第144話 失われゆくもののために…
蒼い闇が天地を包んでいた。
どこまでも単調な闇色に塗り込められた世界に、ぽつりぽつりと白く淡い色が差し込んでいる。
なだらかな丘の上に群れ咲く花々であった。
可憐な花弁は風が吹くたびにさやさやと揺れ、声なき歌を唄う。
その中心に少女はいた。
薄青色の髪の少女――アイリスは、何をするでもなく、花々のあいだに埋もれるみたいに座り込んでいる。
儚いという言葉だけでは、少女のまとう雰囲気を説明するには甚だ不十分だろう。
たしかにそこにいるにもかかわらず、その存在は薄靄を隔てたように曖昧で、何一つとして確たるものがない。
ふと目を離した一瞬に消え失せてしまったとしても、それはむしろ必然のように思われた。
ならば、どこへ? ――それは、当のアイリス自身も知りえないことだ。
と、少女の背後で何かが動いた。
闇をかき分けて現れたのは、巨大な質量を持った影であった。
「……ヘラクレイオス」
ちいさく呟いた声は、隠しようもない喜びに彩られていた。
「ここにいたのか」
「うん……」
ヘラクレイオスはそれ以上何も言わず、ただアイリスにむかって右腕を差し伸ばす。
黒褐色の逞しい掌が少女の手を包みこむ。
ざり――と、奇妙な音が生じたのは、その瞬間だった。
石膏と石膏をすり合わせたような耳障りな音は、たしかに少女の柔肌から生じたものだ。
「……もう
ヘラクレイオスはひとりごちるみたいに呟く。
無骨にして繊細なその指先は、尋常ならざる変化をはっきりと感じ取っていた。
いま初めて気づいた訳ではない。
ずっと
それでも、止めることは出来なかった。
北方辺境の戦場に身を置いていたころのヘラクレイオスは、パートナーの不調をそれとなく察知していながら、
もっと早く動いていれば――。
どれほど悔やんだところで、時は決して戻らない。これ以上の悔恨を未来に残さないためには、
「あとは俺に任せておけばいい」
ぼそりと言ったヘラクレイオスに、アイリスはふるふると首を横に振る。
「それでも、私……みんなの役に……立ちたい……」
「そんなことをする必要はない」
「……ありがとう……でも……」
なおも言葉を継ごうとするアイリスを、ヘラクレイオスは強引に遮る。
「自分のことだけを考えろ」
アイリスはそれきり黙り込む。
意見を封じられたことに憤慨しているのではない。
むしろ、その逆だ。
目の前の男が自分をそこまで想ってくれている。少女には、ただ、それがうれしい。
かつて北方辺境で数多くの
峨々たる
アイリスは傍らにそびえる巨体を見上げ、ふっと微笑みかける。
しばらく見つめ合ううちに、一抹の不安が少女の胸に沸き起こった。
――いまの自分は、上手く笑えているだろうか?
昔なら問題なく出来たことだ。
かつて出来たということは、アイリスにとって何の保証にもならない。
かつては当たり前のように出来ていたことが、一つまた一つと失われていく。
そして、一度失われたものは、もう二度と戻ることはない。
***
空間を自在に操り、はるかな距離を隔てた二つの場所を結ぶ――。
身体感覚の消失――。
皮膚感覚を失ったのは、あくまで直近の例にすぎない。
擬態能力にも影響が出ているのか、本来柔らかなはずの少女の手指は、石みたいに硬化している。たったいまヘラクレイオスの指が触れたことさえ、アイリスは視覚と聴覚を通じてようやく理解したほどであった。
最初の兆候は、ごく軽い身体の不調だった。
すぐに治るから平気だよ――当時ヘラクレイオスに何度となく言ったその言葉を、アイリスはいまでもよく覚えている。
不器用な気遣いをみせるパートナーに余計な心配をかけまいと、少女は努めて気丈に振る舞った。アイリス自身、たんなる疲労だと思っていたのだ。
そんな楽観的な見方に相違して、能力を行使するたび、騎士の自己再生能力でも修復不能な
戦役が終盤に差し掛かるころには、アイリスは自分の身体がもう元通りにならないという現実に否が応でも向き合わざるをえなくなった。
やがて、
その特異な能力を見込まれ、さまざまな実験への協力を要請されたためだ。
要請とは言うものの、むろんアイリスに拒むことなど出来るはずもない。
国家の所有物である騎士には、もとより選択の自由など与えられていないのだ。
日ごと繰り返される実験によって、いよいよアイリスの病状は悪化の一途を辿った。
誰にも気づかれることなく、少女は多くのものを手放していった。
その都度悲しみはしたが、しかし、後悔はなかった。
それで誰かの役に立てるなら。
この『
従容と破滅を待つだけの日々は、前触れもなく終わりを迎えた。
ヘラクレイオスによって救出されたとき、アイリスはもはや走ることも、流暢に言葉を紡ぐことも出来なくなっていた。
それでも、アイリスは、聴覚が失われていなかったことを天に感謝せずにはいられなかった。
――お前を助けに来た。
当初、脱走した五騎士のなかにアイリスが含まれていなかったのは、ヘラクレイオスらの反乱による犠牲者と見なされたためだ。
ヘラクレイオスは、アイリスの死を偽装することで、
姑息な手段であることは承知の上だ。偽装が見破られたなら、『帝国』が逃亡した戎装騎士をいつまでも野放しにしておくはずはない。
どこに隠れていようと、いずれ追手が差し向けられるだろう。
『帝国』の側にそれを可能とする追跡・探知能力を持った騎士がいるかぎり、アイリスに安住の地はないのだ。
能力を用いて逃げようにも、遠からず身体が限界を迎えるのは目に見えている。
「ヘラク……レイオス……私、ね……」
アイリスは逞しい腕に身体をもたせかかりながら、いまにも泣き出しそうな声で囁いた。
この男が自分のためにしてくれたこと。
そして、これからしようとしていること。
それを考えると、どうしようもないほどに胸が詰まりそうになる。
二人の後方でふいに気配が生じたのはそのときだった。
***
「これはこれは、お邪魔だったかな――――」
悪びれた風もなく言って、ナギド・ミシュメレトは二人に近づいていく。
白いローブが揺れるたび、踏み散らされた花弁が風に舞い上がる。
「……何の用だ」
ヘラクレイオスに問われても、ナギドは怯えた様子もない。
よほど肝が据わっているのか。あるいは、恐怖心がすっかり欠如しているのか。
フードに覆われた表情は杳として窺えないが、わずかに覗く口元に浮かぶのは、まぎれもない笑みであった。
「じつは折り入って君たちに話しておきたいことがあるんだよ」
「それなら、俺だけでいい」
「出来れば彼女にも聞いてもらいたいけど、君がどうしてもと言うなら、僕はべつに構わないさ」
ヘラクレイオスは音もなく立ち上がると、ナギドのほうへと歩を進める。
追いすがろうとしたアイリスにちらと向けた視線は、
――そこにいろ。すぐ戻る。
無言のうちに、そう語りかけるようだった。
「このあたりでいいかなあ?」
丘を下ったところで、ナギドは足を止めた。
周囲には何もない。背の低い草がまばらに生い茂るだけの野原であった。
ナギドはひらりとローブを翻してヘラクレイオスに向き直ると、
「ベイドウが死んだよ」
こともなげに言ったのだった。
ゼーロータイの一員だった男の死を知らされても、ヘラクレイオスは何の感慨もないようだった。
誰が死のうと興味はない――あくまで黙然と佇む姿は、言外にそう伝えているようでもある。
「アルサリールに続いて彼までやられるとは思わなかったけど、アレクシオスもなかなかやるじゃないか。さすが僕が気に入っただけはあるよ。……そうは思わないかい?」
どこか嬉しげなナギドに、ヘラクレイオスはやはり何も答えなかった。
ナギドの部下が誰に殺されたかなど、ヘラクレイオスにとっては知ったことではない。それがアレクシオスだろうとオルフェウスだろうと、自分の前に敵として現れたなら、同じように抹殺するだけのことだ。
「用というのは、それだけか」
「まさか――君にはどうしても知らせておかなければならないことがあるんだよ」
「……言え」
ナギドは待っていましたと言わんばかりに両手を広げると、歌い上げるみたいに朗々と語り始めた。
「蜂起の日取りが決まったよ。これが革命の第一歩になる。いよいよこの『帝国』もおしまいという訳さ」
「……俺は何をすればいい」
「皇帝はきっと
ヘラクレイオスは相変わらず無言のままだが、沈黙にもいくつかの種類がある。
この場合は、むろん肯定だ。ナギドに命じられるまでもなく、騎士の相手が務まるのは同じ騎士だけなのだ。
「それにしても、ベイドウとアルサリールはさぞや無念だろうね。ようやく彼らが望んだ乱世がやってくるというのに、それを見ずに死んでしまったんだからさ。呪眼師も暗器使いも、平和な世の中では生きていけない人種だからねえ」
二人の死を惜しむような口ぶりとは裏腹に、ナギドの関心はもっぱらこれから起こる革命に向けられているようだった。
時代は着実に動き出している。
千年ものあいだ続いた見せかけの平和は幕を閉じ、大陸東方はかつてない混迷と激動の時代を迎えるだろう。
「そうだよ、いよいよこの世の終わりが来るんだ。たとえこの目で見ることは出来なくても、それはきっとどんなことより愉しいはずだよ。君もそう思うだろう? ヘラクレイオス」
「そんなことはどうでもいい――」
ヘラクレイオスはすげなく言うと、じろりとナギドに一瞥をくれる。
「約束は守れ」
「もちろん――約束どおり、『帝国』を倒したあと、君たちの存在は誰にも知られないようにする。それだけじゃない。
ナギドはしきりに頷きながら、
「そうすれば、もう君たちを追う者はいなくなる。彼女も安心して暮らせるだろうねえ」
ヘラクレイオスの顔を見上げて、フードに覆われた相好を崩してみせる。
「そのためにも、もうしばらくゼーロータイに力を貸してくれるね。僕たちには君の力が必要なんだ」
「何度同じことを言わせるつもりだ」
「君さえよければ何度でも――というのは冗談だけれど、最強の騎士が力を貸してくれるなら、こんなに心強いことはないよ」
ナギドが言い終えるまえに、ヘラクレイオスは踵を返していた。
用が済んだなら、これ以上言葉を交わすつもりはないとでも言うように。
ゆっくりと遠ざかっていく巨大な背中を眺めながら、ナギドはほうと長い息を吐き出す。
むろん、緊張から解放された安堵のためではない。
「だけどね、僕は君の弱さを知っているよ――ヘラクレイオス」
野原を渺々と夜風が吹き渡っていく。
ローブの裾がはためくのは、風のためだけではない。
酷薄な微笑を浮かべながら、ナギドはヘラクレイオスに背を向ける。
「……せいぜい足元を掬われないように気をつけることだね」
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