第146話 大義のゆくえ(前編)

 国家を襲った未曾有の危機を前に、『帝国』の中枢は二つに割れていた。

 すなわち、東方人の反乱を未然に防ぐために中央軍の積極的な派兵を主張する武断派と、慎重論を唱える穏健派の対立である。


 帝都近郊に駐屯する中央軍は、皇帝とその一族を守るために創設された軍隊だ。

 指揮官から末端の兵卒に至るまですべての人員が西方人によって占められる彼らは、練度と装備の両面において辺境軍を寄せ付けない水準にある。

 たとえ各州の辺境軍が反乱分子に内側から乗っ取られたとしても、中央軍との戦力差は歴然としている。そのうえ辺境軍の指導層である西方人を欠いているとなれば、軍隊としての規律だった行動など取れるはずもない。数の上で有利に立ったとしても、統率の取れない集団などしょせんは烏合の衆にすぎず、些細なきっかけでたやすく瓦解するのは火を見るより明らかであった。

 あるいは、本格的な衝突に至らない場合でも、である中央軍が各辺境に駐留する抑止効果は計り知れない。

 まだ反乱軍が本格的な挙兵に至っていない今のうちに中央軍を各辺境に派遣し、治安維持に当たらせるべきだ――武断派の主張を簡潔に取りまとめれば、そのようになる。

 一方の穏健派は、帝都周辺の防衛が手薄になることを危惧し、また西方人支配の象徴ともいえる中央軍の辺境派遣によって、東方人のあいだでさらなる反『帝国』・反西方人感情が醸成されかねないとして、派兵に対する慎重論を展開したのだった。


 武断派には、軍の最高指揮官である大司馬マギステル・ミリトゥムや中央軍の名だたる将軍たちだけではなく、文官の最高位である尚書令マギストロスまでもが名を連ねている。廷臣のなかでもとくに有力な人物が我先にと主戦論に肩入れしたことによって、武断派の勢いは日に日に増す一方であった。

 対する穏健派は、元老院議長デキムス・アエミリウスらを中心に堅実な論陣を張ったものの、いかんせん宮廷においては少数派にすぎず、数で圧倒的にまさる武断派を押し止めきれないことは自明だった。

 『帝国』において最終的な判断は皇帝一人に委ねられている以上、人数の多寡はそれぞれの陣営が掲げる主張が採用されるかどうかとは直接の関係はない。

 そうは言っても、皇帝もやはり人の子だ。

 臣下の意見をまるっきり無碍にする訳にもいかず、まして即位して日も浅い皇帝となれば、老臣を差し置いて独断専行などそうそう出来るものではない。

 二つの派閥が宮廷の内外を問わずしのぎを削り、連日のように激しい舌戦に明け暮れているのも、すべては皇帝にみずからの主張を肯んじさせるためであった。

 皇帝であるルシウスがいまだ沈黙を守ったままであることも、両派の争いにいっそう拍車をかける一因になった。

 見方によっては消極的に慎重論に賛同しているようにも解釈出来るが、しかし、問題はそう単純ではない。

 いつ辺境で火の手が上がっても不思議ではない緊迫した状況のなか、いつからか宮廷に出入りする誰もが同じ疑問を抱くようになっていた。


 皇帝陛下は、いったい何を迷っておられるのか?

 手遅れになってからでは、もう遅い――と。


***


「……皇帝陛下、今日こそはご決断を願います」


 恭しく頭を垂れながら、尚書令マギストロスは慇懃に言上する。

 その傍らに従者みたいに控えているのは、大司馬マギステル・ミリトゥムだ。

 毎朝玉座の間で催される定例の会議は、今日に限って異様な雰囲気に包まれていた。

 尚書令の背後には、きらびやかな甲冑に身を包んだ中央軍の将軍たちがずらりと居並んでいる。宮中に武器を持ち込むことが禁じられているため丸腰ではあるものの、その出で立ちは戦時さながらだ。

 そもそもは武断派の主だった面々が一斉に登城し、穏健派に邪魔されることなく、皇帝の同意を引き出そうと考えたのが事の発端だ。

 その目論見は図に当たり、まんまと武断派の人士だけで玉座の間を埋め尽くすことに成功したのだった。


「辺境の情勢はまさしく風雲急を告げ、兵乱の兆しは日増しに高まっております。たった一言で構いません。ご下知さえ賜れば、中央軍五十余万の精鋭は諸州に走り、たちどころに陛下のご宸襟を安んじてごらんにいれましょう」


 熱っぽく語る尚書令に対して、ルシウスは何も答えようとはしなかった。

 まるで玉座の上に据えられた優美な彫像みたいに、青年皇帝はあくまで自若と佇んでいる。

 これほど間近で溢れんばかりの熱意を叩きつけられているにもかかわらず、その様子はどこか他人事のようでもある。


「おそれながら、陛下――」


 沈黙に耐えかねたように、尚書令の背後から廷臣の一人が膝行しっこうしていざり出る。


社稷しゃしょくの危機にご叡慮を示されるのは、天子たる者の責務と存じます」


 かすかに震える声には、確かな非難の響きがある。

 然るべき時に然るべき決断を下せないなら、天子である意味がない――はっきりとそう述べたなら、たちまち首が飛ぶ。臣下の分際で面と向かって皇帝を糾弾するなど、『帝国』の秩序においては決して許されない行為なのだ。

 それは、文字通り生命を賭した行動だった。

 刑死という最も不名誉な最後を遂げることを覚悟の上で、皇帝に諫言しようというのだ。

 尚書令と将軍たちの顔にふつふつと湧いた汗の玉は、同志を人身御供として差し出した罪悪感によるものか。

 むろん、ただ同志に死を押し付けただけで終わらせるつもりはない。これでもなおルシウスが腹を決めかねるなら、自分たちも後に続くまでのことだった。


 重苦しい沈黙がふたたび玉座の間を埋めていく。

 至尊者アウグストゥスに向かって投げかけられた無礼な言葉に怒るでもなく、臣下がそのような挙に出たことに驚くでもなく。

 ルシウスはただ冷厳な瞳で一同を見下ろし、ゆっくりと瞼を閉じただけだ。


――またしても……。


 今日も皇帝陛下は決断を先送りにされるつもりか。

 武断派の人士の顔に浮かんだのは、あきらかな落胆と失望だった。

 『帝国』の最高権力者である皇帝に発言を強要することは、地上の何人にも不可能だ。

 ひとたび沈黙を決め込んだならば、その口は皇帝みずからの意思によってのみ開く。こうなってはいかに尚書令と大司馬という顕職でもどうすることも出来ず、会議の終了とともにおとなしく引き下がるしかない。


 と、玉座の脇から廷吏ていりがそろそろと進み出てきた。

 ルシウスは廷吏から手渡された書簡にひとしきり視線を走らせると、


「上奏があるということだ。そなたらも聞くがよい」


 それだけ言って、ほうと息を吐いた。


――こんな時節に上奏だと?


 武断派の面々が訝しんだのも無理からぬことだ。

 『帝国』の各省庁は、規模の大小に関わりなく、皇帝に上奏する権限を有している。古帝国時代からの慣習として、現場の意見を直接為政者に訴える権利が認められているためだ。

 その内容は、予算増額の嘆願といった単純な要求から、専門家の見地に立った政策提言まで多岐に渡る。

 もっとも、毎日のように帝城宮バシレイオンに上がってくる上奏文のなかでも、実際に皇帝が目を通すのはほんのひと握りにすぎない。

 廷吏によって皇帝の裁可を仰ぐに値しないと判断されたものは棄却され、検討されることもなく葬られるのが常だった。とくに昨今の情勢下においては、皇帝のもとに届けられる上奏文は目に見えて減っている。

 何より、上奏のための時間は本来であれば会議とは別に確保されているはずだ。

 定例の会議を中断してまで皇帝みずから上奏を聞くとは、まさしく異例中の異例だった。


――陛下はどういうおつもりか……? 


 口には出さないものの、玉座の間に詰めかけた廷臣たちの心はざわめいている。

 『帝国』の行く末を真摯に憂う自分たちよりも、どこの馬の骨とも知れない官吏の嘆願を優先するというのか。

 あるいは、ルシウスには最初から話を聞くつもりなどなかったのか――。

 背後で扉が開いたのはそのときだった。


***


 玉座の間に足を踏み入れた者の姿を視界の片隅に認めて、廷臣たちは顔を強張らせた。


 それも一瞬だ。一同の顔にわずかに兆した驚愕の色は、たちまち好奇と侮蔑に塗り替えられていった。

 いま玉座に向かってしずしずと進むのは、女と見紛うような線の細い青年と、黒髪黒瞳の東方人の少年の二人連れだった。

 見るからに頼りなさげな生白なまっちろい若造と、下賤な東方人の小童。

 どちらも玉座の間に相応しからぬ人物であることに変わりはない。

 高貴な宮中に場違いな野良犬が紛れ込んできたとでもいうように、忌々しげな視線が殺到する。


騎士庁ストラテギオン長官、ヴィサリオン殿。ならびに同庁所属、アレクシオス殿。ご参内――」


 慣例に従い、廷吏が上奏者の名前を読み上げていく。


――騎士庁ストラテギオンだと?


 聞き慣れない名前に動揺が広がったのも当然だ。

 帝都の城下にはゆうに三百を超える省庁や公的機関がひしめいているが、騎士庁などという組織が存在するなどとは、この場の誰にとっても初耳だった。

 もっとも、その無知を責めるのはいささか酷というものだ。中小の省庁の名前をすべて記憶しているのは、よほど偏執的な官界マニアだけなのだから。

 どれほど無名であっても、省庁である以上は上奏の権利を持っている。

 問題は、国家の存立に関わる重要な時期に、わざわざ皇帝がそれを取り上げたということだ。

 むろん、廷吏の不手際などではない。となれば、考えられる可能性は一つだった。


――皇帝陛下がみずからこの者たちを選んだのだ!!


 武断派の廷臣たちの胸に、怒りにも似た感情がふつふつと沸き起こる。

 ルシウスは、武断派の説得を中断させるためにこのような芝居を仕組んでいたにちがいない。祖国の将来を憂う臣下に対して、ありうべからざる愚弄であった。

 ただ意見を峻拒するだけならまだしも、お前たちの訴えなどは木端役人の上奏にも劣ると言いたいのだ。

 いったんそのように考え始めると、この二人も、とても本物の官吏とは思えない。

 そもそも騎士庁などという役所はほんとうに実在するのか。


「かしこくも皇帝陛下に上疏じょうそいたします――」 

「煩わしい挨拶は無用だ」


 ルシウスは上奏文を読み上げようとしたヴィサリオンを制すると、傍らの少年に目を向ける。


「アレクシオス、そなたの口から話すがよい」

「おれが……ですか?」 


 面食らった様子のアレクシオスに、ルシウスは目を細め、ちいさく頷く。


「此度の上奏はそなたの希望と聞いている。遠慮はいらぬ。思っていることを存分に申してみるがよかろう」


 アレクシオスの顔にほんの一瞬迷いの色がよぎる。

 それを振り切るように、少年は玉座に向かって一歩を踏み出す。


騎士ストラティオテスアレクシオスより、皇帝陛下に申し上げます――」


 アレクシオスがその言葉を口にした途端、廷臣たちの顔色が変わった。


――騎士ストラティオテス

――騎士とは、戎狄バルバロイと戦っていた、あの……。


 『帝国』の高官にとって、戎装騎士ストラティオテスの存在は公然の秘密だ。戦場から遠く離れた帝都にも、戎狄バルバロイと騎士に関するさまざまな風聞は届いている。

 そうした風聞を彩るのは、決まって面白半分の脚色、そして嫌悪と偏見だ。


 いわく、鉄の身体を持つ化け物。

 いわく、人間の皮を被った恐ろしい怪物。


 軍事に携わる中央軍の将軍たちや大司馬マギステル・ミリトゥムにしても、戎装騎士と接触する機会など皆無なのだ。

 この場に居合わせた廷臣たちにとって、いまこの時が騎士を実際に目の当たりにする初めての機会だった。


――そのような穢らわしい輩が、陛下の御前に……!!


 もっとも、ルシウス自身が玉座の間に招いたことを思えば、怒りの矛先を向けるべきはアレクシオスではない。

 招いてはならない者を招き入れ、国家と皇帝に忠誠を誓う臣下を思うさま嘲弄する……。

 暴君によって祖国が破壊されつつある現実に、尚書令マギストロスはほとんど気を失いかかっている。世界の終わりまで存続すると思われた『帝国』も、この男の代で終止符を打たれるにちがいない。

 そのあいだも、アレクシオスはルシウスに命じられるまま、訥々と言葉を紡いでいく。


「おれは敵に捕らえられ、その内情を知る機会を得ました。陛下に申し上げるのは、そのことについてです」

「その敵とは、例のゼーロータイとやらだな? ヘラクレイオスらの脱走、そして東方人の反乱を裏から煽り立てていたのは、そやつらであろう」

「仰せのとおりです――」


 アレクシオスの言葉に、怪訝そうに耳を傾けていた廷臣たちは一斉にどよもした。

 ゼーロータイ。

 ただ漠然と反乱軍とだけ認識していた勢力が、まさか一つの意思のもとで統率されてた組織であったなどとは。

 この場の誰も知り得なかった情報をこの騎士は、そして、皇帝は知っていたのだ。


「騎士アレクシオスよ。そなたが敵の側に身を置くなかで感じたことを、ありのまま余に申せ」


 ルシウスに促され、アレクシオスはなおも続けようとする。

 しかし、逸る心とは裏腹に、言葉は一向に喉を出ていこうとしない。

 それも道理だ。これから少年が語ろうとしていることは、それほどの覚悟を必要とするものなのだから。


「皇帝陛下に……申し上げます」


 喉につかえた塊を吐き出すように、アレクシオスはゆっくりと言葉を継いでいく。


「このたびの東方人の反乱は、『帝国』の側に原因があると考えます――――」

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