第二部
第128話 すべての終わりを告げるもの
かすかな灯りがまるく闇をやわらげた。
石壁にかかった蝋燭の火に照らし出されたのは、無数の顔だ。
少なく見積もって五百人は下らないだろう。
人々は互いに肩を寄せあい、決して広いとは言えない室内にひしめいている。
年齢も性別もまるでちぐはぐな集団であった。
十歳にも満たない子供もいれば、八十歳ちかい老人もいる。
野良着姿の農夫やさまざまな分野の職工人、さらには素肌にぼろを羽織っただけの物乞いまで、およそ統一感とは無縁の人の群れ。
この場にいる人間に共通点があるとすれば、全員が東方人だということだけだろう。
肌の濃淡、髪の色の差こそあれ、『帝国』において西方人と見なされる者は一人として見当たらない。
それにしても、奇妙であった。
これだけの人数が詰めかけているにもかかわらず、室内は寂然と静まりかえっている。
話し声はおろか、
誰もが一様に顔を伏せ、まぶたと唇を固く閉ざし、じっと息を殺している。老若男女の別を問わず、まるでたったひとりで無人の野に佇んでいるみたいに沈黙している様子は、異様といえばあまりにも異様だった。
身じろぎもせず、彼らはただ一心にその時が訪れるのを待ちわびているのだ。
ふいに涼やかな風が吹き抜けていった。
一瞬のちには消え失せるはずだった風の音は、そのまま透明な声へと変じた。
「英雄の話をしよう――」
溌剌としたよく通る声であった。
どこまでも透き通った声音は、まだ声変わりを迎えていない少年か、あるいは年若い少女に特有のものだ。それでいて、どこか老成した重みを帯びているのは不可思議でもある。
朗々たる声は薄暗い室内の隅々まで響きわたり、この場に居合わせたすべての人間に等しく降り注いでいく。
「むかし、一人の男がいた。
卑劣な裏切りによって故郷を
相変わらず姿を見せないまま、声はよどみなく語り続ける。
「そこで彼は見た――
家畜のように虐げられ、生きる
彼は聞いた――
天地に溢れた
涼風のようだった声にわずかに激情の色が混じりはじめた。
「そして、彼は人々に誓った。
みずからの手で忌まわしい支配の鎖を断ち切り、失われた誇りと希望を取り戻してみせる――と。
人々は彼の言葉を、彼の掲げた理想を信じた。
おびただしい血が大河を赤く染め上げ、大地のいたるところに屍の山が築かれた。
それでも、人々は彼に従い、けっして戦うことを止めようとはしなかった」
熱っぽく語っていた声が途切れると、薄暗い室内に
「……長い戦いのすえに、彼は勝利した。
数知れない犠牲と引き換えに生まれた新たな王国は、すべての人間に福音をもたらすはずだった。
彼が人々と交わした約束が守られたなら、彼の王国は永遠の繁栄を享受しただろう」
ふたたび語りはじめた声には、一瞬前までの熱はすっかり失われている。
冷えきった言葉の一つひとつが刃の鋭さを帯びて、聞く者の心にじわじわと食い込んでいく。
「しかし、この地上に
英雄の偉業も、いつかは朽ちる。
どれほど高邁な理想も、やがて堕落する――」
いつのまにか声は聴衆のあいだから聞こえるようになっていた。
蝋燭の薄明かりが白いローブを浮き上がらせる。声に合わせてすこしずつ前へと進んでいくその姿は、どこか人ならざる存在のようでもある。
「千年の夢は終わった。
英雄の志は失われた。
理想なき王国は、どれほど上辺を壮麗に飾り立てても、すでに廃墟とおなじ……」
ローブに包まれた両手が大きく開かれるのに合わせて、声はまたしても熱を帯びる。
「偽りの王国がなおも地上に君臨するというなら、滅ぼさねばならない」
無言で傾聴していた人々のあいだから次々に感嘆の声が漏れた。
べつに彼らもみずからの意思で沈黙を破ろうとした訳ではない。無意識のうちに声にならない声が唇を割っていたのだ。それほどまでに心を揺さぶられている証左であった。
「我ら、
始めはささやくようだった歓呼の声は燎原の火みたいに広がり、人々が興奮に包まれるまでにさほどの時間はかからなかった。
歓喜とも怒りともつかない雄叫びがそこかしこで上がる。声に導かれるまま、それまで胸の奥底に秘めていたものが堰を切って溢れ出したようであった。
と、ローブの右腕が上がった。
「そのまえに、我々は選別をしなければならない。同志に値する者と、そうでない者とを見極めなければならない」
まっすぐに伸びた腕が指し示したさきに、五百人分の視線が集中する。
そこにいたのは一人の若い男であった。服装を見るに、どうやら鍛冶職人らしい。
黒い肌にはいくつも大粒の汗の玉が浮かび、肩は小刻み震えている。
「君の心はここにはない――そうだろう? 偽りの王国に忠誠を誓う者よ」
「な……なにを根拠にそのようなことを仰せられるのか!?」
「裏切り者かどうかは、手を見れば分かる」
すかさず周囲の人間が男を押さえ込み、力ずくで袖をまくりあげる。
肘まであらわになった両腕を見下ろして、ローブ姿は冷ややかに言い放った。
「きれいな手をしている。火ぶくれも火傷の跡もない。こんな手をした鍛冶屋など国じゅうを探しても見つからないだろう。本物の鍛冶屋ならば……ね」
くぐもった叫び声が上がったのはその瞬間だった。
力任せに拘束を振りほどいた男は、懐に隠していた短刀を抜くと、白いローブの胸に突き立てたのだった。
純白のローブにみるみる赤い染みが広がっていく。うめき声を上げる暇もなく崩折れた身体を押しのけて、男はどよもす群衆にむかって大喝する。
「全員そこを動くな!!」
眼光鋭く周囲を睨めつける男の顔には、もはや怯えは見当たらない。
いつのまにか男の顔つきは気弱な鍛冶職人ではなく、みずからの任務に忠実たらんとする軍人のそれへと変わっていた。
「私は辺境軍からお前たちの内偵を命じられている。こうなっては、もはや隠す必要もない。『帝国』と皇帝陛下への反逆の罪状により、お前たちを逮捕する!!」
男は短刀を構えたまま、威圧するように一歩を踏み出す。それにあわせて周囲の人の輪が大きく広がっていく。
武器を携えているとはいえ、これだけの人数とまともに戦えば、当然男に勝ち目はない。
だが、
この上は、たとえ逆上した群衆に八つ裂きにされようと、軍人として悔いはない。死の危険は承知の上で臨んだ任務なのだ。
聞こえるはずのない声が聞こえたのは、その瞬間だった。
「へえ――それは立派なことだね」
男はとっさに横たわるローブ姿に視線を落とす。
白いローブは依然として血に染まったまま、ぴくりとも動かない。
ならば、いま聞こえているこの声はなんだというのか。むろん幻聴などではない。
狼狽を隠しきれない男に向かって、声はなおも続ける。
「何度でも殺すがいいさ。もっとも、いくら頑張っても、君には決して出来ないだろうけれど――」
「バカな……たしかに貴様は、この手で……」
「君たちに僕は絶対に殺せないからだよ」
嘲るように言って、声はからからと剽気た笑い声を立てる。
男はよろめくように数歩ばかり後じさった直後、背中に熱いものを感じた。
それが痛みだと理解したのは、鋭利な剣先が胴体を貫いたあとだった。
いつのまにか背後に回られていた。そのことにさえ気づかないほど、男の
血を吐きながら膝を折った男は、焦点の定まらない目で虚空に問いかける。
「お、おまえは……いったい……?」
「――僕の名はナギド・ミシュメレト。ゼーロータイの指導者、そして……」
いままさに死にゆく者の耳に、その声ははたして届いたかどうか。
「この欺瞞と虚飾に満ちた『
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