第145話 帰還

 帝都イストザントはすっかり様変わりしていた。

 夕暮れの目抜き通りは相変わらず人であふれ、立錐の余地もないほどに混み合っている。

 それでも、普段の陽気な喧騒は鳴りをひそめ、新皇帝即位当時の華やいだ雰囲気はもはや見る影もない。

 道行く人々に目を向ければ、どの顔も一様に暗く沈んでいる。

 誰もが固く唇を結び、なにかに怯えるように目を伏せている。追い立てられるように先を急ぐのは、一刻も早くこの場から立ち去ってしまいたいからだ。


 それも無理からぬことだった。

 いま帝都を支配するのは、ひりつくような緊張と恐怖であった。

 市中の辻という辻には武器を携えた中央軍兵士が立ち、主要な通りでは重武装の小隊がひっきりなしに巡回パトロールを行っている。

 往来を行き交う人々のなかにすこしでも怪しげな風体の者を見かけるたび、兵士たちはすさまじい怒声を張り上げて呼び止める。続けざまに上がる悲痛な叫び声は、容赦のない暴力が振るわれた証左だ。

 兵士たちも無作為に犠牲者を選んでいる訳ではない。目をつけられるのは、決まって東方人だった。

 数日前から始まったは、市内に紛れ込んだ不穏分子の摘発という大義名分を掲げて行われてはいるものの、実際には東方人に対する露骨な見せしめであることは誰の目にも明らかだった。

 それは、近ごろ辺境で相次いでいる東方人の反逆行為の報いを、遠く離れた帝都市民に受けさせているということでもある。

 被害者にとっては理不尽そのものだが、中央軍の兵士たちにとっては、同じ東方人であるというだけで十分なのだ。

 身の程知らずの東方人ども、西方人おれたちに逆らうとどうなるか分からせてやる――。

 肉を打つ恐ろしげな響きは、市民に対する無言の恫喝にほかならなかった。


 人波をかき分けるように先を急ぎながら、アレクシオスは無力感に歯噛みするばかりだった。

 大城門をくぐってからここまで、街のそこかしこで兵士が市民に暴力を振るう光景を目にしてきた。

 そのたびに、アレクシオスは足早にその場を立ち去ることしか出来なかった。

 いまの自分には、目の前で繰り広げられる暴挙を止める術はない。

 力ずくで阻止したところで、事態をいっそう悪化させるだけだ。彼らも帝都の治安維持という任務を帯びている以上、どのような理由であれ、それを妨げることは『帝国』への反逆と解されるだろう。


 と、五十メートルほど前方でまたしても悲鳴が上がった。

 通行人の肩と肩のあいだから一瞬覗いたのは、商人らしき男が路上に引き倒される場面だった。

 売り物を詰め込んでいたらしい大きな背嚢は地面に叩きつけられ、兵士が無遠慮にその中身を検めている。


「お願いです、勘弁してください!! 私がいったい何をしたというんです!?」


 懸命に許しを請う男の声に、おもわず耳を覆いたくなるような罵詈雑言が覆いかぶさり、無慈悲にかき消していく。


 反射的に飛び出そうとしたアレクシオスだが、身体が動くまえに強く手首を掴まれていた。

 とっさに振り返ったアレクシオスに、ラフィカは無言のまま首を横に振る。

 何も出来ないことに忸怩たる思いを抱いているのは、ラフィカにしても同じだった。普段は飄然としていても、無辜の市民に加えられる暴虐を見過ごせるほど冷淡ではないのだ。

 それでも、葛藤をこらえ、衝動を抑え込んで、どうにかその場に踏みとどまっている。

 ラフィカの使命は、一刻も早く帝城宮バシレイオンに上がり、手に入れた情報をルシウスに報告することだ。

 ここで余計な騒ぎを起こしては、本来の使命にも差し障る――ラフィカの瞳は、そう訴えかけているようだった。

 アレクシオスは瞼を閉じ、唇を強く噛みしめる。


「皇帝陛下には……」


 ちいさく呟いた言葉は、しかし、誰の耳にも届くことはなかった。


――皇帝陛下には、きっとお考えがあるにちがいない。


 いまは、そう信じるしかない。

 戎装騎士ストラティオテスの力をもってしても、引き裂かれつつある国家を救う手立てはない。

 危機に瀕した『帝国』を真の意味で救うことが出来るのは、皇帝であるルシウスだけなのだ。

 アレクシオスは拳を握りしめると、ふたたび雑踏のなかに踏み出していた。


***


 官庁街の手前でラフィカと別れたアレクシオスは、そのまま騎士庁ストラテギオンの詰め所へと足を向けた。

 騎士ストラティオテスが何の手続きも経ずに帝城宮に参内さんだいする訳もいかず、なにより、見聞きした情報はここまでの道中ですべてラフィカに伝えてある。

 ルシウスへの報告はラフィカに任せ、アレクシオスはひとまずは仲間たちに無事を知らせることを優先したのだった。


 中央軍総司令部が置かれているだけあって、官庁街の警備は他の街区にも増して厳重だった。

 街路には一定の距離ごとに立哨が配置され、一帯はものものしい雰囲気に包まれている。

 アレクシオスも何度か不躾な視線を感じたが、いちいち腹を立てる気にもなれなかった。

 それだけで済んでいるのは、ひとえに場所柄のためだ。

 官庁街と言われるだけあって、この界隈に出入りするのは各省庁の関係者がほとんどだった。

 たとえ東方人であってもなんらかの官職を有している可能性が高いため、兵士の側も一般市民に対するような非礼には出られないのだろう。高圧的な尋問を行えば、所属する省庁から中央軍に猛抗議が寄せられるおそれもある。

 事なかれ主義に染まっているのは、中央軍にしても同じことだった。


 結局アレクシオスは一度も声をかけられることもなく、あっさりと詰め所の前まで辿り着いてしまった。

 詰め所の建物に近づくたび、忘れかけていた緊張がよみがえってくる。

 留守にしているあいだ、皆にはずいぶん心配をかけたはずだ。

 いま思えば、途中の宿駅で手紙の一通でも出しておくべきだったかもしれない。

 後悔したところで詮無きことだ。帰るべき場所は、アレクシオスの目と鼻の先にまで迫っている。


――どんな顔をして会えばいいのだろう? 

――最初になんと言うべきだろう?


 さまざまな事柄が次から次へと沸き起こり、アレクシオスはその場に立ちつくしてしまいそうになる。

 そんな迷いを振り切るように、大きく息を吸い込み、玄関扉の把手に手をかける。

 予想していたとおり、古びた木のドアはかすかな軋りを立てて開いた。

 予想と違っていたのは、アレクシオスのほうに向かって開いたということだ。

 ドアの隙間から覗いたのは、真紅の双眸だった。

 透き通った瞳にまじまじと見つめられ、少年はわずかに後じさる。

 それほど長い間離れていたという訳でもないのに、よく見知ったはずの少女の顔は、アレクシオスの胸に言葉にしがたい感情を引き起こした。


「……アレクシオス?」


 オルフェウスに問われ、アレクシオスはおもわず言葉に詰まる。

 いくつか用意していたはずの言葉は、どういう訳か喉を出ていこうとしない。

 差し向かいになったまま、気まずい時間だけが流れていく。数秒が何時間にも引き伸ばされたように感じられる。

 先に沈黙を破ったのはオルフェウスだった。


「おかえり」

「た……ただいま」


 玲瓏な声が紡いだのは、あくまでそっけない言葉だ。

 戻ってきた者とそれを出迎える者の、何の変哲もないやり取り。

 それがアレクシオスにはなんともいえずうれしかった。

 ここに至るまでに突きつけられた選択を一つでも違えていれば、当たり前の日常は二度と戻らなかっただろう。


「ちょっと、なに? こんな時間に誰か来たの?」


 聞き間違えるはずのない声に続いて、どたどたと廊下を駆けてくる足音が響く。


「アレクシオスが帰ってきたよ」

「はあ? あんた、なに冗談言って――――」


 玄関口まで来たところで、イセリアははたと足を止めた。

 氷の彫像と化したように固まっているのは、信じがたいものを目にしたためだ。両目は大きく見開かれ、唇は何かを言おうとむなしく開閉を繰り返すばかり。


「うそ――」


「嘘なものか。いま戻った。……お前たちには心配をかけてすまなかったな」


 言い終わるが早いか、アレクシオスは勢いよく押し倒されていた。


「おい、何のつもりだ!!」

「それはこっちのセリフよ!! アレクシオス、いままでどこにいたの!? なんで連絡してくれなかったの!?」

「それは……おれにもいろいろ事情があったんだ。悪いとは思っている」

「……帰ってきてくれてよかったあ……」


 イセリアはほとんど泣きそうな声で言うと、両腕に力をこめる。

 戎装していないとはいえ、イセリアの膂力はアレクシオスの比ではない。

 巨岩を打ち砕き、城塞の壁をやすやすと破壊する腕で抱きすくめられ、アレクシオスは苦しげな呻き声を漏らす。


「おいイセリア、そのくらいにしろ!! いい加減に苦しい……」

「やだ!! やめない!! あたしを心配させたんだから、このくらい我慢しなさい!!」

「し、死ぬ――」


 じたばたと暴れるアレクシオスをよそに、イセリアはなおも拘束を強めていく。

 アレクシオスはたまらずオルフェウスに助けを求めるが、美しい少女は玄関に佇んだまま、一向に止めに入る素振りも見せない。イセリアの邪魔をしてはいけないと気を遣っているのだ。


「いったい何事ですか?」

「お姉ちゃん、また誰かと喧嘩してるの? 昼間も中央軍の人を病院送りにしたばかりなのに、仕方ないなあ……」


 玄関での騒ぎを聞きつけたのか、ヴィサリオンとエウフロシュネーが連れ立って廊下を渡ってくる。

 オルフェウスとドアに阻まれ、二人からはアレクシオスの姿は見えない。分かるのは、イセリアが何かと格闘しているらしいということだけだ。

 玄関からひょいと顔を出して、ヴィサリオンとエウフロシュネーはおもわず言葉を失った。


「二人とも、見ていないで助けてくれ!!」


 アレクシオスが上げたすがるような声に、青年と少女ははっと我に返る。


「アレクシオス!! いつ戻ったのですか!?」

「お姉ちゃん、離してあげないと本当に死んじゃうよ!!」


 エウフロシュネーはイセリアに組みつき、力づくでアレクシオスから引き剥がそうとする。

 アレクシオスは一瞬の隙を突いて拘束を脱出すると、ぜえぜえと荒い息をつきながら立ち上がる。

 邪魔をされたのがよほど不満なのか、エウフロシュネーと取っ組み合いを始めたイセリアを尻目に、ヴィサリオンのもとへと近づく。


「アレクシオス、無事で何よりでした」

「心配をかけてすまなかった。おれが留守にしているあいだ、変わりはなかったか?」

「私たちは特には――ただ、帝都はすっかり変わってしまいました」

「……分かっている」


 アレクシオスは苦々しげに肯んずる。

 帝都だけではない。『帝国』そのものが大きく変わろうとしている。

 一つの時代が終わり、新たな時代が勃興しようとしている。その端境は決して平穏なものではない。

 天命が革められ、支配する側とされる側とが入れ替わるとき、そこには血の代償が伴うものだ。

 東方の大地はかつてないほどに凄惨な戦禍に見舞われるはずだった。


「ヴィサリオン、ひとつ頼みがある」 

「何でしょう?」


 アレクシオスはしばし逡巡したあと、意を決したように口を開いた。


「……皇帝陛下への上奏を申請してもらいたい」

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