第42話 渦中への誘い

 気づけば、外の景色はすっかり白く霞んでいる。

 採光窓から差し込む光も少しずつ弱くなっているようだった。

 イセリアは茶を啜りつつ、青年を横目で見やる。

(本当になんなのよ、こいつ……)

 向かい合う形で腰掛けたエミリオは、まるで住み慣れた自宅にいるみたいにくつろいでいる。

 茶碗のなかにあって細く湯気をたなびかせる琥珀色の液体は、つい今しがたエミリオ自身が淹れたものだ。

 こうなったのも、エミリオが部屋に足を踏み入れるなり、

 「ここでは客に茶も出さないのか?」

 悪気もなく言ったことに端を発している。

 「おあいにくさま。――飲みたければ自分で淹れればいいじゃない」

 イセリアがすげなく返したところ、エミリオはさっさと台所に向かった。

 そして慣れた手つきで湯を沸かし、どこからか茶葉を見つけ出した挙句、普段はヴィサリオンが使っている茶器を拝借して悠々と一服しはじめたのだった。

 流れるような一連の手際に、イセリアは咎めることも忘れてしばし見とれてしまったほどだ。

 (しかも、美味しいし……)

 騎士庁ストラテギオンに常備されている茶は、『東』で流通している茶のなかでも最も低級な部類に入る。

 言うまでもなく倹約のためだ。

 たんに茶葉の等級が低いというだけではない。多量の茶葉をまとめて大釜で煎るため、本来の香りはすっかり失せてただただ焦げ臭く、舌に触れればいたずらに苦味ばかりが強いという代物だった。

 それにもかかわらず――エミリオが淹れた茶からは、馥郁たる香気が立ち上っている。ひとたび口に含めば、苦味どころかほのかな甘みさえ感じるのだった。

 「……あんたさ、あの三人とどういう関係なの?」

 一息に茶を飲み干すと、イセリアはほとんど独り言みたいに問うた。

 「すこし前に知り合う機会があった。それきり会っていなかったが、たまには顔を見たいと思ってな」

 「ふうん……」

 どうやら嘘は言っていないらしい。

 戎狄バルバロイとの戦いが終わってから帝都に召喚されるまでのあいだに、かれら四人のあいだでイセリアの知らない何かがあったのだ。

 (でも、それって……)

 とくに根拠があった訳ではないが、アレクシオスとオルフェウスも帝都で初めて顔を合わせたものと思っていた。

 もしあの二人がここに来る前にすでに出会っていたとすれば、イセリアとしては動揺せざるをえない。

 アレクシオスとヴィサリオンがそれなりに長い付き合いであることは雰囲気から推察できるし、イセリアにとってもそれは一向にかまわない。だが、オルフェウスまでもが加わっているとなれば、話は別だ。

 (まさか、ね――)

 別々の場所で出会っていたにちがいない。

 そう言い聞かせて、イセリアはざわついた心を落ち着かせる。

 「質問に答えた代わり――という訳ではないが、ひとつ聞きたいことがある」

 「なによ? よっぽどヘンなことじゃなければ答えてあげるわ」

 エミリオは半ばまで空になった茶碗を置くと、改めてイセリアに向き直る。心の奥底まで見透かされるような視線に、イセリアはおもわず目をそらしていた。

 「……ここの仕事は楽しいか?」

 「正直言って、あんまり。地味だし、退屈だし、一日中ずっと座ってなきゃいけないもの」

 「では、帝都の暮らしはどうだ?」

 「雪が降らなきゃ最高――って、ちょっと、質問はひとつだけじゃなかった?」

 「おっと、そうだったか」

 エミリオはいたずらっぽく笑う。

 「雪が降らなければ最高というのは同感だ。ずっと暖かい地方に住んでいたせいだろう。俺たちは気が合うらしい」

 「あんたと気が合ってもうれしくないわよ」

 イセリアは努めてそっけなく言うと、ぷいと横を向いた。

 と、玄関のほうで小さく音が立った。

 「アレクシオスたちが戻ってきたみたいね。……これで本当の知り合いかどうか確かめられるわね?」

 「顔を見ればすぐに分かるさ」

 エミリオはあくまで泰然自若としたものだ。落ち着き払ったその態度は不敵ですらある。

 イセリアは部屋を出ると、ぱたぱたと廊下を駆けていく。

 開いた扉の先では、アレクシオスとヴィサリオン、オルフェウスの三人が身体についた雪を払い落としている。

 「イセリア、ちゃんと留守番してたか?」

 「そんなことより聞いて! 変なヤツが来てるのよ! アレクシオスたちの知り合いだって言ってるんだけど、なんか胡散臭いっていうか……」

 「おれたちの知り合いだと?」

 アレクシオスは怪訝そうな面持ちで首をかしげる。

 「ヴィサリオン、ここに訪ねて来るような知り合いなどいたか?」

 「さあ……だいぶ待たせてしまっているようですし、とりあえず会ってみましょう」

 「盗人か詐欺師でなければいいんだがな」

 軽口を叩きながら廊下を進んでいたアレクシオスたちだったが、部屋に入るなり、まるで金縛りに遭ったみたいに動かなくなった。

 正確には先頭を歩いていたアレクシオスとヴィサリオンが直立不動のまま固まってしまったため、イセリアとオルフェウスはその背後で足止めを食らう格好になっている。

 「なに? どうしたの? なんで止まってんのよ?」

 イセリアは訝しげに背中を小突くが、二人はやはり硬直したまま返事もない。

 代わりにアレクシオスが震えた声でぼそりとつぶやく。

 「……で、殿下……」

 「はあ?」

 「皇太子殿下、なぜこんなところに――」

 言い終わるが早いか、アレクシオスとヴィサリオンはその場に跪く。

 イセリアは二人の口から出た言葉の意味を理解するのに手間取っているらしい。目を皿のようにして、ただ呆然と立ちつくすばかり。

 オルフェウスはただ一人、我関せずといった様子でその様子を見つめている。

 「イセリア、オルフェウス、皇太子殿下の御前だぞ! いつまで突っ立ているつもりだ!!」

 「かまわぬ――そなたらもおもてをあげよ」

 エミリオは破顔しつつ、自分で淹れた茶をひと啜りすると、

 「約束も取り付けずに訪ねたせいで驚かせてしまったな。一足先に茶を馳走になっているぞ」

 言って、空になった茶碗の縁を指で軽くなぞってみせる。

 「……ねえ、ちょっと、冗談でしょ? ねえってば?」

 イセリアはすっかり困惑しきった様子でエミリオを見つめている。

 それも当然だ。どこからどう見ても軽薄な遊び人にしか見えない風体の青年が、よもや『帝国』の皇太子であろうなどとは。

 「そ、そうよ! だって、自分からエミリオって名乗って――」

 「ルシウス・アエミリウス・シグトゥス――余の名前だ。エミリオというのは昔の名である。今となってはそう呼ぶ者もなくなったが、騙すような真似をしてすまなかったな」

 「いい加減にしろ! イセリア、皇太子殿下に無礼がすぎるぞ!!」

 「そんなぁ……」

 体中の骨という骨を抜かれたみたいに、イセリアはその場にへなへなとへたり込む。

 イセリアの脳裏に浮かぶのは、これまで皇太子に働いた非礼の数々だった。

 雪の下敷きにしかけたことに始まり、怪しんで詰め所への立ち入りをなかなか許さなかったこと、そして手ずから茶を淹れさせたこと……

 「ど、どうしよう……」

 先ほどまでの威勢はどこへやら、イセリアの顔からはすっかり血の気が引いている。

 一方、エミリオ改めルシウスは少女の狼狽ぶりがすっかり笑壺に入ったようで、口元をわずかにほころばせている。

 「殿下、もしや彼女がなにか粗相を……?」

 「気にするな。その娘は、そなたらが戻るまで余の話し相手をしてくれたのだ。おかげで退屈せずに済んだ」

 心配そうに問いかけるヴィサリオンに飄々と答えると、ルシウスはその場にいる一人ひとりの顔にざっと視線を巡らせる。

 「今日ここに足を運んだのは、むろん単なる戯れのためではない。そなたらに折り入って頼みたいことがあるのだ」

 「と、申されますと……?」

 オルフェウスを除く全員が無意識のうちにずいと身を乗り出し、ルシウスの言葉を片言隻句も聞き逃すまいと耳をそばだてる。

 「我が父のことだがな――どうやらいよいよ駄目らしい」

 「皇帝陛下が……ですか!?」

 ルシウスは首肯する。

 「侍医の言うことには、おそらくこの冬は越せないだろうということだ。皇帝だろうとこの世に生まれた以上、いつかは死ぬ時が来る。それはいい」

 実の父の死期が迫っているにもかかわらず、ルシウスの言葉はどこまでも淡々としている。人の生死というものについて、どこか冷めている風でもあった。

 「父皇帝が崩御した後は、余が帝位に就くことになっているが――」

 「何か問題があるのですか……?」

 おそるおそる口を開いたのはアレクシオスだ。

 いかに超常の力をもつ戎装騎士でも、これほどの重大事を前にしては緊張せざるをえない。

 現在の版図は大陸東方に限られるとはいえ、皇帝の権力はいまだ絶大だ。玉座が名実ともに世界の頂点であることは疑いようもない。

 帝位に関する問題は、今後の世界の行く末を左右すると言っても過言ではないのだ。

 「皇帝の選出はそう単純なものではない。余が玉座に就くためには、元老院と皇族の承認を得なければならん」

 これでもさまざまな儀式が必要だった時代に較べればだいぶマシになったのだが――と、ルシウスは自嘲的につけ加える。

 「承認式は十日後にパラエスティウムで催されることになっている。主だった皇族と元老院議員が一堂に会し、その場で次期皇帝の即位が承認されるという訳だ。慌ただしいことだが、こればかりは皇帝が元気なうちに済ませるという訳にもいかぬからな」

 それは皇帝の権威を終生保ちつつ、権力の空白期間を生じさせないための方策だった。

 皇帝が存命のうちに有力者の意思統一を図り、次代への権力の移譲を円滑にすすめる。いにしえの昔、骨肉相食む政争によって屍山血河を築いた先祖たちの苦い教訓がこのような制度を生み出したのだ。

 騎士たちはルシウスの言葉に聞き入っている。

 ただ一人、イセリアの関心は別の部分に向けられているようだった。

 ヴィサリオンの脇腹を肘で突き、小声で問う。

 「……ところで、パラエスティウムってどこ?」

 「ここからずっと南の海沿いにある都市ですよ。帝都ほどではありませんが、東方でも五本の指に入る大都市です」

 イセリアの瞼がぴくりと動いた。

 『東』全土でも五指に入る繁栄ぶりと聞いて、俄然興味が湧いてきたらしい。

 「明後日の夜明けに出立するつもりだ。承認式の件はごく少数の者しか知らぬ以上、供回りも最小限ということになる」

 「おれたちに道中の護衛を任せていただけるのですか!?」

 「その通りだ――さすがに察しがいい。そなたらほど頼りになる者は他にいないからな」

 皇太子ルシウスに認められ、頼りにされている。

 国家に仕える者にとって、これほど名誉なことはない。

 もし許されるのであれば、アレクシオスは飛び上がって喜びたい気分だった。

 「……だめだよ、アレクシオス」

 横合いからふいに投げられたオルフェウスの言葉は、浮かれ気分の少年に冷水をかける格好になった。

 間髪を入れずにヴィサリオンがルシウスの前に進み出る。

 「実は、つい先ほど元老院から直々の通達があったのです。騎士は別命あるまで帝都に留まり、市中の治安維持に努めよ――と。理由は答えてくれませんでしたが、皇帝陛下に万一のことがあった場合を想定しているのは間違いないでしょう」

 「ふむ……奴に先手を取られたか」

 「と、申されますと?」

 「元老院は余が動く前にそなたらをこの帝都まちに釘付けにするつもりだったのだ。口惜しいが、少しばかり出遅れたらしい」

 いかに皇帝といえども、国法と元老院を蔑ろにすることはできない。

 それが古帝国から連綿と受け継がれてきたこの国の伝統だった。

 まして、ルシウスはまだ皇帝ですらないのだ。すでに決定された元老院の意向を覆すのは不可能だった。

 「ヴィサリオン、元老院がなんと言おうと関係ない! 奴らの言うままに殿下の頼みを断るつもりか!?」

 アレクシオスの言葉には隠しようのない怒りがにじむ。

 ぬか喜びをさせられた怒りの矛先は、その原因である元老院に向けられている。

 そうでなくとも、これまで事あるごとに騎士たちに非礼を働いてきた元老院に好感情を抱いているはずもない。

 「そうは言っていません。ただ、正式な命令である以上はこちらにも従う義務があるということです」

 「それは……理屈ではそうだろうが……」

 ヴィサリオンに諭され、アレクシオスは不満げに俯く。

 そんなアレクシオスを見かねたのか、イセリアが二人のあいだに割って入る。

 「でもさ――あたしたちに護衛を頼むなんて、よっぽどの事情があるんじゃないの。いくらお忍びって言っても、普通こういうのって中央軍の仕事でしょ」

 言って、同意を求めるようにルシウスを見る。

 ふっと頬を緩めたのは、イセリアの鋭い指摘への賞賛のつもりだろう。

 「いいだろう。今更そなたらに隠し立てをするつもりはない」

 ルシウスは深く息を吸うと、意を決したように語りはじめた。

 「余を亡き者にせんとはかりごとを巡らせている者がいる。そなたらには、パラエスティウムに辿り着くまで余の身辺を警護してもらいたいのだ」

 ルシウスの言葉に、オルフェウスを除く全員が少なからぬ衝撃を受けたようだった。

 何か事情があることは薄々察してはいたものの、よもや次期皇帝の暗殺を企む者がいようとは。

 「すでにラフィカが刺客を一人仕留めている。かなりの手練だったそうだ。今も外で見張ってくれているが、長い道中あいつだけでは限界もあるだろうからな。そこで、そなたらを頼ったという訳だ」

 「……殿下はその者の正体をご存知なのですか?」

 ヴィサリオンに問われたルシウスは、平素の豪胆さに似合わぬためらいを見せる。

 眉宇にわずかな憂いが浮かんだのも一瞬のことだ。

 ややあって、整った唇が重々しく開かれた。

 「元老院議長デキムス・アエミリウス・マルディウス――余の叔父だ」

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