第140話 それは血よりも濃く

 広場は水を打ったように静まり返っていた。

 噴き上がるはずの血潮も、耳を聾する悲痛な絶叫もない。

 娘の腕を一息に切り落とすはずだった斧は、ついに柔肌に届くことはなかった。

 分厚く重い刃は空中でぴたりと静止している。

 より正確に言うなら、。 


「いったいどういうつもりですかな、騎士殿――」


 アレクシオスは片手で斧を掴んだまま、司教をまっすぐに見据える。

 黒瞳にはもはや迷いの影はない。

 いまアレクシオスの瞳に息づくのは、力強く揺るぎない意志であった。


「おれが騎士ストラティオテスだからだ」

「あなたを慕っている者たちを裏切ることになるのですぞ」

「関係ない――たとえ誰かを裏切り、傷つけることになったとしても、おれはおれの生き方を貫き通すだけだ!!」


 アレクシオスは司教に向かって大喝すると、斧を軽々と投げ捨てる。

 そして、足元で震える娘に視線を向けると、


「大丈夫か」


 そうするのが当たり前だというように、そっと手を差し伸べたのだった。


「あの……あ……ありが……」

「何も言わなくていい。ここはおれに任せろ」


 アレクシオスが娘を救ったことは、群衆に少なからぬ動揺をもたらした。

 人々は互いに顔を見合わせ、困惑した様子でしきりに何事かを囁きあっている。

 信じがたい事態が発生したことはそれとなく察せられるものの、誰もが断言することを避けているようでもあった。

 騎士は天が自分たちを救うために遣わした存在であると信じる彼らの目に、アレクシオスの行動は理解しがたいものとして映ったのだった。


「いやはや、ご立派なこった――――泣かせてくれるねえ」


 ふいに嗄れ声が頭上から降ってきた。

 アレクシオスがとっさに顔を上げたときには、声の主はすでにそこにはいない。


「どこを見ているんだ? ――ここだよ、ここ」


 アレクシオスは背後から肩を叩かれ、反射的に飛び退っていた。

 気配も音もない。それは影から湧いて出たような奇怪な出現であった。

 枯木みたいな老翁は呵々と笑い声を立てながら、アレクシオスにむかって皺だらけの相好を崩す。


「貴様……ブラフォス城の……」

「おお? 覚えててくれたとは嬉しいねぇ」

「なぜここにいる? 貴様もゼーロータイの一味だったのか?」

「まあ、そんなところだ」


 飄々と答えながら、老翁はコキコキと首の骨を鳴らす。


「わしはベイドウ。ナギド・ミシュメレトの使いっ走りとでも言っておこうか。見てのとおり、しがない老いぼれよ――」


 やはり小気味のいい音を立てて首を回しながら、ベイドウは司教を見やる。


「その娘は離してやれ。片腕失くすほどの罪でもあるめえ」

「し、しかし……」

「本当の裏切り者は別にいる」


 ベイドウが顎をしゃくると、広場に詰めかけた人々の視線が一点に集中した。

 彼らの視線の先にあるものを認めて、アレクシオスはちいさく「しまった」と呟く。

 その存在を失念していた訳ではない。

 それでも、この瞬間まで注意を怠っていたのは、まぎれもない事実だった。


「よお、出てこいよ――そこにいるのは分かってるんだぜ」


 ベイドウは、まるで昔なじみの友人みたいな気安さで呼びかける。

 潮が引くみたいに退いた人々の中心で、赤銅色の髪が風に揺れていた。


***


 広場に蝟集した群衆のあいだには、大小二つの人の環がぽっかりと生じていた。

 縦に連なった二つの円は、遠目にはまるでひょうたんみたいに見えただろう。

 大きなほうの一方はアレクシオスと娘を中心に、そして、小さなもう一方はラフィカを中心にまるく円を描いている。


「ラフィカ!!」

「おっと、お前さんはそこで大人しくしててもらおうかい。これはわしらの戦いだ」


 おもわず一歩を踏み出しかけたアレクシオスを、ベイドウは片手で制する。

 アレクシオスはラフィカに目を向ける。瑠璃色の瞳は、無言のうちに一つの意志を伝えていた。

 手出しは無用――戦いの当事者がともにそう望んでいる以上、アレクシオスはただ見守ることしか出来ない。


一対一サシの勝負はこうでなくちゃいけねえ」


 ひとりごちるように言って、ベイドウはラフィカにつかつかと歩み寄る。

 黙って立ち尽くしていたラフィカも、ベイドウが間合いに近づくのを見計らって、わずかに半身を下げた構えを取る。


「いつから私の正体を見抜いていたんです?」

「そりゃおめえ……最初からよ」


 ラフィカの問いに、ベイドウはくっくと肩を揺らす。


「他の連中は知らんが、わしの目は誤魔化せん。隠れ、忍び、欺き、殺す……すべてわしの本領だ」

「暗器使い――」

「今となってはわし一人になっちまったがなあ」


 ベイドウが右の袖を軽く振ると、長剣がするりと掌にすべり落ちた。

 どう見ても隠しておけるはずのない場所から現れた長剣に、人々から驚きの声が上がったのも当然だった。

 身に寸鉄も帯びていないように装いながら、衣服の下に無数の武器を携行する。それこそが暗器使いの真髄であり、彼らが暗殺者として恐れられた所以でもある。


「あんたの得物だろう? 荷物のなかに隠してたのを失敬させてもらった」

「相手の得意な武器で仕留めるのがあなたの流儀ですか」

「いいや、その逆よ」


 言うが早いか、ベイドウの手を離れた長剣は、ラフィカにむけて放物線を描いていた。

 ラフィカは危なげなく鞘を掴み取ると、そのまま腰帯に差し込む。抜き打ちに最も適した位置へと。


「……何のつもりです?」

「何も企んじゃいない。ただ、素手では勝負にならんだろうと思ったまでだ」

「その驕り、命取りになりますよ」

「命取りか。そりゃいい。ぜひともそう願いたいもんだが……」


 言って、ベイドウはわずかに腰を落とす。

 構えとも呼べない微小な姿勢の変化。両手はだらりと垂直に下げたまま、武器を取り出す気配もない。

 殺意の欠片も感じさせないその姿は、かえってラフィカの胸をざわめかせた。


「――わしが勝つさ」


 次の刹那、ベイドウの姿は忽然と消え失せていた。

 老翁の身体は、一瞬に霧と化して消失してしまったようでもある。

 ベイドウの姿を見失ったのは、ラフィカや居並ぶ人々だけでなく、アレクシオスにしても同じだった。

 騎士の視力でも追随出来ない動作は、武術というよりは、ほとんど魔術の領域に足を踏み入れている。


「ラフィカ!! 右だ!!」 


 アレクシオスはほとんど無意識のうちに叫んでいた。

 夕闇を裂いて銀光が閃く。反射的に抜き放った一刀は、過たず凶刃を迎え撃っていた。

 広場に金属と金属とがかち合う甲高い音が響き渡る。

 ベイドウは飛び退りながら、空中で二、三度身体をひねり、そのまま音もなく着地する。


「余計な真似を……と言いたいところだが、今回ばかりは礼を言わにゃな。初手で勝負がつくのは面白くない」


 ベイドウはアレクシオスをちらと見やり、舌なめずりをする。

 そのままラフィカに向き直ると、


「わしの動きを見切るとは、あんたもいい腕をしてる。教えられてから抜いていたんじゃ間に合わなかっただろう」

「それはどうも――敵に褒められてもあまりいい気分はしませんけど」

「殺しちまうには惜しいが、これもお役目だ。悪く思うなよ」


 ベイドウはふたたび構えを取っていた。

 両手の指先は、いつのまにか金属質の鋭い輝きを帯びている。


 鉄嘴爪てっしそう――。

 鋭利な形状から鳥の嘴になぞらえられるそれは、暗器使いに最も好まれた武器の一つだ。

 たんに隠匿が容易であるというだけでなく、熟練者が用いれば剣を受け止めることも出来る。暗殺と正面戦闘という相反する用途を兼ね備える鉄嘴爪は、身一つで敵地に忍び込む暗器使いにとってこの上ない利器であった。

 反面、習熟にはかなりの鍛錬を必要とするため、完璧に使いこなせる者は暗器使いのなかでもほんのひと握りにすぎなかったのも事実だった。

 暗器術が衰退したこの時代において、ベイドウは鉄嘴爪の唯一にして最高の使い手だった。

 使い手がいないということは、敵に対策を講じられる懸念がないということでもある。技術の消滅と引き換えに暗殺術として無二の強みを得たのは、皮肉と言うべきだろう。


「行くぜ」


 ベイドウの身体はまたしてもラフィカの視界から消え失せた。

 ラフィカは呼吸を整え、周囲の空気の流れに神経を集中させる。

 物体が移動する際には、かならず空気を押しのける必要がある。技術によって足音を消すことは出来ても、押しやられた空気を消すことまでは不可能だ。

 人体の質量を無にしないかぎり、完全な隠密は実現出来るものではないのだ。


「――――!!」


 刻一刻と黄昏の色を深めていく夕空に、白銀の斬線が迸った。

 まさしく神速の抜刀。

 決して見えず、触れることの出来ない空気さえ、一刀のもとに両断されたようであった。

 だが――先ほどとは異なり、両者のあいだに衝撃音はついに生じなかった。

 ラフィカはわずかに後じさると、左手を右肘のあたりに押し当てる。

 あっけに取られたように見つめるアレクシオスと群衆の前で、ラフィカの肘下はみるみる真っ赤に染まっていった。

 血は止めどなく溢れ、指先と剣把をしとどに濡らしていく。


「残念だったなあ」


 ベイドウは勝ち誇るみたいに哄笑する。

 鮮血に濡れた右手の鉄嘴爪は、常人には視認することさえ出来ない攻防を制したことを雄弁に物語っている。


「後の先を取ったつもりだろうが、まだまだ甘い。たしかにあんたは凄腕だが、わしのほうが一枚上手だったということさ」

「もう勝ったつもりですか? 勝負は、まだ――」

「その腕ではどう足掻いても勝てん」


 あくまでそっけなく言うと、ベイドウは鉄嘴爪の血を払う。

 剣士にとって、利き腕の負傷は戦いの死命を左右するほどの重大事だ。

 精妙巧緻な剣技の使い手であるほど、手傷を負ったことによる影響は計り知れない。

 命に関わるほどの深手ではないとはいえ、もはやラフィカに十全の戦いが望めないことは一目瞭然だった。


「暗器使いと戦うのはこれが初めてじゃないだろう。それが油断の元になった。経験ってのは皮肉なもんだ。時にはそうして足を引っ張る……」

「なぜそう言い切れるんです?」

「あんた、パラエスティウムに行く途中で暗器使いの男と戦っただろう」


 ラフィカを見据えるベイドウの顔には、もはや一片の笑みも見当たらなかった。


「あれはわしの弟子だ。ずいぶん長いこと生きてきたが、後にも先にも弟子を取ったのは奴一人だけよ。それなりに手塩にかけて育てたつもりだったが、まさか不覚を取るとは思わなかったぜ」

「師匠であるあなたがその仇討ちをしようと言うのですか」

「まさか――たとえ血の繋がった親兄弟だろうと、互いの生き死には干渉しない。それが暗器使いの掟だ。奴がどこで野垂れ死のうと、わしの知ったことじゃない」


 ベイドウはこともなげに言いのける。

 あくまで飄々と語ってはいるが、言葉の一つひとつにそれが本心からのものだと確信させる迫力が漲っている。


「わしはな、ただ、知りたくなったのよ」


 鉄嘴爪を伸ばしながら、ベイドウはラフィカに近づく。


「あのシュラムを殺すほどの相手が『帝国』にいるなら、戦ってみたい。わしはいつか奴に殺されてやるつもりだった。その予定が狂ったなら、どこかで帳尻を合わせにゃならん」

「つまり、あなたは弟子を殺した相手と戦って死にたかったと?」

「とんだ期待はずれだったがな」


 ベイドウは両腕を大きく広げる。

 翼をめいっぱい広げた鳥を彷彿させるそれは、文字通り必殺の構えであった。

 この態勢からであれば、十指の鉄嘴爪を自在に繰り出すことが出来る。

 まして相手がろくに剣を振るえない身体となれば、どう料理するもベイドウの胸三寸なのだ。


「さあて、おしゃべりはここまでにしとこうかい。無駄な抵抗をしようなどとは思わんほうがいいぜ。なるべく楽に死にたければ、だがよ――」


 と、ふいにベイドウは足を止めた。

 背後にただならぬ気配を感じたためであった。

 ベイドウがゆるゆると振り返ると、すぐ後ろに迫りつつあるアレクシオスと目が合った。


「……何のつもりだ? 手出しは無用と言ったはずだが」

「貴様の弟子を殺したのはこのおれだ」


 アレクシオスはそのまま進むと、ラフィカとベイドウのあいだを遮るように立った。


「ここからはおれが相手になる」

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