第77話 毒蟲の見た夢

 船にとっての地獄があるとすれば、おそらくこのような場所であろう。

 ネヴァラの町からすこし離れた海岸線に、それは屍となって横たわっていた。

 かつて造船所だったその場所は、いまや見る影もないほどに荒れ果てた廃墟へと成り果てている。

 船渠にうずくまる骨だけの鯨みたいな影は、建造途中で放棄された超大型船の残骸だ。残された骨組みの大きさから察するに、全長は百五十メートルを下るまい。

 マストを始めとする主要な部品はすっかり盗賊に持ち去られたが、その並外れた大重量ゆえに盗難を免れた竜骨だけがいまなお往時の威容を留めている。

 これがかつて全『帝国』海軍の旗艦となるべく設計された船の成れの果てだとは、はたしてだれが想像できるだろう?

 史上空前の巨艦は建造中から技術と資金の両面でさまざまな問題に見舞われ、ついに進水の時を迎えることなくその生を終えた。

 これほどの巨体となれば、当然解体に要する費用と手間も莫大なものになる。

 結果、造船所の廃止とともに船渠に放置され、以来吹き付ける潮風のなかで風化に身を任せているのだった。

 巨鯨の亡骸を思わせる廃船の奥底で、なにやら蠢くものがある。

 暗がりのなかに浮かんだ影はひどく小さい。子供と見紛うほどの矮躯だ。

 と、小柄な影がふいに顔を上げた。

 潰れたカエルみたいな、それはおそろしく醜怪な顔貌であった。

 ザザリはあたりをきょろきょろと見渡しつつ、黙々と手を動かしつづけている。

 何をしているのか?

 ほんのすこし視線を下に向ければ、その答えはすぐに知れた。

 ザザリの足元には、大人の手にすこし余るくらいの大きさの壺が置かれている。

 それも、ひとつではない。

 船底の床板には、ほとんど同型の壺が五つばかり並べられている。

 ザザリは先ほどから目の前に並べた壺に向かい合い、時おりその表面にやさしく触れてみたり、あるいはコツコツと軽く叩いてみるといった行動を繰り返している。

 その手つきは愛撫と呼ぶべきものだ。

 不可思議なことが起こったのは、ザザリの手が壺から壺へと移ったまさにそのときだった。

 すでに手は離れているというのに、壺のひとつがかすかに震えはじめたのだ。

 はじめは目の錯覚と思われた微振動は、次第にはっきりとした横揺れへと変わっていった。

 そうするあいだに、他の壺も振動の兆しを見せはじめている。奇妙な同調は、まるで壺から壺へと震えが伝染しているようでもあった。

 「おお……! や……やっと、目を覚ましたか?」

 ひとりでに動き出した壺たちを眺めつつ、ザザリは満足げに目を細めた。

 慈愛に満ちた微笑みと言うべきところだが、度を越した醜男にあっては、表情の変化は醜悪さに拍車をかけるだけだ。

 「おいらの大事な蟲たちよ……も、もうじき外に出してやるからな……」

 早くここから出せと言わんばかりに激しくのたうつ五つの壺に向かって、ザザリは我が子に語りかけるみたいに呟いた。


 儡蟲らいこ術――

 それは大陸のはるか南、絶海の孤島メノディアスに伝わる秘術。

 原住民の呪術師シャーマンのあいだで密かに相承されてきた禁断の呪法。

 そして、今となってはその存在を識る者もほとんどいない幻の術であった。

 『帝国』が推し進める入植政策によってメノディアス島の原住民は奥地へと追いやられ、緩慢な滅びを待つばかりとなっているためだ。

 原住民たちは支配者である西方人だけでなく、大陸からやってきた東方人にも強い憎しみを抱いている。彼らにとってはどちらも先祖から受け継いできた土地を奪い、我が物顔で故郷を闊歩する傲慢なよそ者でしかないのだ。

 その男が口減らしのために森に捨てられていたザザリを拾ったのは、たんなる気まぐれだったのかもしれない。

 あるいは――人の世に寄る辺なき者同士が引き寄せあったためか。

 男は呪術師シャーマンだった。

 原住民の社会において、それは儡蟲術の使い手であることを意味している。

 もともと儡蟲術は虫を通じて自然界と交信し、霊感を得るための手段として発達したものだ。虫を操る技術はあくまで副産物であり、儡蟲術という呼び名自体、『帝国』の博物学者が便宜上そう名付けたにすぎない。

 男はザザリを育てながら、儡蟲術師としての知識を惜しげもなく授けた。

 修行は厳しく、時には容赦ない暴力が吹き荒れた。それでもザザリは逃げようとはしなかった。醜い容姿のために両親にさえ疎まれ、誰からも相手にされなかったザザリにとって、男は生まれて初めてまともに向き合ってくれた人間だった。

 あるとき、なぜ捨て子の自分にこんなことを教えるのかと問うたザザリに、

 ――おまえという毒蟲を育てているのさ。

 男はこともなげに言ったのだった。

 男がザザリに教えたのは、大自然と心を通わせる方法ではなく、虫を用いた実戦的な暗殺術だった。

 昆虫のなかには一刺しで人間を死に至らしめる猛毒を持つものも少なくない。そんな虫たちを自由に操ったならば、他のどんな武術よりも安全かつ効率的に殺人を行うことが出来る。

 ザザリに恐るべき技術の数々を叩き込み、一匹の毒蟲として世の中に解き放つ。

 それこそが男の目的であり、滅びゆく者としての最後の抵抗だった。みずからの手で鍛え上げた愛しい毒蟲によってあの忌々しい『帝国』に、憎むべきよそ者たちの世界に、すこしでも傷をつけられれば。

 ――おまえが俺の教えた技で大勢殺してくれるなら、こんなにうれしいことはないよ。

 ザザリは男の教えを貪欲に吸収し、十三歳になる頃には儡蟲術師としてひと通りの技術を習得していた。

 虫の卵の採取から餌の調合、越冬の手順、それぞれの種ごとに異なる手懐けかた……帝都の学者でさえ舌を巻くほどの浩瀚な知識を、ザザリはすらすらと暗誦してみせる。

 ――もうおまえに教えることは何もなくなってしまったな。

 安堵したように言ったあと、男はザザリに離れているよう命じた。

 そして、どこからか持ち出した壺を自分の周囲に並べ始めたのだった。

 壺は全部で五つ。どれもただならぬ鬼気を放っていた。

 ――この虫はまだ人間の味を知らない。人間の味を知らない虫は、殺しには使えない。

 やめろ、と叫ぶ前に、男の手は壺の蓋にかかっていた。

 ――おまえに最後の贈り物だ。

 それがザザリが聞いた男の最後の声だった。


 「ま……待ってろ。い、いま出してやる……」

 ザザリが蓋を取ると、壺のなかからぬうっと這い出てきたものがある。

 平べったい体躯が激しくのたうつのは、ようやく外界に出られた歓びのためか。

 異形の虫であった。腹部でわさわさと蠢く無数の脚と、兜のしころを彷彿させる段付きの体節から、どうやら百足ムカデの一種らしい。

 「らしい」というのは、その体躯が大陸に生息するいかなる近縁種よりも巨大であるためだ。

 まだ身体の大半が壺のなかに留まっているため全貌はさだかではないが、這い出ている分だけで三十センチあまり。全長は確実に一メートルを超えるだろう。

 咀骨虫ほねがみむし――

 メノディアス島に生息するさまざまな昆虫のなかで、これほど人々に恐れられたものもほかにない。

 肉食性の昆虫のなかでも、こと獰猛さと食欲のつよさに関して咀骨虫の右に出る種は絶無だった。

 飽くなき食欲の対象は他の昆虫のみならず、魚や鳥類、果ては牛や馬といった大型動物にまで及ぶ。

 とくに島において最も数の多い大型動物である人間は、咀骨虫にとって何よりのごちそうだった。子供や女性だけではない。かつては大人の男が襲われ、なすすべもなく喰い殺されることもけっして珍しくはなかった。

 「骨を咀む虫」と呼ばれるのは、この虫が目撃されるときには決まって屍体の骨に齧りついているためだ。

 べつに骨を好んで食するという訳ではない。肉や内臓といった軟部組織が早々に喰らい尽くされるのに対して、骨は咀嚼に時間がかかるため、人の目につきやすいというだけにすぎない。

 皮肉なことに、昆虫にあるまじき凶暴さは種としての破滅を招くことにもなった。

 骨咀虫を恐れた入植者たちは生息地の山林を徹底的に焼き払い、卵や幼虫は発見次第殺された。懸命の駆除の甲斐あって、現在ではメノディアス島でもほとんど見かけることはなくなっている。

 いま、ザザリの前に姿を現したのは、彼の育ての親である呪術師を喰らって成長した個体だ。種全体でも最後の生き残りといってよい。

 山奥の洞窟をねぐらにしていた虫たちは、ザザリの手でふたたび壺に収められ、はるか遠方の大陸本土まで運ばれてきたのだった。

 壺に収められているあいだは仮死状態に置かれていたことは言うまでもない。

 「なあ――お、おまえら、腹ぁ減っただろう?」

 ザザリが声をかけると、咀骨虫はゆっくりと近づいてきた。

 眼というものを持たない虫である。もともと地中に生息していたため視覚を必要とせず、かわりにすぐれて発達した触覚と聴覚、そして嗅覚を頼りに獲物を探し出す。

 じゃれつくみたいに自分の足に巻き付いた虫の頭を、ザザリは愛おしげに撫でる。

 長い休眠から醒めたばかりの虫は、まさしく空腹の極みにある。

 餌ならばどんなものだろうと食らいつきたくてたまらないはずであった。

 にもかかわらず、獰猛な虫はまるで母親の胸に抱かれた赤子みたいにおとなしく撫でられている。

 虫がザザリに情愛を抱いている訳ではない。虫はあくまで本能に従って行動するだけだ。その本能を逆手に取り、虫を自在に操るのが儡蟲術の本質なのだ。

 もし雌虫の体表から分泌される体液をあらかじめ全身に塗布していなければ、ザザリは餌と認識されて食い殺されていたはずであった。

 「待ってろ……すぐに、腹いっぱい、く、食わせてやるからな」

 言って、ザザリは懐から一枚の布切れを取り出す。

 正真正銘、何の変哲もない布切れであった。

 いつのまにか周囲には他の壺から這い出た咀骨虫が集まり、合わせて五匹が不気味に体節をくねらせている。

 ザザリは一匹一匹、虫たちの鼻先に布切れを押し当てていく。

 匂いを覚えさせているのだ。

 布切れには標的の匂いが染み込ませてある。

 老若男女を問わず、人間は誰しも固有の匂いをもっている。

 アストリカでの夜、ルシウスの身体に触れた羽虫たちはを持ち帰った。ザザリはエフィメラの助けを借りて匂いを薬液に溶かし込み、虫たちの道しるべを作り出したのだった。

 人間にとっては無臭でも、肉食昆虫の嗅覚には強烈な刺激となるはずだ。

 盲目の虫たちは匂いに誘われ、暗闇に標的への道を見出すはずだった。

 接触はほんの数秒で終わった。五匹の虫が匂いを記憶したのを見計らって、ザザリが布切れをそっと離したのだ。

 「お……おまえたち、い、行け――ご、ごちそうが、待っているぞ!!」

 ザザリに命じられ、虫たちは一斉に廃船の外へと移動を始めた。

 よく躾けられた猟犬もかくやという従順ぶりだが、こちらは知性らしい知性など欠片も持ち合わせていない虫である。どちらが難しいかは言うまでもない。

 「こ、これで奴らもおしまいだ……ほ……骨まで食い尽くされちまうがいい……」

 ザザリはすべての咀骨虫が匂いの根源に向かっていったのを確かめると、みずからも船底の裂け目をくぐって外に出た。

 当然というべきか、深夜の造船所跡には人の気配はなかった。

 月のない夜であった。あたりに放置された数十隻になんなんとする廃船の群れは、まるで闇が凝結したみたいに黒く塗りつぶされている。

 海からは強風が絶えまなく吹きつけ、浜辺に濃厚な潮の匂いを運ぶ。それは血の匂いによく似ていた。

 ザザリは二、三歩進んだところで、ふいに地面に身を投げた。

 醜い顔を真横に向け、耳をぴったりと大地につける。耳殻を通してどろどろと遠雷みたいな響きが伝わってくる。

 馬蹄と車輪が入り混じった音。

 馬車とみてまちがいない。

 音が次第に大きくなっているのは、こちらに近づいてきているためだ。

 ザザリは間近に迫った戦いの予感に身を震わせる。あと十分と経たないうちに、夜更けの廃造船所には酸鼻きわまる地獄絵図が広がるはずであった。

 と、ザザリはふいに背後を振り向いた。

 背筋に奇妙な寒気が走ったためだ。

 ぼんのくぼに突然氷の塊を当てられたような、それはなんとも形容しがたい感覚であった。

 「だ……だれかそこにいるのか?」

 おもわず誰何してみるが、振り向いた先には塗りつぶしたみたいな闇が広がるばかり。

 海鳴りのほかに音もなく、見渡すかぎりの浜辺はしんと静まりかえって人影もない。

 (き、気のせいか……?)

 ザザリがふたたび前を向こうとしたそのときだった。

 ふいに足元に転がってきたものがある。闇のなかから生じたように、それは突然視界に投じられたのだった。

 「……?」

 ザザリは剥がれ落ちた船の部品が風に飛ばされたのだろうと考え、念のためそれを拾い上げようとする。

 乾いた木板かなにかであるはずのは、しかし予想外の感触を彼の掌にもたらした。

 はまぎれもなく生物の断片であった。

 ぬちゃり、と糸を引いたのは、切断面から滴るぬるい体液だ。

 「ひいぃっ!!」

 ザザリは小さく悲鳴を上げ、わずかに後じさる。

 暗闇に順応しはじめた目は、がなんであるかをはっきりと認識していた。

 凶猛な歯列と、肉食獣と見まごうばかりの昆虫離れした強靭な顎。それはまちがいなく咀骨虫の頭部だ。

 咀骨虫はメノディアス島にだけ生息する希少種である。

 隔絶された孤島の奥地にのみ生息するこの虫は、たとえなにかの拍子に外部に持ち出されたとしても、大陸の冬を越すことはできない。

 先ほどザザリが放った虫がこの広大無辺な『帝国』本土に生息するすべての骨咀虫であるはずであった。

 その一匹が屍となってかれの前に放られた事実が意味するところを、ザザリはたちどころに理解した。

 「だ、誰だ! そ……そこに、い、いるのは!?」

 吃音りながらも、ザザリは暗闇に向けて声を張り上げる。

 「お、おいらの虫を……よ、よくも、殺したな! 姿を見せろ、ひ、卑怯者!」

 ザザリの指はすでに外衣の下に忍ばせた虫壺の蓋にかかっている。

 壺のなかには、人間の肉を好む殺人蟻が眠っている。これもやはりメノディアス島にのみ生息する珍種だ。

 その凶暴さたるや、当のザザリでさえ壺の開封と同時に女王アリの生殖腺から抽出した保護液を撒かねば食い殺されるほどであった。

 この保護液は揮発しやすいために事前に散布することはできず、ふだんは虫壺と共に携行している小瓶に収められている。

 右手の指は虫壺に、左手の指は保護液を収めた小瓶にかけながら、ザザリはふうふうと荒い息を吐いた。

 儡蟲術師にとって、敵との対峙は最も避けるべき事態である。

 ザザリが暗殺者として裏社会に身を投じて以来、現在までに屠ってきた標的は百人以上にのぼる。

 その輝かしい経歴において、迂闊にも敵に姿を晒したことは一度たりとてないのだ。完璧に仕事をこなしてきたザザリにとって、敵との遭遇はこれが正真正銘はじめての経験だった。

 どこまでも均質にみえた闇の色がふいに変じた。

 はじめは染みのようであったそれは、またたくまに人の形を取っていく。

 やがて立ち現れたのは、異形の人型――暗闇をまとってなお鮮やかな蒼色の装甲に鎧われた、有翼の戎装騎士であった。

 蒼騎士はゆっくりとザザリに近づいてくる。

 その手に握られたものを認めたとき、ザザリの全身から血の色が退いた。

 「お、おま、おまえ、おまえ……虫、お、おいらの虫……」

 蒼騎士――エウフロシュネーの両手には、引きちぎられた骨咀虫の残骸が握られていた。

 声帯をもたない虫たちは、悲痛な断末魔を上げることもなく殺し尽くされたのだった。

 それも、ザザリの手を離れて三分と経たぬうちに――。

 「ダメだよ、こんな危ない虫を野放しにしたらさ」

 エウフロシュネーはこともなげに言うと、もはや原型を留めぬほどに破壊された骨咀虫の断片をザザリに放った。

 先ほど投げ込まれた一匹と合わせて、ザザリはみずからが放ったすべての虫が死に絶えたことを悟る。

 育ての親を喰われ、それでもなお慈しみを込めて育てた虫たちであった。

 島を出てからというもの、虫壺は肌身離さず持ち歩いていた。天涯孤独のザザリにとっては家族以上の愛着がある。

 醜怪な矮躯がぶるぶると震えはじめたのも道理であった。

 身のうちから湧き上がる怒りは止めどもなく、憎悪が小さな身体のなかで激しく渦を巻く。

 「こ、殺して……やる――!!」

 煮えたぎった気血は、どす黒い呪詛となってエウフロシュネーに放たれた。

 すでに右の指は虫壺の蓋を放ちつつある。左の指で封を解かれた保護液がかれの身体にまぶされれば、眠りから覚めた殺人蟻はエウフロシュネーただひとりに殺到するはずであった。

 次の瞬間、保護液の瓶はザザリの左手から忽然と消え失せていた。

 同時に、ザザリの前面にいたはずのエウフロシュネーは、いつのまにか彼の背後に立っている。

 蒼騎士は恐るべき速度で傍らをかすめ、二つの身体が交錯する一瞬に保護液が満たされた小瓶を抜き取ったのだ。

 時間さえ凍てつかせるオルフェウスの神速には遠く及ばぬものの、常人にはとても捕捉できない速度で駆け抜けたことにはちがいない。

 「お、おまえ、なにを――」

 「……ごめんね。でも、これが私の仕事だからさ」

 エウフロシュネーはいかにもすまなげにつぶやくと、そのまま踵を返す。

 ザザリはその背に追いすがろうとして、ふと脇腹のあたりに奇妙な熱を感じた。

 とっさに外衣を脱いだ時には、熱はすでに別の感覚へと変わっていた。

 ザザリの足元にぽつりぽつりと落ちたのは、まぎれもない鮮血であった。

 「あ? あ、ああ……」

 みずからの腹部で蠢く無数の蟻たちを認めて、ザザリは悲鳴とも嗚咽ともつかない声を漏らした。

 小瓶を抜き取った一瞬に、エウフロシュネーは脇腹に吊るされた虫壺を叩き壊していたのだ。

 長く壺のなかで仮死状態に置かれていた殺人蟻にとって、目の前に差し出された人体は極上のごちそうにほかならない。

 巨大な骨咀虫に較べればずっと小さく非力だが、その貪欲な食性は甲乙つけがたい。数が多い分、危険の度合いでは勝ってすらいるだろう。

 封印を解かれた殺人蟻の群れはすでにザザリの皮膚と脂肪を食い破り、腹腔内になだれ込んで内臓を喰らいはじめている。

 虫のすべてを知り尽くした儡蟲術師といえども、こうなってはもはや助かる方法はない。

 臓器という臓器を喰らい尽くされたあと、残った皮膚も脳も骨も、みずからが育んできた虫への供物として捧げる運命が待っている。

 熱帯を生息域とする蟻たちも、昼夜の寒暖差に耐えきれずに数日のうちに死に絶えるだろう。

 ザザリは膝から崩折れると、しきりに血泡を吐いた。

 失血はとりもなおさず生命力の喪失を意味する。水桶一つほどの血を喪った彼にはもはや言葉を発する力さえ残っていない。

 (……死ぬ……ここで……死ぬのか)

 呼吸は次第に浅くなり、鼓動はすこしずつ弱まりつつある。

 最期の時が近づいている。

 朦朧とする意識のなかで、ザザリはひとつの顔をみた。

 それはかつて自分を捨てた肉親でも、最後の仕事を共にした仲間たちでもない。

 深い森のなかで死を待つばかりだったおのれを受け入れてくれた、この世でただ一人の人間。

 生前は決して見せることのなかったやわらかな表情を浮かべ、呪術師の男はザザリを抱き寄せる。

 覚めることのない幸福な幻のなかで、ザザリはゆっくりと瞼を閉じた。

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