第139話 偽りの楽園

「なぜ、お前がここに――」


 言いさしたアレクシオスにむかって、ラフィカは人差し指を立てる。


「それを言うのは私のほうです。あの夜の戦いから行方知れずになっていると聞いていましたが、まさかこんなところにいるとは思ってもみませんでしたよ」

「すまん……」

「べつに謝らなくてもいいですよ。あなたが無事だと知れば、皆さんも安心するでしょうし。だいぶ心配していたようですからね」


 何の気なしにラフィカが口にしたその言葉は、アレクシオスの心に棘みたいに突き刺さる。

 仲間たちは自分のことを心配し、帰りを待っていてくれている。

 一方で、アレクシオスにはそんな仲間たちの思いを素直に喜べない理由もある。

 いまの自分には仲間のところへ――『帝国』に戻る資格があるのか。

 この聖域アジールにこの上ない居心地のよさを覚えてしまったことは、まぎれもない事実なのだ。


 一時の気の迷いだったと切り捨てるのはたやすい。

 それでも、一度心を捉えた想念おもいは、どう取り繕ったところで消せるものではない。

 心のどこかに後ろ髪を引かれるような気持ちを抱えたまま、『帝国』の騎士ストラティオテスとしてゼーロータイとの戦いに臨むことが出来るのか。

 かつての自分なら迷うはずもなかった問いに、アレクシオスは答えを出しあぐねている。


 すこし前――。

 移住者たちのなかからラフィカを見つけ出したアレクシオスは、人目をはばかるように声をかけた。

 最初は人違いだと言って一向に取り合おうとしなかったラフィカだが、さりげなく目配せをすると、人気ひとけのない場所を指し示した。

 どこかに潜んでいる監視者の目を欺くために、二人が別々の道を通っていったことは言うまでもない。

 そして集落の外れにぽつんと佇む廃墟に到着すると、ラフィカは周囲に誰もいないことを注意深く確かめたあとで、ようやく口を開いた。

 最初に口をついて出たのは、アレクシオスの迂闊さに対する非難だった。

 もし誰かに見られていたらどうするのか――ラフィカの指摘に、アレクシオスはただただ詫びることしか出来なかった。

 ここまで正体を知られることなく潜入するためには、並々ならぬ苦労があったはずだ。

 騎士であるアレクシオスと顔見知りであることを知られれば、その瞬間にすべての努力は水泡に帰すだろう。

 アレクシオスなりに気を遣っていたとはいえ、ラフィカとしては気が気でなかったにちがいない。


「……私がここにいるのは、皇帝陛下の命令によるものです」


 先ほどのアレクシオスの問いかけに、ラフィカは言うまでもないといった風で答える。

 皇帝直属の護衛であるラフィカが、それ以外の理由で動くはずはないのだ。


「辺境軍の密偵が相次いで消息を絶った事件を調べるうちに、各地の東方人のあいだに広まりつつある地下結社に行き着いたんです」

「ゼーロータイ……」

「そのとおり。私も驚きました。パラエスティウムであなたが聞いた言葉の意味を、まさかこんな形で知ることになるとは……」


 ラフィカは崩れかかった壁に背をもたせかかりながら、なおも続ける。


「アレクシオスさん、いま外の世界で何が起こっているかご存知ですか?」

「いや――」

「辺境ではいつ大反乱が起こっても不思議ではない状況です。そうなれば、各州に駐屯している辺境軍も同調するでしょう。彼らも東方人なら、親兄弟に刃を向けてまで国家に忠誠を尽くすとは思えません――」

「奴らが蜂起を企んでいることは知っていたが、まさかそこまでとは……」

「信じられないかもしれませんが、すべて本当のことです。いままで気づかれなかっただけで、異変は何年も前からひそかにこの国を蝕んでいたんですよ」

「……もし反乱が起きたら、『帝国』はどうなる?」

「滅びるでしょうね」


 ラフィカはこともなげに言ってのける。


「『帝国』は東方人によって支えられているようなものです。彼らを敵に回したら、もう国家としての体裁を保つことなど出来ませんよ」


 アレクシオスは何も言わず、ただ拳を握りしめるだけだった。

 予想していたとはいえ、あらためて突きつけられた事実は、やはり重い。

 いかに超常の力を持つ戎装騎士ストラティオテスでも、壊れつつある『帝国くに』を救うのは困難だ。

 もし騎士の力で反乱を鎮圧しようとすれば、アルサリールの言葉どおり、数えきれないほどの人間を殺戮することになる。それは取りも直さず、ひと握りの西方人のために大多数の東方人を殺すということにほかならない。

 ヘラクレイオスたちがゼーロータイの側について戦うというなら、はたして正義はどちらにあると言えるのか。


「私は何日かここで調査を行ったあと、帝都に戻って皇帝陛下に報告するつもりです。手遅れにならなければいいですけどね」

「……そのときは、おれも一緒にここを出るのか」

「何を当たり前のことを言っているんです。本当に大丈夫ですか? アレクシオスさん」


 驚いたように問い返され、アレクシオスははたと我に返る。

 騎士として『帝国』と皇帝に仕えている以上、本来いるべき場所に戻るのは当然だ。

 アレクシオスは、心が揺れ動いていることを悟られまいと、努めて平静を装う。

 建物の外で怒声が響いたのはそのときだった。


***


「この恥知らずの裏切り者!!」


 太りじしの農婦は、心底から憎々しげに吐き捨てる。

 昼間、畑から石を取り除いたアレクシオスに礼を述べた農婦であった。

 いまやその両眼は憎悪のために血走り、温和な面影はすっかり消え失せている。

 集落の広場では二十人ばかりの女たちが環をつくり、子供や傷病人がそれを遠巻きに見つめている。

 その中心に崩折れるように横たわっているのは、一人の少女であった。

 年齢としはまだ十五、六といったところだろう。

 痩せぎすの身体は恐怖のためにいっそう萎縮し、打擲されたらしい片頬はひどく腫れ上がっている。


「手紙なんて書いて、あんた、いったいどういうつもりだい!?」


 農婦は手にした紙片で娘の顔を叩きながら、激しく詰問する。


「いったい誰に渡すつもりだったんだい!? この場所のことを『帝国』に知らせようとしていたんだろう!!」

「ち、違います……。私はただ、故郷の父さんと母さんに無事でいることを知らせようと――――」

「白々しいことをお言いでないよ!! あんたが西方人の手先だということは分かっているんだ!!」


 農婦が声を張り上げると、周囲の女たちも口々に娘を罵りはじめた。


「田舎娘のくせに読み書きが達者なのも、きっと西方人に教え込まれたからだよ。あたしらがろくに字も読めないと思って馬鹿にしてるのさ」

「皇帝に尻尾を振る雌犬め!!」


 解き放たれた悪意はとどまるところを知らず、その場の全員に伝播していく。

 狂気じみた興奮がいよいよ最高潮に達しようというとき、群衆はひとりでに左右に分かれていった。


「いったい何の騒ぎだね?」


 人々のあいだを通って現れたのは、移住者たちを引率してきた男であった。


「司教さま、この娘がこんなものを書いて……」

「ふむ――どういうことかね。君をここに連れて来るとき、日が高いうちの煮炊きと、外部への連絡は禁止されていると教えたはずだが」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 娘は地面に額をこすりつけ、涙声で謝罪の言葉を繰り返す。


「私、神様に誓います。もう二度と手紙なんて書きません。だから、許してください……」

「残念だが、それは出来ない。君はすでに罪を犯した」


 司教と呼ばれた男は、娘の哀願など聞く耳を持たないというように、あくまで冷たく言い放つ。


「他の者に示しをつけるためにも、掟を破った者には然るべき罰を与えねばならない」

「罰……ですか……?」

「罪を犯したほうの手を神に差し出しなさい」


 その言葉の意味を理解した瞬間、娘の顔から血の気が引いていった。

 片腕を切り落とされる――うら若い少女にとって、それはあまりにも残酷な仕打ちだった。

 娘は何かを言おうとするが、恐怖のために歯の根が合わず、ただ地に伏してすすり泣くことしか出来ない。

 ふいに群衆の後方でざわめきが生じた。


「おまえたち、何のつもりだ!!」


 居並ぶ人々を突き飛ばすようにして、アレクシオスは広場の中心に躍り出る。


「これはこれは、騎士殿――」


 司教はアレクシオスを一瞥すると、慇懃に一礼する。


「答えろ。大勢でたった一人を取り囲んで何をしている?」

「この娘は外部に向けて手紙を書くという罪を犯しました。今回は生命を助けるかわりに、片腕を差し出すように言い渡したところです」

「バカな――そんな無法があってたまるか!!」

「無法とは心外ですな。『帝国』には『帝国』の法があり、私たちには私たちの法があるというだけのこと……」


 司教はアレクシオスに背を向けると、さっと片手を高く掲げる。

 それが合図だったのか、斧を抱えた少女と、血止めのぼろ布を携えた男の子が人々のあいだを縫うように進み出た。

 アレクシオスはなおも司教ににじり寄る。


「おれの前でそんな真似は許さん。いますぐこの娘を解放しろ。さもなくば、力ずくでも……」

「騎士殿、あなたは何か勘違いをなさっているようだ」

「なに!?」

「私はあくまで皆の意見を代表しているにすぎない。身勝手な行動で聖域アジールを危険に晒したこの娘が罰を受けるのは当然だ。もし力ずくで私を止めるというなら、この場にいるすべての人間を敵に回すことになる。はたして、あなたにそれが出来ますかな?」


 司教の言葉に、アレクシオスははっとして周囲に視線を巡らせる。

 人々は不安げにアレクシオスを見つめている。これほど大勢の視線を浴びているにもかかわらず、敵意は毫ほども感じられない。

 誰もがただ祈っているのだ。

 騎士ストラティオテスが自分たちの味方であることを。

 裏切られたと知ったとき、彼らの胸に去来するのは怒りや憎しみではない。

 それは、信じてやまない騎士アレクシオスに対する底知れない落胆と失望であるはずだった。


「おれは……」

「騎士殿、あなたを信じている者たちを裏切ってはなりません。あなたは皆の希望なのですから」


 司教はアレクシオスの耳元でささやくと、女たちに目配せをする。

 太った農婦がのしかかるように娘を取り押さえ、女の一人が斧を手に取った。

 そして、そのまま斧を高々と振り上げると、泣き叫ぶ娘の腕めがけて叩きつけたのだった。

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