第137話 魔眼の光芒

 オルフェウスとアルサリールは、いつのまにか狭い路地に足を踏み入れていた。

 立錐の余地もないほど混み合っている大通りよりも、目立たない裏通りを通ったほうがずっと早く目的地に到着するためだ。

 家々がびっしりと軒を連ねる裏通りは昼なお薄暗く、物寂しい風情が漂っている。

 人通りの少なさといい、陰々とした雰囲気といい、大通りの華やかな殷賑ぶりとは何もかもが対照的であった。

 若い女が一人で出歩くことが憚られるような場所でも、オルフェウスは一向に気にする素振りもない。こうした裏通りには、ただ道を歩いているだけで人の注目を集めなくて済むという代えがたい利点がある。


 それはアルサリールにしても同じことだ。

 オルフェウスが自分から人気のない道に入っていったのは、彼にとって願ってもない僥倖だった。

 これから実行する術には、なによりも精神の集中が不可欠なのだ。

 むろん、雑踏の只中でも術を成功させる自信はあるが、なにしろ機会はたった一度しかない。

たとえそれが万分の一であるにしても、仕損じる可能性はすこしでも減らしておきたいと考えるのは当然だった。

 ふいにアルサリールが足を止めた。


「……どうしたの?」 


 オルフェウスもその場で立ち止まり、アルサリールを見やる。


「じつは先ほど、懐から通行手形を落としてしまったようで――」

「……そう」

「私はここに残って手形を探します。せっかく案内してくれているところ申し訳ないが、どうかお気遣いなく……」


 オルフェウスはアルサリールにつかつかと歩み寄ると、


「……どこで落としたの?」


 先ほどの言葉などまるで聞いていなかったというように、捜索の手伝いを申し出たのだった。


 通行手形は、帝都イストザントの大城門で交付される小ぶりな木札である。

 これがなければ市内に足を踏み入れることは出来ず、帝都から出る際には必ず返却しなければならない。もし紛失した場合、再交付にはきわめて煩瑣な手続きを踏む必要がある。

 それゆえ、帝都を訪れる旅人や商人のあいだでは、通行手形の紛失と盗難は最も恐ろしいことの一つに挙げられる。

 不運にも強盗に身ぐるみを剥がされ、全財産を奪われそうになったときでさえ、多くの者が生命と手形だけは勘弁してくれと懇願するほどであった。


 もっとも、アルサリールの場合は最初から手形など持ち合わせていなかった。

 アイリスの能力によって誰にも気づかれることなく帝都に侵入したアルサリールには、もとより手形など必要ない。

 ありもしない手形の紛失をでっち上げたのは、オルフェウスを謀り、一瞬の隙を作るためだ。

 秘術を仕掛けるには、目を瞬かせるほどのわずかな時間で事足りる。

 その瞬間にアルサリールは全身全霊を傾け、美しい騎士を死の夢へと誘うつもりだった。


 警戒する様子もなく近づいてくるオルフェウスに、アルサリールは内心でほくそ笑む。

 オルフェウスが手助けを申し出ることは分かっていた。秀麗な氷細工を思わせる容貌に似合わず、他人の窮状を見過ごせるような少女ではないことは、とうに調べがついている。

 目深にかぶった笠の下で、アルサリールの瞳は徐々に妖しい光を帯びていく。

 オルフェウスが目と鼻の先に近づいたのを見計らって、笠のつばに指をかける。あくまでさりげなく、警戒心を抱かせないように注意を払っていることは言うまでもない。

 次の刹那、つばがはね上げられるや、アルサリールの双眸はオルフェウスの真紅の瞳を真正面から捉えていた。

 オルフェウスはとくに驚いた風もなく、例によって無表情のまま、はたと足を止める。

 その瞬間に何が起こったかは、術者であるアルサリール以外には知る由もない。


 幻瞳術げんどうじゅつ――。

 それは、東方に古来より伝わる呪術の秘法。

 標的の心を意のままに操り、夢幻のうちに死に至らしめる外法中の外法。

 さまざまな流派がひしめいていた呪師ずしのなかでも、呪眼師じゅがんしと呼ばれる一派は特に異端とされていた。

 他の流派が呪いを発現させる媒介としてなんらかの呪具を用いるのに対して、彼らはみずからの肉体そのものを呪いの媒介としていたためだ。

 邪視――呪眼師は、その眼で見つめるだけで狙った人間を破滅させ、不幸に陥れることが出来る。

 そんな呪眼師のなかでもひと握りの家系だけに相承されていた奥義は、アルサリールただ一人の異能として今日に受け継がれている。


 幻瞳術の恐ろしさは、標的が攻撃を仕掛けられたと認識したときには、すでに勝負は決しているという一点に尽きる。

 いったんその眼に魅入られたならば、もはや防御も脱出もままならない。

 どれほど鍛錬を積んだ武術の達人であったとしても、無意識下の夢までは鍛えようがないのだ。

 犠牲者はみずからの脳が作り出した夢の檻に閉じ込められ、二度と目覚めることはない。

 そうなったが最期、皇帝陵を守備していた兵士たちと同じように、夢心地のうちに魂を喰らい尽くされるのを待つだけだ。


 もっとも、いかに幻瞳術といえども、つねに望み通りの効果が得られるとはかぎらない。

 凡百の人間ならば数十人まとめて術にかけることもたやすいが、戎装騎士ストラティオテスが相手となれば話は別だった。人間と同様の精神を持つとはいえ、人間とは根本から異なる存在である騎士を確実に仕留めるためには、それなりの対策を講じる必要がある。

 アルサリールがオルフェウスに仕掛けたのは、極度の精神集中によって効果を最大限にまで増幅した、いうなれば必殺の一撃であった。

 強力な呪術は、往々にして術者自身にも多大な負担を強いる。失敗すれば二度目はない。それは文字どおり捨て身の賭けでもあった。


 アルサリールはふたたびオルフェウスの瞳を覗き込むと、口辺に薄い笑みを漂わせる。

 少女の真紅の瞳は玻璃ガラスみたいに透き通り、一見すると普段と変わらないようにみえる。

 それでも、アルサリールの眼は、ほんの数瞬前までオルフェウスの瞳に息づいていた精神こころが欠け落ちていることをたしかに見抜いていた。

 恐るべき魔眼の使い手は、いま、最も美しい騎士をその術中に陥れたのだった。


***


 ひえびえとした空気が部屋を満たしていた。

 オルフェウスは部屋の入口に立ったまま、ゆるゆるとあたりに視線を巡らせる。


 奇妙だった。

 ほんの一瞬前まで裏路地に立っていたはずが、いつのまにか周囲の景色はすっかり様変わりしている。

 変わったのは景色だけではない。

 あたたかな初夏の陽気は幻みたいに消え失せ、吐息は白くけぶっている。

 まるで一瞬のうちに夏と秋とが過ぎ去り、前触れもなく冬が到来したようであった。

 それも、氷塊をじかに肌に当てられているような冷気は、帝都の冬とはあきらかにちがう。

 窓の外には見渡すかぎり白い世界が広がっている。分厚い雲からはたえまなく雪片が舞い落ち、地平線の彼方まで一つの色に染め上げていく。

 この世で最も厳しいといわれる北方辺境の冬であった。


 オルフェウスは部屋の中ほどまで進むと、テーブルにそっと手を置く。

 この部屋にはたしかに見覚えがある。

 家具の配置から、窓枠の形、壁紙のしみの一つひとつに至るまで……よもや見間違えるはずはない。

 この場所で何度も食事を取り、文字の読み書きを教わった。

 懐かしい思い出と言ってしまうのはたやすい。

 決して戻らない日々の断片をたぐり寄せるたび、オルフェウスは耐えがたい胸の痛みに苛まれるのだった。


「どうして、ここに……」 


 オルフェウスは白い指でテーブルの木目をなぞる。

 指先から伝わってくる硬く冷えた感触は、まちがいなく現実のものだ。

 しかし――どうにも腑に落ちない。

 あれからもう何年も経っているというのに、ここにあるものは、あの頃となにひとつ変わっていない。

 もう二度と訪れることはないと思っていた場所。記憶の奥底にしまいこんでいた遠い日の情景は、オルフェウスの目交に鮮明に描き出されている。


 と、背後でドアが開いたのはそのときだった。

 オルフェウスはとっさに振り返る。

 それきり、少女は氷の彫像と化したみたいに動けなくなった。


「どう……して……」


 ようようしぼり出した玲瓏な声は、かすかに震えていた。

 めったに感情を露わにしない少女にとって、それは最大の動揺を示している。

 わずかに開かれた可憐な薄桃色の唇は、ついに言葉を紡ぐことなく、ふたたび固く結ばれた。

 それも無理からぬことであった。

 語るべき言葉も、時宜を得たふるまいも、その姿をひと目見た瞬間に忘れ去ってしまったのだから。


 オルフェウスはわずかに後じさる。

 蹌踉とした足取りは、何かを怖れ、怯えているようでもあった。

 その横顔には、数多くの戎狄バルバロイを葬り、最強の呼び声高い騎士の面影は見いだせない。

 いま、冷えきった部屋に一人立つのは、美しくなよやかな一人の少女だ。

 ぎい――と軋りを立てて、半開きだったドアが大きく開け放たれた。


「……久しぶりだね」


 長靴の底が床を打つたび、戛々かつかつと小気味のいい音が響く。

 あの人の足音。他の誰とも違う、忘れるはずもない懐かしい音。

 どれほど望んでも、もう記憶の中でしか聞くことが出来ない――ほんの少し前まで、そう信じていたはずなのに。


「しばらく見ないうちに、君はすっかり大人になった。また会えてうれしいよ、オルフェウス」

「どうして……」

「君をひとりぼっちにさせてすまなかった。これからはずっと一緒にいる。もうどこへも行ったりしないと約束するよ」


 力強く言い切ったのと同時に、大きな掌がオルフェウスの顔にやさしく触れた。

 びくりと肩を震わせたオルフェウスは、しかし、もう後じさらなかった。

 冷えた皮膚の奥に息づくぬくもり。軍人らしい節くれだった手指の感触。

 すべて現実だ。

 疑う余地などどこにあるだろう?

 もう二度と会えないと思っていたあの人は、たしかに目の前にいる。

 澎湃と沸き起こる感情に胸が詰まりそうになりながら、オルフェウスは優しげに微笑むその顔を見つめ返す。

 そして、白く細い喉を震わせて、あの日言えなかった言葉を紡ぎ出していく。

 永遠に言えなくなってしまったはずの、その言葉を。


「おかえりなさい、マリウス――――」

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