第138話 夢の終わりに…

「……私、ずっと謝りたかった」


 暖炉の火を見つめながら、オルフェウスはぽつりと呟いた。

 火はあかあかと燃えさかり、つい先ほどまで底冷えがしていた部屋は徐々に暖まりつつある。

 オルフェウスとマリウスは、暖炉に近い椅子に並んで腰掛け、二人で火に当たっている。


「謝る? 君が?」

「あのとき、戎狄バルバロイを取り逃がしたこと……マリウスが襲われたのは、私のせいだから。私がちゃんと戎狄を倒していれば……」

「なんだ、そんなことか――」

「でも……」

「私はこうして生きている。君は何も気に病むことなどないんだよ」


 マリウスは努めて明るく言うと、オルフェウスにむかって相好を崩す。

 あの頃と変わらない笑顔。戎狄との戦いから戻るたび、この笑顔が出迎えてくれた。

 しばらくオルフェウスを見つめていたマリウスだったが、ふいに視線を外すと、真剣な表情を浮かべた。


「謝らなければならないのは私のほうだ」

「なぜ……?」

「君を一人にしてしまった。寂しい思いをしただろう。本当にすまないと思っている」


 オルフェウスは瞼を閉じると、ちいさく首を横に振る。


「私がいなくて寂しくなかったかい?」

「寂しかった……けど、マリウスは悪くない」

「ありがとう。これからはずっと一緒だ。もう君を一人にしたりしない」


 オルフェウスはこくりと頷く。

 相も変わらずの無表情だが、少女の心は喜びにあふれている。

 二度と帰らないと思っていた人が目の前にいる。どれほど悔やんでも取り戻せないと思っていた時間を、こうしてまた二人で過ごすことが出来る。

 オルフェウスはあらためてマリウスの顔を見つめ返す。

 近くにいる。ただそれだけで、心の空白が満たされていくような気がした。


戎狄バルバロイはもういない。君が戦う理由はなくなったんだよ。これからは、この場所でいつまでも暮らしていこう」

「でも、私、戻らなきゃ……」

「戻る? ……ここ以外のどこへ戻るというんだ?」


 マリウスは怪訝そうな面持ちでオルフェウスに問いかける。


「みんなのところ……」

「みんなとは、いったい誰のことかな」

「イセリアやエウフロシュネー、ヴィサリオン……アレクシオスのところに……」

「オルフェウス。君には、私よりも彼らのほうが大事なのか?」

「それは――」


 返答に窮したオルフェウスは、無意識のうちにマリウスから視線を外していた。

 残酷な二者択一を迫られたことで、再会の喜びも冷水を浴びせかけられたようだった。

 記憶の中のマリウスは、しかし、そんな底意地の悪い問いかけが出来るような人間ではないはずだった。


――なぜこんなことを訊くのだろう?

――マリウスは変わってしまったのだろうか?


 胸裡をよぎる疑念の一つひとつに、オルフェウスは否を突きつける。

 

――変わってしまったのは、私のほうだ。


 昔の自分なら、一も二もなくマリウスのほうが大事だと答えたはずだ。

 あの頃のオルフェウスにとって、マリウスは世界のすべてにも等しかった。

 だが、いまは違う。

 マリウスを失ったあと、オルフェウスは芽生えた精神こころを抱えたまま、孤独にこの世界を生き抜いてきた。

 そこで出会ったかけがえのない仲間たちは、いまや自分自身の血肉も同然だ。

 彼らが戦いに身を投じるなら、自分もその力になりたい。

 彼らが傷つけられそうになっているなら、この手で守ってあげたい。

 マリウスはそんなオルフェウスの変化を見抜き、もうあの頃には戻れないと悟ったのかもしれない。

 胸の奥が鈍く痛む。

 変わってしまったことは罪なのだろうか。自分が選んだ道は間違っていたのか。

 

「分からない……私には、比べられない」

「いいや。君には分かっているはずだ、オルフェウス。本当のことを言ってごらん?」

「私にはマリウスもみんなも同じくらい大切だよ」


 マリウスは深いため息をつくと、オルフェウスにちらと視線を向ける。

 普段の慈しみに満ちた眼差しとはまるで違う、それは試すような眼だった。

 大切な人が初めて見せたその眼に、オルフェウスは心がざわつくのを感じていた。


「みんなのところへ行って、君は何をするつもりだ?」

「また戦いが始まるかもしれない……私も一緒に戦わなくちゃ……」

「放っておけばいい。騎士は君のほかにも大勢いる。君はもう十分に戦ったじゃないか」

「だけど、私は……」

「いいかい、オルフェウス。君は利用されているんだ。彼らの言いなりになってはいけない」

 

 マリウスはオルフェウスの肩に手を置くと、語気強く言い切った。

 利用されている――その言葉は、オルフェウスに少なからぬ動揺を与えた。

 それも当然だった。誤解や衝突を乗り越えて、育んできた仲間との絆を頭から否定されたも同然なのだから。

 当惑を隠せない少女に追い打ちをかけるように、マリウスはなおも続ける。


「私は君に戦ってほしくない。君が傷つくところを見たくない」

「マリウス……」

「君はもう戦わなくていい」


 その言葉に、オルフェウスは俯いていた顔を上げる。

 真紅の瞳がまっすぐにマリウスを見据える。

 オルフェウスの横顔は、もはや逡巡に揺らぐ少女のそれではない。

 美しい瞳には揺るぎない意志が息づいている。


「ちがう……」

「違う? いったい何が違うというんだ?」

「あなたは、マリウスじゃない――」


 にむかって、オルフェウスは決然と言い放つ。


「マリウスは、私に戦うなとは言わなかった。あの人は、私と一緒に戦うと言ってくれた。私に大切なものを守るために戦うことを教えてくれた」

「オルフェウス、なんのつもりだ!?」

「本当は分かっていたよ。マリウスはもう戻ってこない。それでも、私は生きていくと決めた。だから――」


 オルフェウスはゆらりと立ち上がる。

 いつのまにか、少女のたおやかな両手は異形に変じていた。

 真紅の装甲に覆われた掌で微細な火花が散る。”破断の掌”が作動したのだ。

 それが合図であったかのように、部屋の壁が奇妙に歪曲していく。窓の外に目を向ければ、景色は霧消し、虚無がぽっかりと口を開けている。

 この宇宙のあまねく存在を消滅させる掌は、魔眼が作り出した偽りの空間さえも断ち切るというのか。

 決して内側からは破れないはずの夢の牢獄は、まさに崩れ去ろうとしている。

 

「……ねえ、マリウス、やっぱり夢だったよ」


 オルフェウスは寂しげに呟く。

 ほんの一瞬前までは、周囲の景色と同じように、ほとんど輪郭を失いつつある。

 ためらいを断ち切るように、オルフェウスはにむかって右手を伸ばす。


「もし現実ほんとうなら、私にこんなことは出来ないもの――――」


 玲瓏な声に嗚咽が交じる。

 真紅の瞳は潤み、まなじりから透き通った雫がこぼれおちる。

 それは、あの夜、どれほど願っても流すことの出来なかったもの

 止めどなく溢れる涙は、オルフェウスの視界をぼんやりと滲ませる。

 まるで涙が意志を持ち、みずからの手でかけがえのない人を消し去る瞬間を見せまいとしているようであった。


 やがて、”破断の掌”がひときわまばゆい輝きを放つと、かろうじて形を保っていた世界は跡形もなく消え去った。

 夢の檻は破壊された。

 アルサリールが仕掛けた秘術は、ついに打ち破られたのだ。

 急速に現実へと引き戻されるなかで、オルフェウスの胸に一つの感情が兆した。

 心の奥底で黒い炎が渦巻き、理性では抑えきれない衝動が身体を揺さぶる。

 それは、オルフェウスが生まれて初めて抱いた本当の怒りだった。


***


「そんなはずはない――なぜ、まだ動ける……!?」


 オルフェウスの瞳に失われていた輝きが戻ったことを察知すると、アルサリールはほとんど飛び退るように距離を取っていた。

 幻瞳術が発動してからこの瞬間まで、現実で経過した時間はわずか一分あまりにすぎない。

 必殺の術が破られたことで、両者の立場は完全に逆転した。

 いまや狩る者は狩られる側へと回ったのだ。

 絶体絶命の窮地に追い込まれたアルサリールは普段の余裕を失い、秀麗な面立ちは驚愕に歪んでいる。


「私の術が不十分だったのか? それとも、奴が自力で術を破ったとでも……」


 そのあいだにも、オルフェウスはゆっくりと近づいてくる。

 少女はすでに戎装を終え、真紅の騎士へと変形へんぎょうを遂げている。

 闇雲に後退を続けるうちに、アルサリールは家々のあいだの細い路地に入り込んでいった。

 そこが行き止まりだと理解したとき、オルフェウスはアルサリールのすぐ後ろまで迫っていた。

 無貌の面に白光が走るたび、半透明の装甲はまばゆい輝きに彩られる。

 世にも美しい死神は、凍てついた炎をまとい、罪人に裁きを下すために一歩を踏み出す。


「いままで誰かを本気で憎いと思ったことはなかった。心の底から誰かを許せないと思ったこともなかった」

「やめろ……それ以上近づくな……」

「だけど、やっと分かった――私は、あなたを許さない」


 オルフェウスはあくまで淡々と言葉を紡いでいく。

 激情に任せてがなりたてる怒声とは真反対の、どこまで冷たく澄みきった声。

 それは美しくも残酷な死の宣告であった。

 静かな殺意を向けられたアルサリールは、ほとんど恐慌パニック状態に陥っている。


「あなたは私の一番大切な思い出を踏みにじった。


 アルサリールは懐から短剣を抜くと、裂帛の雄叫びとともにオルフェウスに躍りかかる。

 いかに戎装騎士ストラティオテスのなかで最も装甲が薄いオルフェウスでも、短剣で傷をつけられるはずもない。

 短剣はあくまで注意をそらすためのものだ。

 アルサリールは、ふたたびオルフェウスに幻瞳術を仕掛けるつもりだった。

 戎装した騎士相手に通じる保証がないことも、幻瞳術の連続使用が危険であることも承知している。限界を超えた術の行使が術者の肉体にどのような影響を及ぼすかは、アルサリール自身にも予想がつかないのだ。

 それでも、この絶望的な状況を切り抜けるためには、我が身を捨てた一撃に賭けるしかない。

 アルサリールの双眸が妖々と輝きはじめた。

 オルフェウスは避けるでもなく、無貌の面で真正面から魔眼を見据える。

 

「――――あなたを消す」


 その言葉は、はたしてアルサリールの耳に届いたかどうか。

 アルサリールの術が発動したのと、オルフェウスの身体が加速に突入したのは、ほとんど同時だった。

 ひとたび加速に入れば、視覚と聴覚はもはや用をなさなくなる。

 視覚器は十分な光量を取り込むことが出来ず、音は彼方へと置き去られるためだ。

 オルフェウスは加速に入る直前にすべての動作を手足に入力することで、凍てついた時間のなかで

 路上の塵埃さえぴたりと静止した空間のなかで、オルフェウスの両掌がかすかな光を放ち始めた。

 ”破断の掌”が起動したのだ。

 真紅の軌跡が縦横に走るたび、アルサリールの身体はごっそりと消え失せていく。

 オルフェウスの両掌にひしめく十六兆あまりの微細な刃は、軽く撫ぜただけで、いかなる物体も消滅させることが出来る。人間の肉体を分子の塵に還す程度は造作もないことだ。

 血の一滴も流れず、痛覚が神経を走るより疾く、アルサリールはこの世界から痕跡も残さずに消滅しようとしている。

 最後に残ったのは、魔性の光を宿した両眼だけだ。

 ふたつの眼球が空中に浮かぶ光景は異様としか言いようがない。

 虹彩に宿る妖しげな光芒は、このような姿に成り果ててなお呪いをかけようとする呪眼師の意地か。

 オルフェウスは右手を掲げると、そのまま真横に薙ぎ払う。

 柘榴石ガーネットの指が通過したあとには、ただ虚空が広がっていた。


 すべての動作を終え、オルフェウスは加速を停止する。

 少女と外界を隔絶していた闇色の帳は取り払われ、光と音がふたたび戻ってくる。

 氷が溶け出すように、世界は本来の時間の流れを取り戻していく。

 オルフェウスはアルサリールが立っていた場所に視線を向ける。

 細く薄暗い路地は、まるで最初から誰もいなかったみたいに静まり返っている。

 ほんの数瞬前までアルサリールという人間の肉体を構成していた物質は、路上を舞う塵埃と混じり合い、いずこかへ拡散しているだろう。

 もし霊魂を観測することが出来るなら、自分が死んだことにさえ気づかず、呆然と立ち尽くす一人の男を認めたはずであった。


 オルフェウスは戎装を解くと、その場でさっと踵を返す。

 敵は跡形もなく消滅したとはいえ、先ほどの叫び声を聞きつけたこのあたりの住民が集まってくるかもしれない。

 襲撃を切り抜けたばかりというのに、また別の厄介ごとに巻き込まれては面倒だ。


 数歩進んだところで、オルフェウスはふいに立ち止まった。

 そして、震える指で頬に触れる。

 ゆっくりと頬を離れた指先は、たしかに濡れていた。

 人間の涙は塩の味がする――以前イセリアがそんな話をしていたことを思い出して、オルフェウスは指先を唇に近づけようとする。

 白い指が薄桃色の唇に触れる寸前、オルフェウスは腕を下げおろし、指先を濡らしていたものを振り払った。

 

――涙であるはずがない。


 半ばまでそう確信しながら、それでも、オルフェウスは決定づけられてしまうことを望まなかった。あいまいなままにしておけば、心のどこかで信じ続けることは出来る。

 ぽつぽつとちいさな水音が生じたかとおもうと、銀線みたいな雨がまたたくまに視界を埋めていった。

 驟雨にわかあめであった。

 気だるい午後にひとときの涼をもたらす通り雨は、夏の帝都の風物詩としても知られている。

 降りしきる雨は、戦いの痕跡も、少女の頬を濡らしたものも、等しく洗い流していく。

 オルフェウスは路上に置きっぱなしにしていた買い物袋を拾い上げると、詰め所への道を小走りに駆けていった。

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