第141話 老狼は嗤う
「ほお――そりゃ面白え」
ベイドウの顔に浮かんだのは、凄絶な笑みであった。
いま、老暗器使いの胸に奔騰と沸き起こるのは、アレクシオスに対する憎悪でも復讐心でもない。
それは、どこまでも純粋な戦いへの期待と高揚だ。
手塩にかけて作り上げた最高傑作を倒した相手は、はたしてどれほどの強さを秘めているのか。
シュラムは目の前の少年騎士といかなる戦いを繰り広げ、武運つたなくも敗れ去ったというのか。
それを想像しただけで、ベイドウの身体は興奮と歓喜に打ち震えた。枯れ萎んだ肉体に熱い気血が巡り、老いた細胞の一つひとつが若返っていくようであった。
襞みたいな瞼の下で、ベイドウの双眸は全盛期の鋭さを取り戻しつつある。
肉体の時間を巻き戻すことは不可能でも、ベイドウにはこれまで培ってきた勘と技術がある。生涯をかけてたゆまず磨き上げてきた二つの武器は、老体の不利を補って余りあるものだ。
「お前さんがシュラムを殺ったというなら、ぜひともお相手願おうかい。一度
「ここでは都合が悪いだろう。どこか別の場所に……」
「その必要はねえさ」
言って、ベイドウは不敵な笑みを浮かべる。
「戦う場所を選ぶようでは暗器使いとは呼べん。それによ、わしにはここのほうが都合がいい」
アレクシオスが何かを言おうとしたとき、ベイドウはすでに目の前から消え失せていた。
すかさず周囲に視線を巡らせるが、どれほど目を凝らしても、ベイドウの影さえ見つけられない。
奇怪であった。アザリドゥスのように特殊な歩法を駆使して距離感を狂わせているのではない。枯れ枝みたいな細い体躯は、一瞬に蒸発してしまったようだった。
アレクシオスの首にするどい痛みが走ったのは次の瞬間だった。
細い紐が巻きつけられたのだと理解したときには、それは炎の首輪へと変じていた。
可燃性の
むろん、それも相手が人間であればの話である。
首から上が炎に包まれるより早く、アレクシオスは戎装を終えていた。
少年の皮膚は艷やかな漆黒の装甲に置き換えられ、無貌の面に刻まれた
アレクシオスが
それも無理からぬことだ。
人間が異形に変貌するさまを見せつけられれば、大の男でも驚嘆の声を漏らさずにはいられない。まして、ここにいるのは女子供がほとんどなのだ。
この世のものとも思えない鉄の怪物を恐れたとして、それを責めることは誰にも出来ないだろう。
「おお、ようやく正体を現しやがったか――そうこなくちゃ面白くねえよな」
ベイドウは唇の端を吊り上げる。
虚勢を張っているのではない。かつてないほどの戦いへの興奮と期待が、老暗殺者に鬼気迫る笑みを浮かべさせているのだった。
「さあて、どう料理してやろうかい――」
「やれるものならやってみろ。言っておくが、そう簡単におれを倒せると思わないことだ!!」
欣然と言い放つベイドウに、アレクシオスは負けじと叫ぶ。
逞しい両脚が激しく地面を蹴ったかと思うと、黒騎士は垂直に十五メートルほど飛び上がっていた。
黒曜石を彷彿させる漆黒の装甲は、いまや地平線に名残りを留めるばかりになった夕映えを照り返し、まばゆいきらめきを放つ。この世のいかなる宝石も及ばない輝きに、ほんの一瞬前まで恐れおののいていた群衆もおもわず息を呑む。
そのまま空中で身体をひねりながら、アレクシオスは両腕の
上空から見下ろしているかぎり、ベイドウがどこに逃げても見失うことはない。
敵の動きを見極めたところで脚部の
いかに卓越した技量を持つベイドウといえども、急降下するアレクシオスから逃れる術はない。
ベイドウが反撃に出るというなら、それこそ望むところだ。老暗殺者の細腕で戎装騎士の膂力をまともに受け止められるはずもない。アレクシオスはひたすら力に任せて押し切るだけだった。
――捉えた!!
爆音が一帯を領したのに続いて、噴射炎が夕闇の空をあかあかと染めた。
爆発的な推進力を得たアレクシオスは、黒い疾風となってベイドウに襲いかかる。
すでにベイドウの動きは見切っている。苦し紛れにどこへ逃れたところで、アレクシオスの追撃を振り切ることなど出来はしない。
風を巻いて急迫するアレクシオスを見上げて、ベイドウは泰然と佇んでいる。
老練の暗器使いはおのれの敗北を悟り、早々に戦いを放棄したというのか。
ベイドウの右手が上がったのはそのときだった。
「なに――――!?」
アレクシオスの視覚器は、ベイドウの袖口から飛び出した球状の物体をはっきりと認めていた。
球の直径は小指の先よりわずかに小さい。総数は少なく見積もっても五十を下らないだろう。
球はアレクシオスにむかって飛来し、周囲の空気とともに
アレクシオスの両脚ですさまじい異音が生じたのは次の瞬間だった。
突然推力の
「くっ……」
姿勢を立て直しつつ、アレクシオスは両下肢に目を向ける。
左右の推進器からはもうもうと白煙が立ち昇り、時おり激しい火花が散っている。
あの瞬間――。
ベイドウが投擲した小球は
それでも、アレクシオスにはどうしても解せなかった。
アレクシオスの推進器は、砂利や泥水を吸い込んでも破損することはない。そうした異物は内部に入り込む前に選り分けられ、自動的に体外に排出されるためだ。
だが、ベイドウが投擲した小球は何らかの理由で排出されず、推進器を機能不全に陥れたのだった。
膝下からこみ上げる灼けるような痛みにもがくアレクシオスのもとへ、ベイドウは悠揚迫らぬ足取りで近づいてくる。
「いいざまだな。その様子じゃ自慢の脚も使えねえだろう」
「貴様、何をした!?」
「知りたいなら教えてやるともさ」
ベイドウが袖を振ると、小球が掌に転がり落ちた。
「こいつは昔から暗器使いのあいだでよく使われてた丸薬でなあ。もっとも、今となっちゃわし以外には作り方を知ってる者もいなくなっちまったがよう」
自嘲まじりに語りながら、ベイドウは指先で小球を弄う。
「ちょっと力を加えるとドロドロに崩れて、
「貴様……!! それを、おれに……!!」
「どんな仕組みかは知らんが、お前さんが風を吸い込んで飛んでるなら、こいつが効くだろうと思ったまでだ。どうやら効果は
心底から愉快げに言って、ベイドウは
「さて……空から叩き落としたところで、お楽しみの続きと行こうかい」
なおも間合いを詰めてくるベイドウに、アレクシオスは傷ついた脚を庇うように後じさる。
脚の機能そのものに問題はない。歩くことはもちろん、その気になれば走ることも出来るだろう。
それだけだ。
自己再生能力によって推進器の機能が回復するまでには、少なくとも数時間を要する。
最大の武器である跳躍力を封じられたアレクシオスは、好むと好まざるとにかかわらず、地に足を着けて戦わなければならない。
言うまでもなく、地上戦の経験においてはベイドウに圧倒的な分がある。
いかに
「どうした。逃げてばかりじゃ勝負にならんぞ。それとも、わしが怖いのか?」
「そう思いたければ勝手にしろ――おれは逃げも隠れもしない!!」
アレクシオスは槍牙を構え、ベイドウを真っ向から見据える。
「だったら、遠慮なく行かせてもらうぜ」
声だけを後に残して、ベイドウはまたしても姿を晦ませる。
アレクシオスは構えを維持したまま、視覚以外の感覚を極限まで研ぎ澄ます。
風の音、空気の流れ、地面から伝わるわずかな振動……。
そのすべてをつぶさに分析し、攻撃の予兆を捕捉しようというのだ。
アレクシオスは右の槍牙をわずかに動かす。
チリン――と軽妙な音を立てて弾け飛んだのは、外周にするどい刃が仕込まれた
アレクシオスは安堵する暇もなく、さらにその場で身体を半回転させる。
槍牙は後方から振り下ろされた細身の剣を受け止め、ずいと押し返す。ベイドウの身体は押し出された勢いのままに数メートルも宙を舞い、ひらりと着地した。
「やるじゃねえか……わしの動きを視るとはよ」
「目で見ることを止めたからだ」
アレクシオスの言葉に、ベイドウは満足げに頷く。
ベイドウの
人間が見ているのは、ありのままの世界ではない。
左右の眼球から取り込まれた情報は、視神経を経て脳に伝達された後、ひとつながりの映像に合成される。人間が視覚を通して認識する世界とは、繋ぎ合わされた映像に他ならないのだ。
その
ベイドウが隠れ蓑として用いたのは、まさにそうした不必要な部分だった。
眼球を通して見えているにもかかわらず、脳が認識しない領域。どれほど目を凝らしても、決して見ることの出来ない無自覚の死角。
そこに身を潜めることで、ベイドウは自在に姿を消してみせたのだ。
ベイドウはそれを見抜き、一時はアレクシオスの目を欺くことに成功した。
だが、そんな欺瞞が通じるのも、相手が視覚を頼りにしている場合だけに限られる。
アレクシオスはあえて視覚を遮断することで、ベイドウの隠れ蓑を剥ぎ取ったのだった。
「諦めろ。もう貴様のまやかしは通用しない」
「そうつれないことを言うもんじゃない。わしはまだ本気を見せちゃいないんだ」
「なに?」
問い返したアレクシオスの前で、ベイドウは軽く身体を揺する。
細い手足が動くたび、袖口や
大小の刀剣、飛
これほど大量の武器を、いったいどうやって衣服の下に隠匿していたのか。それ以上に恐るべきは、常人ならば数歩進んだだけで顎を出すほどの重量を、老翁が素知らぬ顔で持ち運んでいたことだろう。
最後の仕上げとばかりに、ベイドウは口中に隠していた含み針を吐き出してみせる。
「……何のつもりだ?」
「見てのとおりよ。余計な
「暗器使いが頼みの綱の暗器を捨てて、どうやって戦いに勝つつもりだ」
「あれもこれもと持ち歩いちまうのは悪い癖でなあ。――こんなものは、もともとわしには必要ないのさ」
臆面もなく言いのけると、ベイドウは軽く両手を打ち合わせる。
「わしに言わせれば、武器に頼ってるうちは暗器使いもまだまだ未熟よ」
古今東西あらゆる武器の扱いに通じ、戦いの技術を極めた老練の暗器使いが最後に手元に残したものが、とても武器とは呼べないような一対の手甲とは。
それで
戸惑いを隠せないアレクシオスに、ベイドウはにんまりと破顔してみせる。
戦場にはおよそ不似合いな、それは子供みたいに無邪気な笑顔だった。
アレクシオスの背筋を冷たいものが伝う。流れるはずのない冷や汗は、たしかに装甲の深奥から湧き出たものにちがいなかった。
そんなアレクシオスの心を見透かしたように、ベイドウはゆっくりと一歩を踏み出す。
「さあ、そろそろ本番を始めるとしようぜ」
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