第129話 囚われの騎士
アレクシオスは暗い淵をさまよっていた。
ここはどこなのか――。
いつからここにいるのか――。
なにもかも分からないことばかりだった。
身体の感覚や時間の流れ……自分を取り巻く何もかもが遠く感じられる。
肉体を置きざりに魂だけが遊離しているような、いままで経験したことのない感覚。
あるいは、死後の世界とは、このようなものであるのかもしれない。
自分の意志ではどうすることも出来ないまま、アレクシオスはただ虚空を
永遠に続くかと思われた闇と静寂の回廊は、ふいに終点を迎えた。
水底から泡が湧き上がるみたいに意識が浮揚していく。遠ざかっていた感覚が一つまたひとつと肉体に戻っていくのが分かる。
「…………」
いまだ靄がかかったような意識のなかで、アレクシオスはゆっくりと両目を開く。
いま、目覚めたばかりのアレクシオスの目に飛び込んできたのは、四方からせり出したごつごつとした岩壁だった。
どこからか地下水が滲出しているのだろう。岩壁は床といわず天井といわずしっとりと濡れそぼち、空間は肌寒いほどの冷気に満たされている。
ほとんど無意識に手足を動かそうとして、アレクシオスは四肢の自由が利かないことに気づく。
はっとして視線を向ければ、手も足も深々と岩壁にめり込んでいる。
両手足を拘束する岩の
おそらく、すさまじい膂力で岩壁を穿ち、さらに力を加えてねじ曲げることで、岩壁そのものを強固な拘束具へと変えたのだろう。
そんな芸当が出来るのは、
「ヘラクレイオス……」
アレクシオスはあるかなきかの小声でその名を呟く。
あのとき、アレクシオスはヘラクレイオスを追って空の裂け目に飛び込んだ。
裂け目をくぐった瞬間、まばゆい閃光に包まれたことは辛うじて覚えているが、そこからさきの記憶はすっかり欠け落ちている。
それからどれくらいの時間が流れたかも定かではない。ほんの数分しか経っていないようにも感じる一方で、数十年の歳月が経過していたとしても不思議はない。
意識を取り戻してなお、時間はすっかり形を失って、模糊として掴みがたいまま
なによりアレクシオスにとって不思議なのは、こうしてふたたび無事に目覚めたということだ。
ヘラクレイオスには自分を生かしておく理由など何ひとつない。
カドライやエリスに至っては、戦場で明確な殺意を向けられたばかりである。あの二人の性格から考えて、自分からのこのこと飛び込んできた敵に情けをかけるとは思えなかった。
あるいは――またしても傀儡として操ろうというのか。
しかし、一度手の内を明かしてしまった以上、最初ほどの効果は望めないはずだった。そのつもりなら、身体の自由を奪っておかないのも不自然ではある。
部屋の片隅にふいに気配が生じたのはそのときだった。
「誰だ……!?」
アレクシオスは気配の方向に顔を向け、険しい声で
視界には虚ろな闇が広がっているだけだ。それでも、そこに何かがいることだけは分かる。
と、アレクシオスの目の前で、空間にほのかな輪郭が浮かび上がった。
ほんの一瞬前まで虚無であったはずの闇は凝結し、またたくまに人の姿形を取る。
灯りひとつない部屋に立ち現れたのは、あどけなさを残す少女だ。
歳は十五に満たないだろう。膝までとどく薄青色の髪と仄白い肌が目を引く。
たしかにそこに存在してるにもかかわらず、目を離せばすっと消えてしまいそうな儚さを漂わせる少女であった。
「何者だ……?」
アレクシオスは少女を見据えたまま、あらためて問いかける。
少女は答えない。薄い灰色の瞳をアレクシオスに向け、ただそこに佇んでいるだけだ。
「……奴らの仲間か?」
こくり――と、少女は首を縦に振った。
「私……アイリス……」
少女の唇がわずかに動き、訥々と言葉を紡いでいく。
拙い話しぶりは、生来のものか、それとも単純に人との会話に慣れていないだけか。
だが、いまのアレクシオスにとって重要なのはそこではない。会話が出来るならそれで十分だった。
「おれをどうするつもりだ。言っておくが、人質として使おうと思っているなら無駄なことだ。殺すつもりなら、ひと思いに殺せ」
「ちがう……」
「なにが違う!?」
言いよどむアイリスに、アレクシオスはおもわず声を荒げる。
語気強く詰問されても、アイリスは怯えるでもなく、まっすぐにアレクシオスを見つめ返すだけだ。
「あなた……殺さないように……頼んだ」
「頼んだ? 誰にだ?」
「……みんな……」
アイリスはそれだけ言うと、可憐な唇を真一文字に結ぶ。
ここに至って、アレクシオスはようやく理解した。
目の前の少女は、本当なら殺されるはずだった自分を助けたのだ。敵であることは変わらないにせよ、それはまぎれもない事実であった。
アレクシオスはひと呼吸置いてみずからを落ち着かせると、ふたたび問うた。
「おまえ――アイリスと言ったな。なぜ奴らに協力している? 『帝国』に逆らう理由があるのか?」
「……分からない」
アイリスはふるふると首を横に振る。
「すべて……ヘラクレイオス……決めたこと……」
「奴の命令で動いている、ということか?」
やはりちいさく首肯したアイリスに、アレクシオスはゆっくりと言い含めるように言葉を継いでいく。
「奴が恐ろしいのは分かる。だが、奴らのしていることは間違っている。おなじ
「……出来ない」
「なぜだ?」
「私……ヘラクレイオス……離れて生きられない……」
アイリスはいったん言葉を切る。わずかな沈黙が流れた。
「私の……すべて……だから」
少女がぽつりぽつりと口にした言葉に、アレクシオスははっと息を呑んだ。
暴力と恐怖によって強制されたのでもなければ、自分から進んで協力している訳でもない。
どんなときもそばにいること――。
たとえ悪と知っていても、同じ道を歩むこと――。
アイリスを動かしている感情は、アレクシオスにはよく理解出来る。
悪しき者が絆や愛情といった感情を持ち合わせていないと考えるのは、あまりにも浅はかだ。人間とおなじ心を持つ
考えてもみれば、自分は偶然にも『帝国』の側に立っているだけにすぎない。
もし愛する者が国家と敵対する道を選んだなら、アレクシオスもやはり同じ道を進んでいたはずだ。
たとえ世界のすべてを敵に回しても守るべきものがあるということも、また。
そんな決意がアイリスを動かしているなら、どれほど言葉を尽くしたところで翻意させることは出来ない。
「……それでも、おまえたちを許す訳にはいかない。おれはこの国を、人間を守りたい。たとえ勝てないとしても、おれは生命あるかぎり戦うつもりだ」
アレクシオスは俯いたまま、まるで独り言みたいに言った。
ふたたび顔を上げたときには、アイリスの姿は忽然と消え失せていた。
その姿を探そうと顔を動かしたとき、頭上で奇妙な音が生じた。
天井の一部が横にずれ、薄明かりが空間に差し込んだのは、次の瞬間だった。
***
アレクシオスは突如として開いた出入り口をじっと見つめる。
ややあって、するすると縄梯子が投げられたかと思うと、不揃いな人影が三人ばかり空間に降りてきた。
全員が白いローブを身にまとっている。身体を飾る見慣れない装身具の数々と、おごそかな足運びは、さしずめ異教の神官とでも言うべき森厳な雰囲気を漂わせている。
最後に縄梯子を下ってきたのは、ひときわ小柄な人影だった。
他の三人に較べると、頭二つほど小さい。背丈はほとんど子供と言っていいだろう。
ローブを身に着けているのはおなじだが、白地に差し込まれたあざやかな赤と青の
「お目覚めのようだね――アレクシオス」
小柄な一人は先頭に進み出ると、アレクシオスに声を掛けた。
場違いなほど明るい声であった。
顔をフードに覆われていることもあって、声だけでは性別すら判然としない。
「おれの名前を知っているのか?」
「もちろんだよ。名前だけじゃない。君のことはなんでも知っているとも」
剽気たように言って、小柄なローブ姿はしきりに頷いてみせる。
「自己紹介が遅れたね。僕はナギド・ミシュメレト――」
「……貴様の名前などどうでもいい。それより、おれのことを知っているとはどういう意味だ」
「つれないなあ。僕は君と友だちになりにきたんだよ、アレクシオス。友達になろうという相手のことを知っているのは当たり前じゃないか」
ナギドは身動きの取れないアレクシオスに歩み寄ると、息がふれあいそうな距離にまで顔を近づける。
フードのあわいから片目がちらと覗く。琥珀色のつぶらな瞳は、じっと見つめていると、そのまま吸い込まれそうな魔性を宿している。
「君たちのことはラベトゥルから聞いている。ああ、君にとっては彼の名前は初耳かもしれないけれどね。ほら、パラエストゥムで元老院議長の近くにいた仮面の男を知っているだろう?」
「奴も貴様らの仲間だったのか!?」
「そのとおり――彼は僕たちの命令を受けて動いていたのだからね」
ナギドは顔を離すと、軽やかにローブの裾を翻しながら、その場でくるりと回ってみせる。
「彼のことは残念だったけれど、最後に有益な情報をもたらしてくれた。おかげで君たち
「……何が言いたい」
「僕の仲間になってくれないか、アレクシオス。この汚れきった『
「そんな話にやすやすと乗るとでも思ったのか? 誰が貴様などに――」
「ヘラクレイオスたちは僕に力を貸してくれているよ」
こともなげに言ってのけたナギドに、アレクシオスはそれきり二の句が継げなくなった。
「バカな――」
「嘘じゃないさ。彼らと僕とは協力関係にある。今のところは……だけどね」
「どうやって奴を従わせた!? 貴様は何者だ?」
「アレクシオス、君はあまり人の話を聞いていないね。僕はべつに彼の主人になった訳じゃない。お互いにとって都合がいいから協力しているだけだよ」
ナギドは教え諭すように言うと、ふたたびアレクシオスの顔を覗き込む。
「僕も彼らもこの『
ナギドはアレクシオスの頬に手を当てると、そのままついと滑らせる。
顔から首筋へと、細い指が少年の輪郭をなぞっていく。愛撫にも似た執拗な手つきに嫌悪がこみ上げても、アレクシオスはどうすることも出来ない。
「お前は……お前たちは、いったい……」
「”
ナギドが口にしたその言葉に、アレクシオスはおおきく目を見開いていた。
忘れるはずもない。それは、あのとき、ラベトゥルが最期に遺した言葉であった。
ヴィサリオンやラフィカも知らなかったその言葉を起点として、それまで点として認識していた数々の事件が次々に線で結ばれていく。
「まさか……アザリドゥスが挙兵したのも、貴様らの……」
「察しがいいね。君たちのおかげでヴラフォス城は陥落させられてしまったけれど、時間稼ぎの役目は十分に果たしてくれたよ」
「ヘラクレイオスが帝都を襲撃したのも、すべて貴様が仕組んだことか!?」
「もちろん――」
ナギドはアレクシオスの顔から手を離すと、いかにも得意げに言ってみせる。
「アザリドゥスが君たちを引きつけているあいだに、ヘラクレイオスたちが即位したての新皇帝ルシウス・アエミリウスを殺す。……なかなか凝った趣向だっただろう?」
「だが、その企てはすべて失敗した。貴様らの敗けだ」
「僕は上出来だと思っているよ。生きている皇帝は殺せなかったけれど、死んだ皇帝を殺すことは出来た」
「……どういう意味だ」
「君たちがヘラクレイオスと戦っているあいだに、僕らの仲間が興祖皇帝の墓所に火を放ったのさ。かつての英雄を祀る神殿はただの焼け跡になった。『帝国』は必死で隠そうとするだろうけど、もう手遅れだ。人の口に戸は立てられないと言うだろう?」
アレクシオスはすっかり血の気の引いた顔でナギドを見つめている。
何かを言おうにも、あまりの衝撃に言葉が出てこないのだ。
『帝国』の東西分裂後、初めて東方で即位した興祖皇帝は、『東』の歴代王朝において、ほとんど神にも等しい存在として位置づけられている。崇拝の度合いは時代が下るごとにはなはだしくなり、現在では東西両『帝国』共通の開祖である太祖皇帝をも凌ぐほどになっている。
その理由は明白だった。
東方の諸民族を統合し、さらには西方人の皇帝による支配を正当化するための偶像としての意味合いを見出されたためだ。
その霊魂を祀る神殿が何者かによって焼かれたとなれば、国家への影響は計り知れない。
いまはまだ知られていなくても、噂はいずれ全国に伝播する。そうなれば、有形無形の影響が生じることは避けられない。
「驚くのはまだ早い。まだお楽しみは始まったばかりだよ。これからこの国はどんどん壊れていく。人も大勢死ぬだろうねえ。天も地も人も乱れ乱れて、そして
ナギドはほとんど歌うような調子でアレクシオスに語りかける。
「君にはとびきりの特等席でその様子を見せてあげるよ――アレクシオス」
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