんだ廃造船所を指さす。
「そなたらは余の最も信頼する臣下である。だからこそエンリクスを任せられるのだ。行くがいい、騎士たちよ」
ルシウスが言い終えたが早いか、アレクシオスたちは一斉に駆け出していた。
騎士たちの背中は、またたくまに闇の奥深くへと沈んでいく。
ふいに強い風が浜辺を吹き抜けた。潮気とも血生臭さともつかない臭気をはらんだ風であった。
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