第78話 魔女の来た道
長い爪で軽く弾くと、
ふたつ、みっつと続けて机上に並べた小瓶を爪弾けば、泡みたいに儚い音が生じては消えていく。
浜辺に打ち捨てられた漁師小屋の奥で、エフィメラは最後の仕上げに入っていた。
”仕事”のまえにこうして瓶を弾くのは、彼女の昔からの癖だった。
一連の行為にとくに意味があるわけではない。人が事に臨むにあたって意欲を高めるためのジンクスは、往々にして実利とかけ離れているものだ。
それでも、精神を落ち着け、集中力を高めるという意味では、エフィメラにとって欠かせない儀式であった。
人差し指ほどのちいさな瓶の内部には、それぞれ異なる色の薬液がみっちりと充填されている。
赤の薬は、四肢を麻痺させる神経毒。
白の薬は、五感と精神をまどわす幻覚毒。
青の薬は、男女の別なく欲情を狂おしいまでに刺戟する媚薬。
紫の薬は、わずか数滴で巨象をも死に至らしめるおそるべき劇毒。
すべてエフィメラが素材から選び抜き、最高の効果を発揮するように調合した自家製の薬剤だった。
東方では古来より本草学が隆盛していたこともあり、いまも全土に数多くの薬師が存在している。
一般的な薬師が作り出す薬はその時々の材料の質や環境によって出来不出来があり、効能にもそれなりのぶれがあるのが常だった。
それに対して、エフィメラが作成した薬は凡百の薬師のそれとはあきらかに一線を画している。
いかなるときも安定した品質を保ち、ひとたび人体に取り込まれれば常に期待通りの効果を発揮する――
薬品の製造が工業化された時代であれば、至極当たり前のことだ。
だが、製薬のすべての工程を個人の技量に頼っていた時代にそれを実現できるのは、文字通り天賦の才に恵まれた者だけであった。
薬作りに関してエフィメラはまぎれもない天才だった。
当人の素質もさることながら、血の影響も軽視できない。
先祖から連綿と受け継がれてきた薬師の血脈――その末端にエフィメラはいるのだ。
エフィメラの父は、皇帝お抱えの宮廷薬師長だった。
もともと郷里で天才として知られた彼は、東方人でありながら稀有な才覚を見込まれて帝都に召し出され、以後めきめきと頭角を現したのだった。
――かの者の調薬、万病に効あり
エフィメラの父の評判は、やがて帝都のみならず国じゅうに知れ渡るに至った。
多くの医師が匙を投げた難病をいともたやすく根治してみせたことで、薬師としての名声はいよいよ高まり、ついには皇帝の寵を得るに至った。
支配階級である西方人の妻を娶ったという事実からも、彼が当時の宮廷でいかに重用されていたかが窺い知れる。東方人と西方人との通婚が一般的に禁忌とされていた時代にあって、それはまさしく異例の出来事であった。
薬師として望みうる最高の富と名声だけでなく、最愛の妻子まで手に入れた。
彼はまさしく幸福の絶頂にあった。
だが、そんな栄光の日々も長くは続かなかった。
いかに傑出した薬師といえども、すべての患者を救えるわけではない。
彼が担当していた多数の患者のうち、さる名家の当主はついに薬石効なく世を去った。
もともと手の施しようがないほど病状が悪化していたことに加えて、再三の指導にもかかわらず酒癖を改めなかったためだ。それでも本来の寿命を三年以上も伸ばしたのは、薬師としての類まれな技量の賜物だった。
問題は患者の遺族だった。
薬師としての懸命の努力を理解しなかっただけでなく、あろうことか逆恨みの暴挙に出たのだ。
患者の救命に手を尽くさなかったばかりか、わざと病状を悪化させるよう仕向けたと大法院に告発したのである。
大法院は『帝国』の司法の最高機関である。そのような理不尽な訴えは、本来であれば濫訴として即座に退けられるはずであった。
しかし――破局は予想外の方向からやってきた。
部下の宮廷薬師たちが揃って遺族の側についたのだ。
東方人が幅を利かせるのを快く思っていなかった彼らはひそかに結託し、ここぞとばかりに大法院に働きかけたのだった。すべて事実無根の虚言であったが、司法の側としても彼らの訴えを無視するわけにはいかなかった。
ついにエフィメラの父が法の庭に引き出され、罪人として裁かれる日がきた。
彼は終始みずからの身の潔白を訴えたが、必死の弁明はことごとく無視され、ごく手短な審判の末に死罪が言い渡されたのだった。
すべては予定調和であった。
のちにそれまでの功績に免じて死一等は減じられたものの、すべての官職と称号の剥奪、さらには一切の財産の没収が言い渡された。
それは暗に自決の強要を意味している。
すでに汚名は世間に知れ渡り、生き延びたところで死よりもつらい余生が待っている。
父がみずから調合した毒薬をあおったのは、エフィメラが九歳のときだった。
稀代の天才薬師である父ならば、苦痛もなく即死できる毒を調合することはたやすいはずであった。あえて苦痛が長時間にわたって持続し、無残な姿となって絶命するように毒を調合したのは、みずからの運命への呪詛にほかならない。
幼いエフィメラは、愛する父の苦痛に満ちた最期を間近で見届けたのだった。
ほどなくして、母も父の後を追うように死んだ。極度の精神的苦痛から心身を病み、赤貧のなかで迎えた最期であった。
わずか十歳にして天涯孤独の身の上となったエフィメラの胸に沸き起こったのは、愛する父母を奪った者たちへの憎悪だった。
幼いころから父の後継者として英才教育を受けてきた彼女である。戦うための武器は、すでにその血のなかに備わっていた。
両親を喪ったあとも独学で研鑽を積み、十四のころには、エフィメラは並の薬師を寄せ付けない知識と技量を兼ね備えた才媛へと成長を遂げていた。
むろん、父が不名誉きわまりない形で公職を逐われている以上、どれほど技術があっても薬師として表立って活動するわけにはいかない。
エフィメラがみずからの居場所として選んだのは、光の届かぬ裏の世界だった。
中毒者から搾取するための麻薬の精製にはじまり、暗殺者には毒殺用の劇薬、娼婦には堕胎薬、果ては表の医師には診せられない患者の治療……
裏の世界でエフィメラは引く手あまただった。もともと裏社会に闇医者や闇薬師は少なくないが、かれらの大部分は表の世界では通用しない素人同然のモグリであり、一旒の腕をもつ術者はことのほか重宝がられたのだ。
十八歳のころには、『東』の裏社会でエフィメラの名を知らぬものはなくなっていた。
いつの頃からか、その美貌と卓越した手腕を讃えてこう呼ばれるようになった。―― ”魔女”と。
だが、有り余るほどの富を手にしてなお、エフィメラの心は満たされなかった。
父と母を死に追いやった者たちへの復讐。
無実の人間を罪に陥れておきながら、今なおのうのうと生を謳歌している者たちへの怒りを忘れたことは一日とてなかった。
虚偽の告発を行った貴族や父の部下たちに向けられていたエフィメラの激情は、やがて『帝国』という国家そのものへと向けられていった。
それも当然だ。父はこの国の歪んだ構造によって殺されたも同然なのだ。
あのとき、大法院がああまで一方的な裁定を下したのは、東方人でありながら名声を得た父を疎ましく思っていたためだ。判決を下した司法官たちは、いずれも名門の出であり、純粋な西方人であった。
彼らは、おのれの身の程を弁えない不遜な東方人に罰を下したつもりだったのだろう。たとえそれが根も葉もない
東方人の血を引くエフィメラにとって、それは到底許しがたいことだった。
みずからの手で両親を殺した者たちを地獄に送ってやりたい。
燃えさかる復讐心を身のうちに抱きながら、しかし、エフィメラはどうすることもできなかった。
みずから光差さぬ世界に身を投じた以上、もはや表の世界で生きていくことはできない。
まして復讐の対象はいずれも名だたる名門である。女一人で立ち向かうにはあまりに強大な敵だった。
憎しみを胸に秘めたまま、鬱然と日々を過ごしていたエフィメラだったが、ふいに舞い込んできた仕事が彼女の運命を変えた。
皇太子ルシウスの暗殺――
あまりに大それた企みだが、仮に成功すればその影響は計り知れない。
次期皇位継承者を失えば、『帝国』はかつてないほどの混乱に陥るのは確実だ。
あるいは、西方人に偏重した現在の国家体制を揺るがす契機となるかもしれない。
エフィメラは一も二もなく承諾した。未来の皇帝を手をかける罪の重さはむろん理解している。
だが、たとえすべてを喪ったとしても、いまさら何を惜しむことがあるだろう?
あの日を境に、大切なものはことごとく壊れ果ててしまったのだから――。
「……これでいいわ」
エフィメラは誰にともなく呟くと、色とりどりの液体に満たされた小瓶を懐に収める。
毒とは、すなわち形を持った
具象化された死をみずからの手で作り出し、それを用いて人を殺すという行為に、エフィメラは並々ならぬ執着を抱いていた。
自分が生み出した毒が、だれかの生命を奪う――
それは、エフィメラにとってこの上ない快楽であった。直接手を下さずとも、人づてに成果を聞かされるたび、腰の奥がじわりと蕩けそうになる。
いま、父母の無念を晴らせる喜びと、『帝国』の最重要人物を葬り去る愉悦のあいだで、エフィメラの官能は狂わんばかりに燃え上がっている。
白い肌はにわかに上気し、美しい顔には玉の汗が浮かぶ。時おりまるでひと走りしてきたみたいに荒い息をつくのは、興奮の兆候であった。
と、エフィメラはふいに服を脱ぎはじめた。
衣擦れの音に続いて、暗闇に白い裸身が浮かび上がる。
西方人の白皙の肌、東方人の均整の取れた肢体……東西の血を引くエフィメラの身体は、二つの血が入り混じった妖艶な美に彩られている。
鞄から取り出した瓶から薬液をたっぷりと掌に取り、そのまま身体の隅々まで丹念に塗り込めていく。
それは、小瓶に収められたものとは別種の媚薬だ。房事に用いられる薬剤のうち、とくに男を狂わせる成分がたっぷりと含まれている。
それを直接地肌に塗り込めることで、エフィメラはみずからを毒壺と化すつもりだった。
女としての至上の肉体――それこそがエフィメラの最後の切り札であった。
皇太子ルシウスといえども、所詮は一人の男にすぎない。
男であるかぎり、本能の前には無防備な姿を晒さずにはいられないはずだった。
欲情を煽り立て、理性を奪い、手玉に取った末にその首を取る――
『帝国』の次期皇帝がみずからの腕の中で息絶えるさまを想像し、エフィメラはぞくぞくと快楽に身を震わせる。
だが、果たしてそこまで辿り着けるかどうか。
まずはザザリが虫を放ち、護衛もろともルシウスを喰らい尽くす手はずになっている。今しがた塗り込めた媚薬には、虫からエフィメラの身を守るための成分も含有されているのだ。
エフィメラが出向くのは、何らかの理由でザザリがルシウスを仕留めそこねた場合だった。
どちらの場合でも、ルシウスが当夜のうちに死を遂げることには変わりない。
『帝国』の皇太子には似つかわしくない無残な末路。それでも、エフィメラには欠片ほどの同情心もない。
残る気がかりといえば、ルシウスが護衛として引き連れている異形の騎士たちだが――
目下の最大の脅威である騎士たちには、ラベトゥルとシュラムが然るべき手を打っているはずであった。
ラベトゥルは騎士をルシウスから引き剥がす策があると言っていた。どのような策を用意しているにせよ、エフィメラとしては信じるほかない。
そして、刺客のなかで最強の戦闘力をもつシュラムならば、ルシウスを暗殺するまでの時間稼ぎは十分に果たしてくれるはずであった。
十分な薬剤を肢体に染み込ませたことを確認し、エフィメラは脱ぎ捨てた衣服をふたたび身につける。
朽ちかかった漁師小屋の扉を開くと、生ぬるい海風が頬を撫ぜた。
肌に絡みつくような風であった。沖合が時化ているときには、決まってこのような重くねばっこい風が吹く。
これからエフィメラが執り行う術には最も好ましい風だった。
ふっと口辺に艶然たる微笑が浮かんだのは、半ば成功を確信したためだ。
風向きを周到に確かめると、エフィメラは砂浜を一望する丘を目指して歩きはじめた。
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