第147話 大義のゆくえ(後編)

 反乱の原因は、『帝国』の側にある――――。


 アレクシオスの言葉に、武断派の廷臣たちは互いに顔を見合わせた。

 もともと武力による反乱鎮圧を主張して譲らなかった彼らである。

 反抗的な東方人を服従させる方法についてあれこれと心を砕いても、よもや『帝国』に反乱の責任があるなどとは考えたこともない。

 呆れと嘲りがひとしきり過ぎ去ったあと、廷臣たちの胸にこみ上げてきたのは、言いようのない不快感と怒りだった。

 騎士ストラティオテスの正体はさておき、アレクシオスのは典型的な東方人そのものだ。

 そのような者が皇帝の面前で、西方人である自分たちに囲まれても物怖じせず、『帝国』の批判を行うとは何事か。

 アレクシオスの発言は、『帝国』の秩序への挑戦にほかならない。

 いかにルシウス帝が破天荒でも、このような暴言をみすみす看過するはずがない。

 身の程知らずの小童が玉座の間から叩き出されることを期待していた廷臣たちは、しかし、肩透かしを食らうことになった。


「詳しく話すがいい、アレクシオスよ」


 ルシウスはこともなげに言うと、アレクシオスにさらに続けるよう促したのだった。


「おれは帝都に戻る途中、たくさんの町や村を見てきました。役場や西方人の屋敷が焼かれているところにも何度も出くわしました。蜂起は起こっていなくても、辺境ではいまも暴力と破壊が続いています」

「それでも、そなたは『帝国』の側に反乱の原因があると言うのか」

「反乱を起こした東方人たちには、そうせざるをえなかった理由があるからです――」


 アレクシオスはルシウスを見つめ返し、深く息を吸い込む。


「彼らは……毎年のように重い税に苦しみ、どれだけ働いても自分の土地を持つことは出来ません。西方人とおなじ罪を犯しても、ずっと過酷な刑を科せられます。そうして親を奪われ、『帝国』を憎みながら育つ子供たちを、おれはこの目で見てきました」


 アレクシオスの黒い瞳がふっと遠くなった。

 聖域アジールの孤児院の子供たち。あの子たちは、あれからどうしているだろう。

 聖域を出るとき、人間みんなを守るために戦うと誓った。

 いまアレクシオスがルシウスの前に立っているのは、その誓いを守るためだ。

 空約束で終わらせないために。騎士ストラティオテスとして、悔いなく生命を燃やし尽くすために。


「地獄のような境遇から抜け出るためには、その元凶である『帝国』と戦うしかない。東方人にとって、苦しみから解放される唯一の方法は、この国を破壊することなんです――」


 アレクシオスはありったけの勇気を奮い、ルシウスの瞳を見据える。

 皇帝アウグストゥス騎士ストラティオテス。立場も生まれもまるで違う両者は、いま真っ向から向き合おうとしている。


「たしかに東方人たちを言葉巧みに扇動し、反乱へと向かわせているのはゼーロータイです。しかし、『帝国』が変わらないかぎり、東方人たちは決して戦いをやめないはずです。彼らは西方人の下で飼い殺しにされるより、戦って死ぬことに希望を見出しています。自分たちは斃れても、子供たちによりよい世界を残せると信じて……」


 ルシウスはゆっくりと瞼を閉じ、そのまま深く首肯する。

 玉座の上にありながら、その佇まいは古代いにしえの哲人を彷彿させた。

 若き皇帝はアレクシオスの真意を汲み取り、もっとも相応しい方策をおのれの内面に求めているのだ。

 凄まじい胴間声が響いたのは次の瞬間だった。


「そこまでにせよ、戎装騎士ストラティオテス!!」


 耳を聾するばかりに声を張り上げたのは、武断派の将軍たちであった。

 全身から猛々しい雰囲気を発散させる彼らは、一斉に立ち上がると、掴みかからんばかりの勢いでアレクシオスに詰め寄る。


「だまって聞いていたが、いい加減に我慢がならん!!」

「敵に捕らえられたと言っていたな? おおかた奴らに懐柔されたのだろう!?」

「皇帝陛下の御前でよくもそんなことが言えたものだ。恥知らずの裏切り者め――」


 口を極めて罵られても、アレクシオスは微動だにしない。

 柳が風を受け流すごとく、吹き荒れる罵詈雑言の嵐にじっと耐えている。

 見かねたヴィサリオンが止めに入ろうとしたそのときだった。


「控えるがいい」


 ルシウスは厳かな声で言うと、薄く瞼を開く。

 澄んだ鳶色の瞳に見つめられただけで、心まで凍てついていくような錯覚に囚われる。それはまさしく帝王のまなざしであった。

 誰もが動きを止めるなかで、将軍の一人がアレクシオスとヴィサリオンの肩を乱暴に叩く。

 いまのルシウスの言葉を聞いて、皇帝も自分たちの味方だと思ったのだろう。


「皇帝陛下もあのように仰せだ。早々に出て行くがいい。ここは貴様らがいていい場所ではないのだからな――」

「余はそのほうらに言ったつもりだ」


 茫然自失といった様子の将軍にはもはや一瞥もくれず、ルシウスはふたたびアレクシオスに語りかける。


「騎士アレクシオス。そなたの言葉、しかと受け取った」

「陛下……」

「『帝国』に叛いた者の心を知っているのはそなただけだ。あの者たちを逆賊と片付けることはたやすい。武力を以って鎮圧することもまた然りだ。しかし、それでは何の解決にもならぬ。民の心を反乱へと向かわせる原因を断たねば、たとえこの時局を乗り切ったとしても、ふたたび同じことが繰り返されるであろう」


 ルシウスの言葉に、アレクシオスはおもわず胸が詰まりそうになる。

 一蹴されても仕方がないと思っていた。皇帝という立場を鑑みれば、アレクシオスの意見に気安く同意することなど出来るはずもない。

 それでも、ルシウスは最大限の理解を示してくれたのだ。

 澎湃と沸き起こる喜びに打ち震えながら、それでも、アレクシオスはまだ終わりではないと自分を奮い立たせる。


「分不相応であることは分かっています。どのような罰も受けます。それでも、たったひとつだけ、願いを聞いていただきたいのです」

「申してみよ」


 ふい剣呑さを増した周囲の視線に物怖じすることなく、アレクシオスはなおも続ける。

 これからアレクシオスが語ろうとしているのは、もともと上奏の予定には含まれていなかったものだ。皇帝の面前では、問われないかぎり、上奏者は言葉を述べることが許されないのが慣例である。

 アレクシオスはそれを承知の上で、ルシウスにみずからの思いの丈をぶつけようというのだった。


「……おれは、この『帝国くに』を愛しています。皇帝陛下がお命じになれば、どこへでも行きます。どんな敵とでも戦います。たとえ生命を失ったとしても、悔いはありません。騎士ストラティオテスとして生まれたときから、その覚悟は出来ているつもりです」


 アレクシオスは跪き、ルシウスにむかって深々とこうべを垂れる。


「皇帝陛下――どうか、正義ただしいことのために死なせてください。この生命は正義ただしいものを守るために捧げるのだと、信じさせてください」


 その瞬間のアレクシオスの表情は、真横にいるヴィサリオンにも窺えなかった。

 それでも、ヴィサリオンには、ひとつの確信があった。


 泣いている――。

 彼は、きっと涙を流しているはずだ。

 正義ただしいことのために死なせてほしい。

 それは、現在の『帝国』のありかたに対する痛烈な批判でもある。

 歴代皇帝が積み重ねてきた治世を否定し、そのうえで、当代の皇帝であるルシウスに要求を突きつけているのだ。

 むろん、臣下という身分を考えれば、およそ容認されることではない。地上の神である皇帝に何かを命じることが出来るのは、当の皇帝自身を置いてほかにないのだから。

 それを理解してなお、アレクシオスにはルシウスに直訴せずにはいられなかった。


 一時いっときはゼーロータイに取り込まれかかった少年は、ふたたび『帝国』の側に帰還した。

 だが、まったく異なる二つの世界を知ったことで、アレクシオスはかつてのように『帝国』の正義を無邪気に信じることは出来なくなっている。『帝国』の正義は東方人にとっての悪であり、皇帝一人に忠誠を尽くすことは、より多くの人々を虐げることにもなりかねない現実を、少年は否応なしに思い知らされた。


 正義ただしいこと――アレクシオスがもう一度『帝国』の騎士として戦うためには、それが必要だった。

 たとえ空虚な擬制フィクションにすぎないとしても、おのれの生命を差し出すに値するものを欲したのは当然でもある。

 この先にはヘラクレイオスらと熾烈な戦いが待ち受けている。生還ののぞみがかぎりなく薄いことは、アレクシオスも承知の上だった。

 死地に赴く兵士にとって、心の拠り所の有無は文字通りの死活問題だ。それがあれば、兵士は死にゆく運命を受け入れ、最期の瞬間まで使命を全うすることが出来る。


 玉座の間を静寂が満たした。

 口を開く者はおろか、広壮な室内には、しわぶきさえ絶えている。

 誰もが皇帝が次に口にする言葉をまんじりともせずに待っているのだ。

 じっと息を潜めるアレクシオスとヴィサリオンの頭上で、よく通る声が響き渡った。


「よかろう――」


 ルシウスは常と変わらず鷹揚にうべなうと、アレクシオスにはっきりと言い渡す。


「アレクシオスよ、皇帝としてのために戦うことを命じる。その生命尽きるまで、己が務めを果たすがよい」


 『帝国』のためでもなく、皇帝のためでもない。

 人の世――人間の生きるこの世界のために戦うこと。

 あらゆる事物がたえず転変し、とどまることなく生滅と盛衰を繰り返すこの世に正義があるとすれば、それは世界の営みそれ自体であるはずだ。

 かつて騎士たちが北の大地で戎狄バルバロイと戦ったのも、人間の世界を守るためだった。

 戎狄バルバロイはすでに滅び去った。それでも、世界そのものを憎悪し、人間の営みを破滅に導こうと企む者は、いまなお存在している。

 人間の敵が存在するかぎり、騎士ストラティオテスもまたこの世界に必要とされているのだ。

 一度は見失ったはずの大義は、正義というあらたな生命を吹き込まれ、ふたたびよみがえろうとしている。

 アレクシオスは跪いたまま、感極まった声で答える。


「騎士アレクシオス、つつしんで拝命いたします」


 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 つい先ほどまでとは別人のような面差しに、ルシウスはほうと小さく声を漏らす。

 暗い影のようにまとわりついていた後悔も未練も、すっかり霧散している。

 少年の顔を彩るのは、揺るぎない誇りと覚悟だった。


***


正義ただしいことのために死なせてくれ――か」


 玉座の間に併設された別室で、タレイアはぽつりと呟いた。

 不測の事態に備え、姉であるアグライアとともに控えていたのだった。

 騎士のすぐれた聴覚ならば、壁一枚隔てた玉座の間でのやり取りを聞き取ることはたやすい。


「よりによって皇帝陛下にそのようなことを頼むなど……」

「タレイアはそんなに気に入らなかった?」

「……べつに悪いとは言っていない」


 からかうようなアグライアの言葉に、タレイアはついと横を向く。

 アレクシオスが口にしたのは、タレイアを含めたすべての騎士が胸に秘めていた思いでもあった。

 国家と皇帝のために忠誠を尽くす。耳触りはいいが、それは自分の意志を放棄することと同義でもある。

 武器が使い手と使途つかいみちを選べないのと同じように、騎士もまた命じられるままに戦い、壊し、そして殺すだけの存在なのだ。

 それでも、善良な主に恵まれているうちはまだ救いがある。

 だが、もし主から非道な命令を受けたなら……。

 皇帝直属騎士であるタレイアは、おそらく拒むことは出来ないだろう。

 『帝国』を裏切ったヘラクレイオスらは、みずからの意志で生きる道を選んだとも言える。

 どちらが正しいかは、建前の上はさておき、心の奥底では判断しかねていたのが本音だ。

 たったいまアレクシオスが吐き出した赤裸々な言葉と、それに対するルシウスの返答は、そんな胸のわだかまりに一つの答えを出してくれたのだった。


「頼りない少年だと思っていたが……」


 タレイアは壁に背をもたせかかりながら、ひとりごちるみたいに言った。


「私たちに代わって言いたいことを言ってくれた。それは感謝しなければならないな」

「タレイアってば、素直じゃないわね」

「茶化すな。それに、実力ではまだまだ不安なのも確かだ」


 アグライアは花がほころんだような笑みを浮かべたあと、ふいに真顔になった。


「あれからもうずいぶん経つわ。そろそろ動きがあってもおかしくないころね」

「どちらにしても、私たちは帝都を動けん。戦うとすれば、おそらく――」


 言いさして、タレイアは口ごもる。

 アレクシオスら騎士庁ストラテギオンの騎士たちが矢面に立つはずだった。

 ラケルとレヴィはこちらに寝返ったとはいえ、敵はまだ四騎の戎装騎士ストラティオテスを擁している。

 なによりの問題は、あのヘラクレイオスがいるということだ。

 灰白色の騎士が帝都襲撃の際に見せた凄まじい強さは、思い出すだけでも肌が粟立つ。

 あらゆる騎士のなかでも最強の矛と称されるアグライアと、それを守護する最強の盾であるタレイアが二人がかりで挑んでも、足止めをするのが精一杯だったのだ。

 もしあのまま戦いが長引いていれば、二人とも命を落としていたにちがいない。

 切り札であるオルフェウスがいるとはいえ、アレクシオスらにヘラクレイオスとの戦いを任せるのは荷が勝ちすぎるどころか、いっそ無謀ですらある。


「タレイア、あの子たちを信じましょう。エウフロシュネーもついているし、それにイセリアちゃんもいることだし……」

「私はあいつが一番心配だ」

「そうかしら?」


 あくまで能天気なアグライアに、タレイアは深いため息をつく。

 だが、こうしてあれこれと心配していられるのも、平和な今のうちだけなのだ。

 決戦はすぐそこまで迫っている。一度戦いが始まってしまえば、好むと好まざるとにかかわらず、戦場に身を投じたすべての者が明暗いずれかを突きつけられる。


 全員が無事に帰ってきてくれればいい――。

 タレイアは心のなかでそっと祈る。

 それが夢物語にすぎないことも、盾の騎士には痛いほど分かっていた。

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