第143話 PARADISE LOST

「ば、化け物……」


 群衆の一人が漏らした呟きは、水面の波紋みたいに周囲に広がっていった。

 それも無理からぬことだ。

 誰もが腹の底ではおなじことを思っていたのだ。


 漆黒の装甲に身を固めた鉄の怪物――。

 巧妙に人間になりすましていた、穢らわしい異形――。


 彼らが騎士ストラティオテスを天から遣わされた存在だと信じていたのも、実際にアレクシオスが戎装するのを目の当たりにするまでだ。

 いま、アレクシオスに注がれる視線に宿る感情は、大きく分けてふたつある。

 すなわち――嫌悪と恐怖。

 どちらも一度人の心に芽生えたならば、二度と変わることはないはずだ。

 ただ一人、残酷な刑罰から救われた娘だけは、いまなお潤んだ瞳でアレクシオスを見つめている。

 どれほど姿が変わっても、娘にとっては窮地に手を差し伸べてくれた恩人に違いないのだ。


「我々を……ゼーロータイを裏切るのか!?」


 金切り声を上げたのは司教だ。


「貴様はしょせん『帝国』の走狗イヌだ。我々の神聖な戦いに加わる資格などなかったのだ。忌まわしい怪物め、呪われるがいい!!」


 青白い顔でまくしたてる司教に、アレクシオスは何も言わなかった。

 不毛な問答にかかずらっている猶予はない。怒りに任せて司教を手に掛けたところで、何かが変わる訳でもない。

 ならば、この状況で少年が取るべき行動はひとつだけだ。


「……行くぞ」


 アレクシオスはラフィカに呼びかけると、ベイドウの亡骸に背を向けて歩き出す。

 依然として戎装は維持したままだ。

 アレクシオスが歩を進めるたび、群衆は一斉に後じさる。

 次第に闇に覆われつつある広場は寂然として、罵詈雑言はおろか、しわぶきひとつ聞こえない。

 誰もが騎士の力が自分たちに向けられることを恐れているのだ。


「ま……待って……っ!!」


 アレクシオスが傍らを通り過ぎようとしたとき、娘はたまらず声をかけた。

 視線の代わりに、無貌の面を流れる赤光が娘を射た。

 分かっていたこととはいえ、こうして間近で見つめていると、騎士が人間ではないことを思い知らされる。


 かつて司教の語ったところによれば、この世界のあまねく存在は、偉大な神の御業によって生み出されたという。しかし、自分たちと目の前の騎士が同一の神の手になる被造物だとは、娘には到底思えなかった。

 そう考えてみれば、黒騎士が神の名のもとに下された刑の執行を止めたのは、あるいは必然であったのかもしれない。

 まったく異なる神が生み出した存在ならば、人間の神に従う道理もないからだ。


 そうするあいだにも、アレクシオスは娘の傍らを通り過ぎようとしていた。

 そして、その瞬間、娘だけに聞こえる声でぽつりと呟いたのだった。


「――――」


 娘はその場に立ちつくしたまま、大きく目を見開いていた。

 懸命に言葉を紡ごうとしても、咽頭のどは意に反して震えるばかり。

 まるでそこだけが自分の身体ではなくなってしまったようであった。

 もっとも、これから娘がすることを考えたなら、

 娘は近くの地面に放り捨てられていた斧を手に取る。――自分の片腕を斬り落とすために用意された斧を。

 大きく振りかぶったそれを、娘はアレクシオスの背中に思いきり叩きつけていた。

 甲高い音が広場じゅうに鳴り渡る。

 硬質の金属同士を勢いよくかちあわせたときに特有の、それはひどく耳障りな音だ。


 それも、一度だけでない。

 二度、三度と、音は微妙に変化しながら断続的に上がった。

 その様子を呆然と見つめていた群衆と司教も、ようやく事の重大さに気づいたらしい。

 それでも、ついに止める者が現れなかったのは、誰もが娘の勇気ある行動を称賛していたからにほかならない。口にこそ出さなかったが、内心では娘に割れんばかりの喝采を送っていたのだった。

 アレクシオスが立ち止まったまま斬りつけられるに任せているのは不思議だったが、それも些細な問題だ。

 自分たちの信頼と期待を裏切り、『帝国』の側につくことを選んだ悪しき騎士には、相応の罰を与えなければならない。娘は皆が抱いていた怒りを一身に引き受けて、黒騎士に裁きを下してくれている――返り討ちに遭うことすら恐れずに!


 とうとう斧を取り落とし、はあはあと荒い息をつく娘の目の前で、アレクシオスは戎装を解いた。

 やはりと言うべきか、少年の背中には傷一つない。

 人間であれば致命傷を負っているところだが、騎士ストラティオテスの強靭な肉体は、これしきでは痛痒とも感じていないはずであった。


「アレクシオスさん、ご無事で――」

「ここを出るぞ、ラフィカ。これ以上の長居は無用だ」


 アレクシオスは短く言うと、何事もなかったようにふたたび歩き出す。

 群衆は誰に命じられるでもなく左右に分かれ、広場の外までまっすぐな道が続いている。

 二人にむかって声を掛ける者も、通行を妨げる者もない。ただ恨めしい視線だけが、茨みたいに絡みつく。


 アレクシオスとラフィカが広場を出ると、群衆はようやく人心地がついたようだった。

 数瞬前まで広場を覆っていた重圧から解放され、誰もがほうと安堵の息を吐く。


「あんた、大した度胸だねえ――」


 まっさきに娘に声をかけたのは、あの肥った女だった。

 ほんの少し前に娘を責め立てたのと同じ口で、女はしゃあしゃあと娘の勇気を褒めそやす。


「怖かっただろう? あんな化け物、いなくなってくれて清々したよ」


 娘は押し黙ったまま、女の顔をじっと見つめ返す。

 気づけば、双眸には涙があふれ、いまも震える喉からは声にならない嗚咽が漏れている。


「よしよし、怖かっただろうねえ。でも、もう何も心配いらないよ。化け物はもう行っちまったからさ」


 違う――。

 許されるのであれば、娘は大声で叫びたかった。

 どれほど望んでも不可能だということも、娘はむろん承知している。

 もしそれをすれば、すべては台無しになるだろう。

 あのとき、アレクシオスは、娘だけに聞こえる声でこう囁いたのだった。


――その斧でおれを斬れ。


 言葉の意味を理解しかねる娘に、アレクシオスはさらに付け加えた。


――そうすれば、


 このまま娘が聖域アジールに留まるなら、アレクシオスに救われたことは先々の禍根になりかねない。

 だが、刃を向けたとなれば話は別だ。

 救われた恩義をわずかでも感じているなら、そんな真似が出来るはずもない。

 アレクシオスは大勢の人間の憎悪と怒りを一身に浴びていることを理解した上で、娘に自分を斬るように命じたのだった。

 自分はあの怪物とは何の関係もなく、むしろ誰よりも激しく憎悪しているという確たる証を、この場に居合わせた全員に対して立てるために。

 これで娘の罪は精算され、誰に憚ることなく共同体に復帰出来るはずだ。

 アレクシオスは傷つけられようとしていた娘の身体を守り、そしていま、その居場所をも守ったのだった。


 娘はふいに顔を上げ、広場の果てに目を向ける。

 涙に霞んだ視界のどこを探しても、少年の姿は見当たらなかった。


***


 集落の外れへと続く道を進むうちに、見覚えのある建物が前方に現れた。

 孤児院であった。

 アレクシオスは立ち止まらなかった。

 もう戻れないならば、足を止める理由もない。すべては過ぎ去っていくだけだ。


「騎士さま――」


 門が開いたかと思うと、小さな影がいくつも道に散った。

 最初に出会った子供たちだ。アレクシオスが歩いてくるのを遠目に見て、矢も盾もたまらずに駆け寄ってきたのだった。

 アレクシオスが孤児院を訪れるたびに繰り返された光景だが、今日に限っては、子供たちもただならぬ雰囲気を感じ取っているらしい。


「騎士さま、どこかに行ってしまうのですか?」

「いつ戻ってくるの?」


 アレクシオスはあっというまに四方を取り囲まれる格好になった。

 ラフィカは何も言わずに距離を取り、その様子を黙って見守っている。


「おれは……」


 アレクシオスは膝を折る。目線の高さを子供たちに合わせるためだ。


「……よく聞いてくれ」


 全員の顔を見渡したあと、アレクシオスは訥々と語りはじめる。


「おれは、もうここにはいられなくなった」

「騎士さま、いなくなっちゃだよ。ずっと一緒にいてくれるって約束したのに!!」

「大丈夫だ――何も心配はいらない」


 アレクシオスは近くにいた男の子の頭を撫ぜながら、一語一語、ゆっくりと噛み含めるみたいに言葉を紡いでいく。


「約束するよ。どこにいても、おれはみんなの味方だ。どんなときも人間みんなのために戦う。おれが生きているかぎり、いつまでもずっと。……信じてくれるか?」


 子供たちは互いに顔を見合わせたあと、こくりと頷く。

 幼心にもこれが今生の別れであることを感じ取っているのか、どの顔もほとんど泣き出しそうになっている。

 それでも、すすり泣きひとつ聞こえないのは、必死に堪えているためだ。

 今日が最後になるなら、せめて情けない姿は見せたくないと思うのは当然でもある。

 そして、それは、アレクシオスにしてもおなじだった。


「ありがとう――みんな、元気でな」


 子供たちは、もうアレクシオスを引き留めようとはしなかった。


「騎士さま――」


 背中に投げかけられた幼い声にも、アレクシオスは答えなかった。

 立ち止まることも、振り返ることもせず、ただ右手を挙げただけだ。

 かすかに震えるその指先に、言葉にしがたい惜別の思いを汲み取ったのか。

 アレクシオスを呼ぶ声は、それきり、もう二度と聞こえなかった。


***


「……本当によかったんですか、アレクシオスさん?」


 山道に入ったのを見計らって、ラフィカはアレクシオスに問うた。

 すでに陽は沈みきっている。細い山道は鬱蒼とした樹木に閉ざされ、幹と幹のあいだにはぬばたまの闇がぽっかりと口を開けている。

 その道を危なげなく進み、しかも会話を交わす余裕まであるとは、とても人間業とは思えない。


「何がだ?」

「ずいぶんあの場所に未練があるように見えましたけど」

「たとえそうだとしても、もう決めたことだ」


 アレクシオスの言葉に迷いはなかった。

 ラフィカもそれ以上追求することはせず、下草を踏み分けながら黙々と進む。

 次にラフィカが口を開いたのは、山の稜線を超えたときだった。山の端に開けた猫の額ほどの平地に立てば、地平線の彼方まで茫々と広がる畑や水田を一望することが出来る。


「さて……大した収穫もありませんでしたが、帰ったらこの一件を皇帝陛下に報告しなければ。それまで、何事も起きていなければいいですけど」

「ここから帝都まではどのくらいかかる?」

「早馬を乗り継いで三昼夜……もっとも、騎士の脚ならもっと早く着くでしょうけど。どうします?」


 アレクシオスは首を横に振る。


「おれもお前と一緒に戻る。道々、出来るだけ多くの村や街を見て回りたいからな」


 言って、アレクシオスは空を見上げる。

 繁茂した枝葉の切れ間から、ひとすじの月明かりが差し込んでいる。

 中天にまるい月が出ていた。

 仄白くやわらかな光は、地上の万物に等しく降り注ぎ、世界の輪郭をやさしく和らげる。

 西方人も東方人も、そして、自分たち騎士ストラティオテスも。

 この世界に生きとし生けるすべてのものが隔てなく享受出来るのは、太陽と月だけなのかもしれない。

 それを思うと、アレクシオスはたまらずに叫びたくなる。


――そんなはずは……ない。


 さやさやと降り注いでいた月光がふいに翳った。

 見上げれば、どこからから漂ってきた雲塊がすっかり月を覆っている。

 やがて、雨粒がぽつりぽつりと草木を濡らしはじめたとき、山頂に人影はすでにない。

 楽園を逐われた者たちをやさしく包みこむように、蒼い闇はどこまでも深みを増していくだけだった。

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