第43話 刺客参集(前編)

 イドラギア街区――

 帝都の北部に位置するこの街区は、高級住宅地として知られている。

 壮麗な豪邸が軒を連ねる街区にあって、ひときわ目を引く屋敷がある。

 まず驚かされるのはその桁外れの大きさだ。

 近隣に立ち並ぶ巨大な家々も、その屋敷と較べればまるで小人の住居みたいにみえる。

 屋敷の面積は、広大な街区のおよそ五分の一を占めている。個人の住居としては常識外の大きさだった。

 帝都全体を見渡しても、これより巨大な建造物は三つしかない。

 元老院議場と中央軍総司令部――そして、皇帝の住まう帝城宮バシレイオンだ。

 屋敷の外周には深い環状堀が巡らされ、白漆喰が塗り込められた高い塀が興味本位の窃視を妨げる。

 外から見えるのは重厚な屋根瓦の連なりだけだった。

 もしそれ以上のものを知ろうとしても、たちまち屈強な番兵に見咎められる。

 豪奢な屋敷は俗世間から隔絶した別天地だった。その中に何があるのか知っているのは、帝都でもほんの一握りの人間だけだ。

 幾重にも張り巡らされた厳重な防備によって、屋敷はほとんど軍事拠点の趣を帯びてさえいる。

 屋敷の完成までに投じた費用ついえも莫大な額にのぼる。

 一説には、帝都の年間税収のおよそ一割に匹敵するという。これは平均的な州の一年分の予算に相当する。

 何もかもが桁外れの屋敷だった。

 当然、持ち主もそれに見合うだけの人物であることは言うまでもない。

 デキムス・アエミリウス・マルディウス。

 皇帝イグナティウスの実弟にして、元老院議長を奉職する『帝国』政界の最重鎮だ。

 長らく病に臥せっている皇帝に代わり、国政に関する重要事を一手に掌握する豪腕ぶりから、影の皇帝の名をほしいままにする当代きっての大政治家であった。

 皇太子ルシウスとは叔父と甥の関係にある。

 序列の上ではルシウスの後塵を拝しているとはいえ、権勢はいまだに衰える気配もない。

 そして、今――屋敷の中心、決して人目の届かない奥庭。

 燃え盛る篝火にあかあかと照らし出されたテラスにデキムスはいた。

 時刻はとうに夜半を過ぎているというのに、その一角だけは昼日中と見まごうばかりのまばゆい光が充溢している。

 「……早う顔を見せい」

 地鳴りみたいに低い声でデキムスは言った。

 デキムスはテラスに置かれた椅子にどっかりと腰掛け、手のなかで金細工が施された酒盃を転がしている。周囲には武装した兵士たちが整列している。

 見れば見るほどに不可思議な男だった。

 大抵の人間は外見と年齢が比例するものだが、デキムスは違った。

 短く刈り上げられた髪にはいくらか白いものも混じっているが、年齢を感じさせるものといえばそれくらいだった。

 服の上からでもはっきりと分かるほど隆起した筋肉が目を引く。二十代の青年のそれにも劣らない見事な肉体であった。

 皇帝家に特有の彫りの深い顔には、はちきれんばかりの精気が漲っている。

 ぴんと伸びた背筋。よく引き締まった肉体。そして、猛禽を思わせる鋭い眼光……

 いずれも六十四歳になる老人には似つかわしくないものばかりだった。

 デキムスが不自然なほどの若々しさを保っていられるのは、元老院議長の重責が肉体の衰えを許さなかったためだ。過酷な職務に耐えるには強靭な肉体が不可欠であった。

 「……お待たせいたしました、デキムス・アエミリウス閣下」

 わずかな間を置いて、庭から声が返ってきた。

 くぐもった声は、それだけでは男とも女とも判別しがたい。

 声の主を視界に収めるべく、デキムスはずいと身を乗り出す。篝火に照らされた庭に影が六つばかり浮かび上がったのは、まさにその時だった。

 はたして今までどこに潜んでいたのか。

 一群の影は、水底から生じた気泡のごとく、前触れもなく庭の中ほどに立ち現れたのだった。

 六人のなかには大男もいれば、妙齢の女も混ざっている。かと思えば子供ほどの背丈しかない者もいる。

 人種も年齢も体格も、およそ統一性を欠いた集団だった。

 「それですべてか?」

 「左様にございます。もっとも、最初は七人おりましたものを……」

 やはりくぐもった声で答えながら、六つの影のひとつが進み出る。

 奇怪な男だった。

 本来顔があるべき場所には、正対するデキムス自身の姿が映し出されている。鏡面のように磨き上げられた鉄仮面が顔を覆っているのだ。

 怪人とはこのような者を言うのだろう。

 あまりに異様な風体に、護衛の兵士はおもわず剣把に手を伸ばしていた。

 鉄仮面の男はつかつかと歩を進め、やがてデキムスのまえで恭しく膝をついた。

 「しかし、ご心配には及びません。我ら六人、身命を賭して閣下のご期待に応えてご覧にいれましょう」

 「本当に出来るのだろうな?」

 「閣下の疑念を晴らすためには、我らが技量のほどをお目にかけるのが最善かと存じます。まずは――ファザル、前へ」

 鉄仮面が右手を挙げると、それに呼応して右端の男が歩み出る。

 よく日焼けした肌の端正な面立ちの青年だった。

 細身の身体にまとうのは、柔軟性に富んだなめし革の装束。長短二種類の弓を腰の後ろに吊るし、箙をたすきがけにしている。それは、『帝国』の西部に広がる広漠な草原地帯の狩人の出で立ちだ。

 「そなたは”草原の民”か?」

 「はい――僭越ながら、弓の扱いにかけては天下に並ぶものはないと自負しております」

 言って、ファザルは懐から木の札を八枚ばかり取り出した。

 木札は手のひらに収まるほどの大きさだ。いずれの札にも朱で二重丸の絵付けが施されている。

 いったい何をするつもりか?

 興味深げに眺めるデキムスの前で、ファザルはひょいひょいと立て続けに札を高く放った。

 八枚の木札はそれぞれ全く別の軌道を描いて空に舞い上がる。

 「我が技量、とくとご覧あれ」

 ファザルは短弓を手に取ると、目にも留まらぬ早さで矢をつがえる。

 しなやかな指が弦を弾くたび、鏃が木を打つ快い音が響く。

 が――どういうわけか、命中した矢はいずれも貫通には至っていなかった。

 木札にぶつかった矢は、わずかに落下の軌道を変えるのが精一杯のようだった。

 訝しげに見つめるデキムスの前で、ファザルは長弓に持ち替える。

 そして、箙からひときわ無骨な征矢を一本抜き取ると、真横に寝かせた弓につがえてみせる。

 ファザルはひときわ深く息を吸うと、そのまま呼吸を止めて狙いをつける。

 狩人の瞳は、バラバラに落下する八枚の木札の軌道を正確に捉えていた。

 一呼吸にも満たないわずかな時が流れた。征矢が弦を離れる。

 次の瞬間――眼前で生起した信じがたい光景に、デキムスはかっと目を見開いた。

 ファザルが放った征矢はまっすぐに飛翔し、地面に落ちる寸前の木札のひとつをやすやすと貫いた。

 貫通の衝撃によって征矢はわずかに軌道を変え、ゆるく上昇軌道を描きつつ二枚目、三枚目の木札を貫通する。

 そして――矢はひとりでに右に旋回し、四枚目、五枚目。

 さらに内向きに螺旋を描くようにして六枚目。

 勢いに乗って七枚目の木札を突き抜けた矢は、まるでそれ自体が一個の生物であるかのように生き生きと躍動していた。

 最後に残った八枚目の木札は矢の真横を落下しつつある。

 両者の距離を勘案すれば、いまから命中するとは到底考えられなかった。

 (惜しい――あと一歩のところで仕損じたか)

 デキムスが眉根を寄せるのを横目で見つつ、ファザルは薄く笑みを浮かべる。

 鼻持ちならない驕慢と隣合わせの余裕。

 それは、みずからの技量に絶対の自負を抱く者だけに許された振る舞いだった。

 征矢は中空でくるりと上下を入れ替えると、鏃から垂直に降下していった。

 そして、八枚目の木札が落ちる間際、その中心を縫い止めて地面に突き刺さったのだった。

 「これこそ我が弓の絶技――八つの的を射落とすのに一本の矢があれば事足ります」

 「なんと……!」

 連射が効く短弓で木札の位置を調整し、威力に優れる長弓で貫く。征矢にも空中で軌道を変える細工が施されていることは言うまでもない。

 真に恐るべきは射手の技量だ。同じ道具を使っても、他の人間ではこうはいかない。この世でファザルただ一人だけが到達した境地だった。

 弓の神技を目の当たりにして、デキムスもただただ息を呑むばかりであった。

 「よもやこれほどの弓の巧者がおったとは。見事だ、ファザルとやら!」

 デキムスはすっかり興奮した様子でファザルを激賞する。

 ファザルは浮かれることもなくデキムスに一礼すると、庭に落ちた矢と木札を拾っていく。

 この場に居合わせた誰が気付いていただろう。八枚の木札は、ただ一つの例外もなく二重丸の中心を穿ち抜かれていたことを。

 恐るべき技巧を誰に誇示することもなく、美形の射手はかすかな笑みを浮かべるだけだった。

 「……次はアウダース、前へ」

 「おう!」

 鉄仮面の声に呼応して前に進み出たのは、六人のなかでもひときわ巨大な体躯の男だ。

 西方人であった。年齢は四十前後といったところ。

 自然に禿げ上がったのか、あるいは自分で剃っているのか。毛髪は後頭部にわずかに残るばかり。

 ごつごつとした礫岩を無造作に積み重ねたような身体には、歯型みたいな傷痕がいくつも刻まれている。

 上衣をはだけさせているのは、鍛え上げられた肉体を誇示するためだ。デキムスもかなりの筋肉質だが、この男に較べれば貧弱にさえみえる。

 その頑強さを裏付けるように、骨まで凍りつくような帝都の寒風に晒されてなおアウダースは平然と佇んでいる。

 「そんな格好で何も感じぬのか?」

 「なんのなんの――真冬の海に比べりゃあこの程度、どうってことはありやせんぜ」

 デキムスの問いに、アウダースは豪快な笑声で答える。

 「さっそく閣下に俺の腕をお見せしたいところだが、あいにくここには水がねえ。そこで……こいつだ」

 そう言ってアウダースが取り出したのは、一抱えほどもある革袋だった。

 しぼみ具合から察するに、どうやら中身は空であるらしい。

 「この革袋は、巨鯨の一枚革から仕立てたもんです。剣で斬ろうが槍で突こうが絶対に破れやしない」

 「それを使って何をするつもりだ?」

 「百聞は一見に如かずと言うでしょう。説明するより見るが早い」

 言うが早いか、アウダースは思いきり息を吸い込む。

 空気が激しく渦を巻いた。アウダースの口のあたりで小さな嵐が生じたようだった。

 呼吸によって肺が極限まで膨張したためか、ただでさえ巨大な体躯がさらに数倍に肥大化したようにみえる。

 呼吸が限界に達したのを見計らって、アウダースはすかさず革袋でおのれの口唇を覆った。

 革袋は吹き込まれた息によってみるみる膨れ上がっていく。

 その様子を見て、デキムスもようやく先ほどからの行為の意味を理解したようであった。

 (息で革袋を膨らませようというのか? ……馬鹿げたことを)

 呼気を送りつづけるアウダースに、デキムスは露骨に胡乱げな視線を向ける。

 件の革袋が本当に巨鯨のものか否かは、この際さほど重要な問題ではない。たとえそのあたりの家畜の皮から作られたものであったとしても、あれほどの大きさの革袋を膨張させるほどの肺活量を持ち合わせた人間などいるはずがない。

 袋が膨らみきるまえに息切れを起こすのが関の山だ――デキムスは失敗を確信している。

 それだけに、目の前の現実が予想を上回っていく衝撃は計り知れない。

 しなびていた革袋が楕円形に膨れ上がるまでさほどの時間はかからなかった。

 それで終わりではなかった。アウダースの挑戦はまだ続いている。

 アウダースは革袋の許容量が限界点に達してからも息を吹き込みつづけた。

 いまや顔だけでなく身体全体が紅潮し、張り詰めた筋肉には血管が幾筋も浮かび上がっている。

 「もうよい、十分だ!」

 デキムスが我知らぬうちに制止した瞬間だった。

 限界を迎えた革袋がとうとう爆ぜ飛んだのだ。

 耳を聾する轟音が庭を突き抜け、衝撃がデキムスの身体を揺るがす。

 静まり返った夜更けのことだ。すさまじい音は屋敷の外にも聞こえてしまったかもしれない。

 「革袋がちいと小さすぎたようですな。俺の身体にゃまだまだ空気が残ってたものを――」

 アウダースは意外なほど整った歯列を覗かせ、にっと笑ってみせる。

 頑丈な革袋をまるで紙風船でも破るみたいに破裂させてみせるとは、とても人間業とは思えない。

 凄まじい肺活量。これこそが海の狩人であるアウダースの最大の武器だった。

 「もし奴さんが船を使うなら、手柄は俺がいただきだ。船ごと水ん中に引きずり込んでやるぜ!」

 「それは心強いかぎりよ。……アウダースとやら、その時は頼りにさせてもらう」 

 デキムスは耳鳴りをこらえながら、アウダースに下がるよう命じる。

 「いかがでしょう、閣下?……ここに集ったのはいずれも選りすぐりの刺客。万が一にも仕損じる恐れはありません」

 自信ありげに語る鉄仮面に、デキムスはじろりと一瞥をくれる。

 「せっかくだ。他の者たちの腕も見ておきたいものだな」

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