第45話 東の皇子
「おじいさま、どうしたの?」
ふいに背後から投げかけられた幼い声に、デキムスははっとして振り向いた。
庭に面した屋敷の縁側には、篝火に照らし出された大小の影がぼんやりと浮かんでいる。
大きいほうの影は屋敷の侍女だ。
主人にひどく叱責されると思っているのだろう。身体を震わせ、すっかり恐懼している様子が遠目にも見て取れる。
小さいほうの影に目を向ければ、こちらはまだ七つばかりの少年だ。
淡い金色の巻き毛と、つぶらな青い瞳が印象的な美童であった。
愛らしいだけではない。整った目鼻立ちには類まれな貴相がはっきりと現れている。
少年は侍女の怯えた様子を機敏に察してか、庇うように一歩進み出ると、デキムスに問いかけた。
「ねえ、おじいさま、この人たちはだれ?」
「
「教えてくれるまで戻りません」
あくまで強情な少年に、デキムスはどうにも返答に窮してしまった。
まさかデキムスが雇い入れた刺客であるとは知る由もないが、好奇心旺盛な少年は奇妙な風体の客人に興味津々らしい。
デキムスはしばし思案を巡らせたのち、ゆっくりと言い含めるように少年に語りはじめる。
「よく聞きなされ、皇子よ。この者たちは皇子の御身をお守りし、敵を討ち滅ぼしてくれる心強い味方だ」
「おじいさまの家来なの……?」
「儂も皇子の家来の一人だ。この者たちは皇子の家来でもあると思われよ」
「家来ではありません。おじいさまは、おじいさまです」
少年は物怖じするでもなく、あっさりと言ってのけた。
たとえ血の繋がった親兄弟であろうと、『帝国』皇族の厳格な序列に従って臣下の礼を取らざるをえない。
幼い少年は、そんな権力のからくりを理解しているのかどうか。
「皇子よ、近々大事な用事があると申したであろう。そのためにも御身には健やかであってもらわねば困る」
「パラエスティウムに行くのでしょう? ――ルシウス叔父上も来るかな」
少年がその名を口にした途端、デキムスの表情が険しくなった。
「さて……どうであろうか」
「来るといいな。叔父上は『西』のお話をたくさん聞かせてくれたもの。続きはまた今度会った時に話してくれると約束してくれました」
「……皇子よ、約束と言うが、先々のことなど誰にも分からぬものだ。あまり期待はされぬがよい」
「ルシウス叔父上は約束を破るような方ではありません!!」
力強く言い切った少年に、デキムスはもはや何も言わなかった。
ただ、華奢な身体を抱き寄せ、みずからの体温を移すように抱擁したのだった。
「皇子よ――我が愛しいエンリクスよ。どうか寝所に戻っておくれ。この爺には、もうおまえしかおらぬのだ」
切々と述べる言葉には、かすかな嗚咽が混じった。
少年――エンリクスも、祖父のただならぬ様子に感じるところがあったのか、先ほどとは打って変わって素直に頷いてみせる。
エンリクスが侍女に手を引かれて屋敷のなかに消えたあと、デキムスはふたたび庭に居並ぶ刺客たちの方へ顔を向けた。
つい先ほどまでの慈しみに満ちた表情はすっかり消え失せている。
デキムスの顔に浮かんでいるのは、悪鬼羅刹もかくやという凄絶な形相であった。
「そなたらも見たであろう。あの御方こそが皇孫エンリクス・アエミリウス・シグトゥス。亡き皇太子マルクス・アエミリウスの遺児にして、『帝国』の唯一正統なる皇位継承者である!!」
デキムスは炎を吐くみたいな勢いで吠えた。
とりわけ正統という言葉には並々ならぬ執念が漲っている。
「我が皇子のため、偽りの皇太子ルシウス・アエミリウスにはなんとしても消えてもらわねばならぬ。たとえ我が兄たる皇帝の意向といえども、奴が皇位に就くことなど絶対にあってはならぬのだ!!」
「我らにおまかせいただければ、手抜かりなく仕留めてご覧にいれましょう」
すかさず応えたのは、いつの間にかデキムスの傍らに移動していた鉄仮面だ。
「なあ元老院議長閣下よ――ひとつだけ聞いてもいいか?」
アウダースがだしぬけに口を開いた。
「この国じゃ皇帝の血筋を手にかけるのは重罪だ。下手人が死罪になるだけじゃなく、親類縁者まで徹底的に根絶やしにされる……」
「……何が言いたい?」
「そのルシウスとかいう野郎をブチ殺すのは簡単ですがね。問題はその後だ。俺たちの身の安全はどうなっているのか気になったんですよ」
「案ずるには及ばん。どのような形であれ、ルシウスの死は不慮の事故として処理する。元老院議長の権力をもってすれば、それしきのことはどうとでもなる。そなたらに累が及ぶおそれは万に一つもない」
デキムスの言葉を受けて、アウダースは納得したというように頷く。
むろん、デキムスは単なる親切心から刺客たちを保護しようとしている訳ではない。
国家の重職にあるデキムスの立場を顧みれば、目的を達したあとで刺客たちを司直の手から保護するのは当然だった。もし彼らが陰謀を暴露するようなことがあれば、デキムスだけでなく、エンリクスにも影響が及ぶおそれがある。
新皇帝の輝かしい経歴に瑕疵がつくことはなんとしても避けねばならない。
「首尾よくルシウスを討ち取った暁には、そなたらにはその働きに見合うだけの褒美を与えるつもりだ」
言って、デキムスは軽く指を鳴らす。
主人の合図で召使いたちが運んできたのは、ふた抱え以上はある長大な木箱だ。大の男が四人がかりで運搬に当っているところから察するに、かなりの重量があるとみて間違いない。
召使いの手でゆっくりと蓋が取り外される。
黄金色の光がテラスに溢れた。箱のなかではぎっしりと詰め込まれた金貨銀貨は篝火に照らされ、目の眩むような輝きを放っている。
「これだけあれば、全員で山分けしても子孫の先まで遊び暮らせるであろう」
デキムスの言葉に嘘はなかった。
彼にとっては莫大な財産の一部を与えるにすぎないが、それでも桁外れの報酬であることには違いない。
これから先、およそ思いつくかぎりの遊蕩に耽ったとしても、個人が一生涯のうちに使い切るのは難しいはずだ。
いずれ劣らぬ凄腕の刺客たちも、莫大な褒美を目の当たりにしては冷静ではいられないようだった。
他の面々が目の色を変えて木箱を覗き込むなかで、鉄仮面とシュラムだけはさして興味もないといった様子で佇んでいる。
「パラエスティウムへの出立は明後日だ。途中で船に乗り換えても七日はかかろう。それは奴らも同じことだ」
「七日あれば、我らには十分すぎるほど――」
「儂とエンリクスを巻き込むようなことがなければ、どんな手を使ってもよい。兵士や民にどれほど犠牲が出ようと構わぬ。その代わり、必ずルシウスの息の根を止めるのだ」
刺客の群れは無言で首肯すると、一斉に踵を返す。
暗殺のプロフェッショナルである彼らにとって、戦いはすでに始まっている。
きたるべき運命の一瞬に備えて技に磨きをかける者、現場の下見に精を出す者、仕掛け道具を拵える者……
いずれにせよ、彼らに与えられた時間はさほど多くない。寸暇を惜しんで準備に取り掛かるのも当然だった。
例外はただひとりだけだ。
傍らで立ち尽くしている鉄仮面に向かって、デキムスはぽつりと呟く。
「そういえば、そなたの技はまだ一度も見たことがなかったな」
「お戯れを、閣下――猛獣使いは爪も牙も持たぬもの。人の手にあまる凶猛な獣を手懐けることこそが私の技にございます」
かすかに肩を震わせているのは、仮面の下で哄笑しているためか。
すでに立ち去った五人を追うように、鉄仮面は音もなく庭に進み出る。
「道中、エンリクス様の護衛は私めが引き受けましょう。敵も刺客を差し向けてこないとも限りませぬ。用心するに越したことはありますまい」
デキムスが何かを口にするまえに、その後ろ姿は見る間に夜の闇に溶けていった。
ふたたび静寂を取り戻した庭園をひとしきり見渡すと、デキムスは深く息を吐き出す。
「……ラベトゥルめ、相変わらず喰えぬやつよ」
この期に及んであの韜晦ぶり。信を置くにはいささか危険すぎる相手であることは重々承知している。
それでも、あれだけの腕を持つ刺客たちを揃えた手腕は認めなければならない。
危ういと分かっていても頼らざるをえない事情もあった。
事態はすでに動き出している。もはや別の策を講じる余裕は残されていない。
「すべては皇子のため。あの子のためであれば、儂は喜んで地獄にも落ちよう」
デキムスは誰にともなくごちる。
彼が企んでいるのは『帝国』の秩序への反逆にほかならない。
元老院議長がそのような野望を抱くなど、本来であれば許されることではない。
それでも、ようやく巡ってきた千載一遇の好機をみすみす逃す訳にはいかなかった。
エンリクスを皇帝の座につけるという積年の悲願は、ルシウスの即位とともに潰えるのだから。
星がひとすじ夜空を流れた。東方において、流星は兵乱を意味する凶兆だ。
望むところだ――デキムスは眦を決して空を睨む。
骨肉相食む戦いの幕が上がろうとしている。
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