第44話 刺客参集(後編)
「されば――シュラム、出よ」
その声に応じ、シュラムと呼ばれた男はしずしずと歩み出る。
デキムスがわずかに身構えたのは、シュラムが先の二人とはあきらかに異なる雰囲気を帯びていたからだ。
影。
シュラムという男の印象は、その一語に尽きる。
手を伸ばせば触れられそうな距離にいるというのに、そこに存在しているという実感に乏しい。よく目を凝らしていなければ、視界からふと蒸発してしまいそうだった。
暗い土色の肌と、毒蛇を彷彿させる切れ長の双眸。
しなやかな身の運びは、最小限の筋肉を最大限に鍛え上げたがゆえだろう。
実戦の場において、筋骨隆々たる肉体が常に有用とはかぎらない――そんな無言の説得力をまとった痩躯だった。
それにしても奇妙なのは、その身には寸鉄も帯びていないように見えることだ。
暗殺者のなかでもアウダースのように持ち前の肉体を武器とする者はあくまで例外だ。
ファザル同様、シュラムも何らかの武器を用いるはずであった。
しかし、ぴったりと身体に沿った衣服には、とても武器を隠しておける余裕はない。
どこからどう見ても何の変哲もない丸腰の男だった。
「シュラムとやら。そなたの技はいかに?」
「恐れながら――」
極限まで感情を押し殺した声だった。
「拙者の技は一撃必殺。そう容易く披露できるものではございませぬ」
「つまり、ここでは見せられぬということか?」
「左様。ご家来衆のなかに相手方の間諜が潜んでいないとも限りませぬ。閣下が目当ての的を確実に葬られたいならば、尚更――」
シュラムが醸し出す迫力に、デキムスは二の句を継ぐことが出来なかった。
鋭い眼光に見据えられていると、死神を前にしているような気分になる。
「秘技をお見せする代わりに、拙者の技量のほどをお見せいたそう」
シュラムはゆったりとした足取りで庭の中心部に進むと、デキムスに向き直る。
「ついては閣下のご家来衆をお借りしたいが、よろしいか?」
「よかろう。お前たち、この者の相手をしてやれ」
デキムスに命じられるまま、傍らに侍っていた兵士が庭へと躍り出た。
五人。
いずれも軽装ながら胴鎧とすね当てを着用し、室内戦用に短く切り詰められた槍を携えている。
間諜が紛れ込んでいるかもしれないというシュラムの言葉にプライドを傷つけられたのだろう。どの兵士も殺気立っている。
「遠慮は無用――殺すつもりでかかって参られよ」
「おうっ!!」
手招きするシュラムにむかって、五人の兵士は裂帛の気合とともに躍りかかる。
シュラムの細い身体めがけて槍が突き込まれる。
どこにも逃げ場はない。数秒後にはずたずたに切り裂かれた痩躯が横たわっているはずだった。
次の瞬間――血しぶきの代わりに生じたのは、金属同士を打ち付ける耳障りな音だ。
シュラムはその場から一歩も動いてはいない。
ただ、両手の人差し指をそれぞれ一本の槍に添えているだけだ。
なんとも奇怪な光景だった。
五本の槍はシュラムの身体を避けて交差していた。
槍先と衣服のあいだには髪一筋にも満たないわずかな間隙があるだけだ。
目を瞬かせるほどのわずかな時間のあいだに、シュラムは襲いかかる五本の槍をことごとく捌いてのけたのだった。
いかに厳しい訓練を積んだ兵士といえども、別々の人間が攻撃のタイミングを完璧に同期させることは不可能だ。
シュラムは右側から攻撃を仕掛けた兵士がわずかに先走ったことを見抜くと、突き込んだ槍先に指を添え、わずかな力で軌道を変えてみせた。
本来の攻撃軌道を逸れた槍は、たちまち隣り合う兵士の槍と接触し、それがまた別の兵士にも影響を与える。
左右の指で同じように誘導を行えば、すべての槍の軌道を連鎖的に狂わせるのはたやすい。
ひとつひとつはわずかな誤差にすぎない。それも積み重なれば、最終的には攻撃そのものが失敗に終わる。
兵士たちが狐につままれたような面持ちで互いを見たのも当然だった。
彼らには狙いを外した自覚すらないのだ。なぜシュラムが無傷でいるのか皆目見当もつかないようであった。
「ご家来衆、なにを呆けておられる。遠慮は無用と申したはず――」
軽く肩を回しながら、シュラムは事もなげに言う。
その言葉にあからさまな挑発を感じ取ったのか、
「言われるまでもない!!」
兵士たちは一度距離を取り、ふたたび攻撃態勢を取る。
彼らには選び抜かれたエリートとしての矜持がある。主人の前でどこの馬の骨とも知れない東方人の男にいいように翻弄されるなどあってはならないことだった。
構えた槍先には、先ほどまでとは比較にならぬほどの殺意が漲っている。
隊長格の兵士が再度の突撃を命じようとした瞬間だった。
シュラムはふいに両の袖口を重ね合わせたかと思うと、そのままさっと左右に開いた。
傍目には舞を舞っているようにも見える。
それは戦いの場には不似合いなほど優雅な動きだった。
直後、兵士たちはにわかに苦悶の表情を浮かべ、一人また一人と愛槍を取り落としていった。
利き手に突然激痛と麻痺が生じたのだ。兵士たちはすっかり狼狽しきった様子でシュラムを見つめている。
「き、貴様!! いったい何を……!?」
「心配には及ばぬ。一両日中はろくに箸も持てぬだろうが、じきに元通りになる」
シュラムはそれだけ短く告げる。
一人の兵士がふと手首に視線を落とすと、皮膚の上になにか光るものを認めた。
目を凝らして見れば、それは微細な針だ。
毛髪よりもわずかに細い針は、皮膚を貫いてぴんと垂直に突き立っている。
つい先ほどシュラムが投擲したものであることは言うまでもない。
袖口から放たれた五本の針は、兵士たちの腕の神経を損傷させ、灼けるような痛みと麻痺を引き起こしたのだった。
ほとんど同時に五人の急所を射抜いてみせるとは、まさしく人間離れした技量だった。
だが、真に戦慄すべきはそこではない。
わずかな立ち会いのなかで全員の利き手を見抜き、さらには各人の挙動さえも完全に読みきった洞察力。
それは無数の死線をくぐり抜けた古強者だけが身につけているものだ。
いかに選りすぐりの精鋭だろうと、実戦を知らない兵士たちに勝ち目はない。
「……シュラムは古今のあらゆる武芸に通じております。秘技を見せずとも、この程度のことは造作もございません」
黙然と佇むシュラムに代わって、鉄仮面が語りはじめる。
「なんとなれば、この男一人でも目的の成就には事足りるものと思って頂きたい」
「よもやそれほどの男であったとは――人は見かけによらぬものよ」
デキムスはシュラムとうずくまる兵士たちを交互に見やると、ほうとため息をもらす。
それは子飼いの家臣たちの不甲斐なさへの慨嘆でもあり、シュラムが見せた絶技への感嘆でもある。
シュラムはデキムスに向き直ると、深々と頭を垂れる。
「拙者の技量のほどはご理解頂けたかと存じます」
「いや、予想以上であった――これであやつの命運は尽きたも同然よ」
デキムスはひとしきり高笑いに笑うと、傍らの鉄仮面に顔を向ける。
「よくぞここまでの猛者を揃えてくれた。残る二人も間違いはないのであろう?」
「無論です。しかし、あの男――ザザリの技は、とてもここで披露できるものではありません」
鉄仮面はデキムスの耳元で囁くように言った。
彼を除いた五人の刺客のうち、いまだ技を見せていないのは二人の男女のみ。
ザザリと呼ばれたのは、体中に大小の壺をぶら下げた小男だ。
デキムスが露骨に顔をしかめたのも無理はない。小男というだけでなく、度を越した醜男であった。
背丈は十歳かそこらの子供とさして変わらないのに、顔も身体もでっぷりと肉がついている。
伸び放題の蓬髪はいかにも汚らしく、醜悪な顔と相まってどこか怪物じみた雰囲気さえ漂わせている。
そのうえ、彼自身の体臭か壺の中身の臭いかは定かではないが、デキムスのところまでなにやら異臭が漂ってくる始末――
「閣下がどうしてもお望みとあれば、あれにも技を披露させますが」
「やめておこう。あの者たちの腕を疑うことはせぬ。務めさえ滞りなく果たしてくれればそれでよい」
心底うんざりしたように言うと、デキムスはもう一人の刺客に視線を移した。
醜悪を絵に描いたようなザザリとは打って変わって、こちらは艷麗な美女である。
齢は一八、九の娘盛りといったところ。
つややかな濡れ羽色の黒髪と、その下で息づく雪肌の見事なコントラスト。
西方人と東方人のあいだに生まれた子は、時として類稀な美しさを兼ね備えることがある。女はまさにその典型といえた。
薄紫色の衣服は身体にぴったりと密着し、なまめかしい肢体をくっきりと浮かび上がらせている。
このまま帝都の街中に繰り出せば、道行く男のだれもが振り返るにちがいない。
デキムス自身、見つめるうちにじわじわと劣情が疼きはじめている。
「そなた、名は?」
「エフィメラと申します」
女は見た目に違わぬ艶っぽい声で名乗った。
本名とは思えないが、それは他の面々にしても同じことだ。
「なるほど――女の武器を使うとみえる。だが、あやつはそう簡単に色香に惑わされるほど単純な男ではないぞ」
「それはもちろん承知の上……」
エフィメラは嫣然たる笑みを浮かべる。どんな朴念仁でも腰砕けになるような微笑であった。
「私の武器はもうひとつございます」
「ほう?」
「ほんのすこし瞼を閉じていただけますか? 私が合図するまでそのまま……」
「ふむ……こうか?」
デキムスは言われるがままにまぶたを閉じる。
と――どこから漂ってきたのか、ふいに甘やかな芳香が鼻腔をくすぐった。
香りを愉しむのは貴人の嗜みでもある。デキムスも香木や香油の類には人並み以上に通じているつもりだった。
だが、過去の記憶を掘り起こしても、類似するものは思い当たらない。
しんと脳髄に染み入るような感覚は、視覚を遮断していることで普段よりも嗅覚が鋭敏になっているためだろう。
このままいつまでも甘美な香りの海にたゆたっていたい一方で、二度と現実に戻れなくなるのではないかという恐怖も感じる。
あるいは、恐怖と隣り合わせであるということが快楽をいっそう倍加させるのかもしれない。
「もう結構ですわ、閣下」
エフィメラに呼びかけられ、デキムスはたと我に返る。
言われたとおりにまぶたを開く。
次の瞬間、デキムスの目に映ったのは信じがたい光景だった。
そこは見知った屋敷の奥庭ではなかった。
テラスも、椅子も、つい一瞬前まで身の回りにあった何もかもが消え失せている。
傍らに控えていたはずの兵士や、庭に並んでいた刺客たちも同様だった。
デキムスはたった一人で、どことも知れない薄暗い部屋のなかにぽつんと立ち尽くしているのだった。
デキムスはみずからの手を見る――皺ひとつないちいさな手であった。
身体は軽く、何もかもが頼りなく感じられる。
デキムスは自分が子供に戻っていることをようやく理解する。
ふいに鐘が鳴り渡った。
どこからか一筋の陽光が差し込み、室内をあかあかと照らす。
絨毯に斑斑と影が落ちる。日の色は夜明けか黄昏かも定かではない。
黄金の玉座には、緋紫のマントと帝冠を身につけた老人が静かに佇んでいる。
老人はデキムスに気づくと、皺だらけの顔を歪めてにいと微笑みかけた。
血も凍るような凄絶な笑みであった。
あの日以来、二度と見ることはないと思っていたその笑みをふたたび向けられて、デキムスは金縛りに遭ったみたいに動けなくなる。
「ばかな……あなたがなぜ……」
デキムスはうわ言みたいに呟く。
老人はいつのまにかデキムスの傍らに移っている。骨ばった手が頬を撫ぜる。
手は一切の温もりを欠いていた。
「なぜです……? 父上――」
氷のような手がデキムスの喉にかかる。
幼い頬を涙が伝った。やはり冷たい涙であった。
「閣下――閣下!」
護衛の兵士が呼びかける声に、デキムスはおそるおそる瞼を開く。
老人は跡形もなく消え失せ、目の前には普段と変わらない庭の風景が広がっている。
エフィメラは相変わらず艶冶な微笑を浮かべ、デキムスを見つめている。
「なんだ? あれは? そなた、一体何をした!?」
「さあ……私には何が見えたかまでは分かりません。ただ、閣下の心に眠っていた恐怖の像を引き出したまでですわ」
「あれがそなたの技か……」
デキムスは流れ落ちる汗を拭いつつ、たっぷりと安堵の息を吐いた。
恐るべき体験にはちがいなかった。しかし、おのれに技をかけたことへの憤りは不思議と沸かなかった。
怒りや恐怖よりも、これほどの使い手が自分の側についているという頼もしさのほうが勝る。
これまで四人の刺客が披露した技はいずれも天下無双の絶技だった。
彼らの力をもってすれば、憎悪してやまないあの男を確実に消し去ることもできる。
もはや勝負は決した――みずからの勝利を確信し、デキムスは一人ほくそ笑む。
背後で物音がしたのはそのときだった。
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