第142話 秘拳咆哮

「どうした? かかって来ないのか?」


 ベイドウは構えを取るでもなく、両手をだらりと垂らしたまま、アレクシオスを見つめている。

 とても敵と対峙している最中とは思えない、それは弛緩しきった姿だった。

 枯れ木みたいに細長い四肢はいかにも頼りなく、すこし力を加えただけであっけなく折れてしまいそうだ。

 事実、戎装騎士ストラティオテスであるアレクシオスがその気になりさえすれば、ベイドウの身体を粉砕するのは赤子の手をひねるより容易だろう。

 それにもかかわらず、アレクシオスはその場から一歩も動けずにいる。

 ベイドウが全身から発散させるただならぬ鬼気のためであった。

 老暗器使いはすべての武器を捨てたというのに、アレクシオスにのしかかる威圧感はいや増す一方だった。


「来ねえのなら、こっちから行くぜ」


 言うが早いか、ベイドウの身体がゆらりと揺らぐ。

 アレクシオスがとっさに身構えたときには、ベイドウの拳は、黒騎士の右肩にぴたりと密着していた。

 次の瞬間、アレクシオスの身体は数メートルも後方に吹き飛んでいた。

 力任せの打撃ではない。

 音もなく接近したベイドウは、ただ掌底を軽く装甲に当てただけだ。

 まるで見えない巨人の手に押し出されたような奇妙な感覚に、アレクシオスは戸惑いを隠せない。


「貴様、いったい何を――」

「どうだ? たまげただろうがよ」


 とっさに上体を起こしたアレクシオスにむかって、ベイドウは呵々と笑声を上げる。


「お前さんらは格闘術パンクラチオンなどと言って得意になっているが、あんなものは力任せに殴り合うだけの遊興あそびよ。わしのは一味違うぜ。力など込めなくてもこの通りだ」

「そんなまやかしを信じるとでも思ったのか?」

「そう思うんなら、もう一度試してみるかい」


 ベイドウはくいくいと手招きする。

 あまりにも見え透いた挑発。アレクシオスの闘争心を煽り立てようとしているのは明白だった。

 戦場で敵を刺激するのは、それによって得られる利得メリットが危険を上回る場合に限られる。


「アレクシオスさん、誘いに乗っては……!!」


 ラフィカの叫びは、はたして黒騎士に届いたかどうか。


「……何度かかってきても結果は同じだろうがなあ」


 アレクシオスは力強く地を蹴ると、猛然とベイドウに踊りかかっていた。

 両下肢の推進器スラスターは使えなくとも、騎士の脚力はいまだ健在だ。

 右手の槍牙カウリオドスを突き出したアレクシオスは、風を巻いてベイドウに急迫する。

 犀利な槍先がベイドウの心臓を一突きに貫こうかという、まさにそのときだった。


「――――!!」


 槍牙はむなしく空を切った。

 姿勢を立て直しながら、アレクシオスはすばやく左脇腹に視線を向ける。

 二つの身体が交差した瞬間、ベイドウの掌が触れていった部分へと。

 腹部を覆う装甲に異状はない。黒く艷やかな表層は常と変わらず輝き、擦り傷一つ見当たらなかった。

 だが、そこにわだかまる違和感は、紛れもなく現実のものだ。


「手応えあり――いまのは効いたはずだぜ」

「おれの身体に何をした!?」

「身体の表面をいくら調べても無駄だ。なにしろ、わしが痛めつけてやったのはだからなあ」


 ベイドウはただでさえ皺だらけの顔をくしゃくしゃに歪め、高らかに哄笑する。

 狙いどおりに事が運んだのがよほど愉快であるらしい。およそ暗殺者には似つかわしくない豪放な笑い声だった。


「そんな戯言を真に受けるとでも思ったのか? 貴様の拳などで、おれが……」


 言いさして、アレクシオスは大きくよろめく。

 左脇腹に生じたちいさな違和感は、徐々に別の感覚へと変容しつつある。


「っ……!!」


 装甲の奥深くからこみ上げてくるのは、灼熱の焼きごてを押し当てられたような激痛いたみだった。


***


 『帝国』が進出する以前、大陸東方は大小さまざまの国家が割拠する乱世のただなかにあった。

 いつ終わるともしれない長い戦乱は、文化と生活を荒廃させる一方、こと戦いに関する諸事にとってはこの上なく肥沃な土壌となる。

 各国の肝煎りのもとで多彩な武術が編み出され、さながら百花繚乱の様相を呈したのは、その最たるものだ。


 各国は天下の覇者となるべく軍事力の向上に血道を上げ、武人はより洗練された武芸の追求に邁進した。

 とりわけ人口に乏しい小国が大国に伍するためには、個々の兵士の能力を高めることが急務であった。一人につき十人の敵を屠ることが出来れば、一万の軍勢で十万人を迎え撃つことも出来る――絵空事だと一笑に付すことはたやすいが、それが出来なければ、弱小国は滅亡を待つだけなのだ。


 そんな当時の東方において、剣術や弓術に劣らぬ隆盛を誇ったのが拳法だった。

 最盛期には数百とも数千とも言われる流派がひしめきあっていた拳法の世界にあって、ひときわ異彩を放つ一派があった。

 現在いまでは正式な名称さえ失伝したその一派は、素手で鎧を着込んだ相手を倒すための技法わざを完成させていた。

 古書にいわく――その技法を用いれば、どんな分厚い鎧も通り抜け、敵の肉体だけを完膚なきまでに破壊することが出来る。

 それだけでなく、使い手が女性や老人といった非力な人間であっても、その威力はほとんど損なわれることはない。


 あれは武術ではなく、魔法だ――。


 他流の門人がそのように囁きあったのも道理だった。

 むろん、実際にはがあったことは言うまでもない。

 当時の甲冑は、刃や矢を防ぐことは出来ても、衝撃を吸収するという点では甚だ未熟だった。

 例えるなら、硬い果皮に包まれた果実を思いきり岩に叩きつけるようなものだ。果皮は無事でも、果肉はぐずぐずと崩れる。同じように、鎧に包まれた人間の身体も衝撃によってたやすく損壊する。

 鎧の構造的な陥穽かんせいを衝くことに特化した技術も、そうとは知らない門外漢には、なにやら得体のしれない「気」によって敵を倒しているようにしか見えなかったのだ。


 神秘的な技を用いる流派の例に漏れず、時代が下るにつれて怪しげなまじないや神仙術と混同されるようになり、ついには『帝国』の東方進出によって終止符を打たれた。

 少なくとも、人口に膾炙する表向きの歴史ではそうなっている。

 そうして滅んだはずの技術が暗器使いに受け継がれ、千年のあいだひっそりと命脈を保っていたとは、ほんのひと握りの人間しか知りえないことであった。


――暗器術の究極は、何の武器も持たないことである。


 古今東西あらゆる武器を自在に操ることを身上とする暗器術においては一見矛盾するようだが、しかし、これは紛れもない真理でもある。

 どれほど巧妙に偽装しても、衣服の下に仕込んだ武器は隠しきれるものではない。

 そして、いったん戦いが始まれば、全身に隠し持った武器は機敏な動きを妨げ、時として命取りにもなる。

 肉体そのものを凶器と化すことが出来れば、危険を冒して武器を携行する必要もなく、戦いの際に邪魔になることもない。

 暗器使いが他のどの拳法でもなく、鎧越しに敵を殺傷する異端の技術をみずからの内に取り入れたのは、けっして故なきことではなかった。素手で鎧をまとった敵を倒すことが出来るなら、人間との戦いで恐れるものは何もなくなる。その根底にあるのは、あくなき勝利への執着だ。


 そして、いま――。

 いにしえの奥義は、この地上で最も強く、かつてこの世に存在したどの鎧よりも堅牢な装甲を持つ戎装騎士ストラティオテスに牙を剥こうとしている。

 

***


「どうだ――わしのとっておきは?」


 言って、ベイドウはコキコキと手首を鳴らす。


「この技をここまで究めたのはわしだけだ。おかげで弟子シュラムには教えられなんだがよ。奴には可哀想なことをしたぜ」


 アレクシオスは依然として片膝を突いたまま、顔だけをベイドウに向ける。

 戎装騎士ストラティオテスの装甲は、美しい外観にそぐわない防御力を備えている。

 それはアレクシオスとて例外ではない。漆黒の装甲に傷をつけることは、刀剣はおろか、巨大な破城槌を以ってしても不可能なのだ。

 それを裏付けるように、いまもアレクシオスの装甲は無傷のままだ。

 つい先ほどベイドウが放った一撃は、装甲を素通りし、内部機構メカニズムに直接ダメージを与えたのだった。

 いかに戎装騎士といえども、装甲下の組織まで万全の防御が施されている訳ではない。装甲越しに衝撃が浸透するなど、本来ならば決してありえないことであった。


「さあて、そろそろトドメと行こうかい」

「まだだ……!! この程度、どうということはない……!!」

「いいねえ。これしきでへばったんじゃわしも面白くないからなあ」


 あくまで気丈に振る舞うアレクシオスを見下ろして、ベイドウは満足気に頷く。

 あらゆる殺しの技を究めたこの老人にとって、戦いこそ最高の愉悦なのだ。一秒でも長く楽しめるとなれば、まさに願ったりというものだった。


「お前さんらはどこを壊せば死ぬのか、ゆっくり試すとしようかね」

「アレクシオスさん!!」

「手負いはガタガタ騒ぐない。心配するな。こいつの始末が済んだらお前さんもきっちり片をつけてやる」


 ラフィカには一瞥もくれず、ベイドウはアレクシオスに近づいていく。

 無貌の面にまばゆい赤光が迸ったのはその瞬間だった。

 幽鬼のようによろめきながら、黒騎士はゆっくりと立ち上がる。


「ほお……その傷で立ち上がるとは大したもんだ」

「当たり前だ――まだ勝負は終わっていない」

「たしかにな。だが、じきに終わるさ」


 例のごとく飄然と言って、ベイドウは拳を構える。それは、戦いが始まってからこの男が初めて取った明確な拳法のかたであった。

 その挙措に合わせるように、アレクシオスもふたたび槍牙を構える。

 両者を隔てる距離はわずかに三メートルあまり。

 その気になれば、一瞬のうちに相手の間合いに踏み込むことも出来る。


 生ぬるく鬱滞した初夏の空気に、いつのまにか冷え冷えとしたものが混じりはじめていた。

 それが錯覚ではないことは、二人の戦いを見つめる群衆を見れば分かる。最前列の女たちの肩が小刻みに上下しているのは、背筋が凍るような緊張に身を震わせているためだ。司教に至っては、顔色は蒼白を通り越してほとんど白蝋と化したようであった。

 そんななかで、ラフィカと腕を切り落とされそうになった娘だけは、身じろぎもせずにアレクシオスを見つめている。


 緊張が最高潮に達しようかというとき、澱んだ空気がわずかに動いた。

 先に仕掛けたのはベイドウだ。


ッ――!!」 


 鋭い叫び声の尾を引いて、老暗器使いは一息に間合いを詰める。

 アレクシオスが防御を固めるまえに、ベイドウはその内懐に飛び込んでいた。老体にあるまじき凄まじい速度と瞬発力。その疾さはシュラムと同等、あるいはそれ以上であっただろう。

 ベイドウはその場で思いきり両足を踏ん張ると、左右の掌をアレクシオスの胸にぴたりと押し当てる。

 両の掌底を通じて、おのれの持てる力のすべてを叩き込もうというのだ。

 最も重要な器官が密集する胸部は、戎装騎士ストラティオテスにとって最大の弱点である。そこに渾身の一撃を受ければ、たとえ騎士でも無事では済まない。


 刹那、アレクシオスの胸ですさまじい爆発が生じた。

 実際に何かが爆ぜた訳ではない。傍目には、ただ両手を装甲の上に置いただけとしか見えなかったはずだ。

 ベイドウの両腕から伝播した巨大なエネルギー塊は、アレクシオスの体内を駆け巡り、爆発と錯覚するほどの衝撃をもたらしたのだった。

 なまじ吹き飛ばされまいと身構えたことで、アレクシオスは衝撃の全量をまともに受ける格好になった。

 受けたダメージを物語るように赤光は激しく明滅を繰り返し、黒騎士の身体は大きく揺らぐ。


「次で決着ケリだ――――」


 立て続けに二撃目を叩き込もうとして、ベイドウははたと足を止める。

 アレクシオスがふいに姿勢を立て直したためだ。瀕死と見えたその身体には、全く新しい力が宿ったようであった。


「ぬうっ……!?」


 ベイドウは反射的に飛び退こうとして、右手首を掴み取られていることに気づく。


「なにをするつもりだ……!?」

「いまの一撃、貴様にそのまま返してやる」


 アレクシオスが言い終わるまえに、ベイドウの右手首が爆ぜた。

 今度はだ。手首の付け根のあたりで血煙が膨れ上がったかと思うと、手甲に包まれた五指は跡形もなく消失していた。


「な、なぜ……だ……!?」

「言ったはずだ。――そのまま返すとな!!」


 愕然とした様子のベイドウを真っ向から見据えて、アレクシオスは力強く言い放つ。

 今しがたベイドウが叩き込んだ一撃は、アレクシオスの内部機構メカニズムにダメージを与えることはなかった。巨大なエネルギーはひとしきり体内を駆け巡ったあと、ふたたびベイドウの元へ送り返されたのだ。


 戎装騎士ストラティオテスの身体は、半永久的な活動を可能とするために複数のエネルギー再生回路を備えている。

 そうした回路のなかには、外部から加えられた衝撃をエネルギーに変換するものも含まれている。

 あの瞬間、アレクシオスは全身のエネルギー再生回路を開き、打ち込まれた一撃をみずからの力へと転化したのだった。


 右手を失ったベイドウは、たまらず後じさる。

 一瞬の隙を逃すまいと、アレクシオスは果敢に間合いを詰める。

 ベイドウは残った左手で防御を試みるも、それが悪あがきであることは、他ならぬ当人が誰よりも承知している。おのれの敗北を悟ってなお、最後の瞬間まで戦いを捨てられないのは、暗器使いのさがでもあった。


 夕闇の空を裂いて斬撃が走った。

 頭頂から股間までを縦一文字に割られた老暗器使いは、鮮血を噴き上げて崩れ落ちる。

 正中線から両断された凄絶な死に顔は、しかし、かすかな笑みを浮かべていた。敗北の無念よりも、強敵との戦いの末に生涯を終えることが出来たという喜びが勝ったのだ。


 ベイドウが息絶えたのを見届けても、アレクシオスは戎装を解こうとはしなかった。

 広場に集まった群衆の視線は、アレクシオスただ一人に向けられている。

 戦いは、まだ終わっていない。

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