第127話 信頼と決意

「……なんで止めなかったのよ」


 イセリアは無事な左手でオルフェウスの肩を掴み、静かに詰問する。

 さほど語気を荒げている訳でもない。肩にかかった指に力を込めている訳でもない。

 だからこそ、オルフェウスにとっては余計につらくもある。

 いっそ力任せに襟首を掴まれ、感情に任せて怒鳴りつけられたほうがどんなによかったか。

 息が触れ合うほどに顔を近づけた二人の少女のあいだを満たすのは、あくまで静かな緊張であった。


 ヘラクレイオスを筆頭とする五騎士による帝都襲撃事件から、すでに一日あまりが経過している。


 ようやく帝都に帰還したイセリアを待ち受けていたのは、戦いの最中にアレクシオスが行方知れずになったという予想外の知らせだった。

 そしていま、騎士庁ストラテギオンの詰め所に戻ったイセリアは、その場に居合わせたオルフェウスに詳しい事情を問いただしているところであった。


「ごめん――」 

「ごめんじゃないわよ。あんた、近くにいたならアレクシオスを止められたはずでしょ。まさかボーッと見てたなんて言わないでしょうね?」

「それは……」


 オルフェウスは相変わらず美しくも表情に乏しいかんばせを深く俯かせ、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。


「何も出来なかった。止めようと思ったときには、もうアレクシオスは……」

「ふうん……それがあんたの言い分ってわけ?」

「……ごめんね」


 イセリアはオルフェウスを突き飛ばすように手を離すと、


「何を勘違いしてるか知らないけど、あたしはべつにあんたに謝ってほしくなんてないわ。あんたが自分の失敗を取り繕えるほど器用じゃないことはよく知ってるし、動けなかったのも嘘じゃないんでしょう」


 ついと背を向け、努めてぶっきらぼうに言い放つ。


「それに、アレクシオスならきっと大丈夫。あたしは無事だって信じてるわ。あんたもそう思うでしょ?」


 イセリアに水を向けられて、オルフェウスはこくりとちいさく首肯する。

 先ほどまであたりを覆っていた剣呑な雰囲気はすっかり霧消している。入れ替わるみたいに二人のあいだに芽生えたのは、同じ思いを共有する者同士のたしかな信頼であった。


「もちろんあたしたちだって手をこまねいてるつもりはないけど。アレクシオスの行方が分かったら、すぐ助けに行くわよ。――エウフロシュネー!!」


 イセリアの声に呼応するように、扉の影から小柄な影が音もなく進み出た。


「お姉ちゃんたち、お話は終わった? 喧嘩になったらどうしようかと思ったけど、大丈夫そうだね」

「生意気言ってんじゃないの。あんたに心配されなくてもそのくらい弁えてるわよ」

「そうそう、いまは片腕なんだし、喧嘩しても勝ち目ないもんね」

「あんた、お仕置きされたいわけ? 片手でもあたしのはとびきり痛いわよ!!」


 イセリアは凄んでみせるが、実際に手を出すことはない。

 先の戦いではエウフロシュネーに助けられたということもある。もしイセリア一人だけで戦っていたなら、いまここに立ってはいられなかったはずだ。


「そういえば、あの二人はどうなったのよ?」

「タレイアお姉ちゃんとアグライアお姉ちゃんがついてるから心配ないよ」

「あっそ。あいつら、また裏切らなければいいけど」


 ラケルとレヴィは、イセリアとエウフロシュネーに伴われて帝都に連行されたのち、最も警備厳重な監獄に収容されている。高い塀も鉄檻も戎装騎士ストラティオテスの前にはなんらの意味を持たないが、二人の姉妹騎士がつきっきりで監視に当たっているなら話は別であった。双方ともにいまだ戦いの傷は癒えていないが、だからこそ脱走の愚を犯す可能性はかぎりなく低い。

 問題は二人の今後だ。

 ヘラクレイオスに脅されたという理由はあるにせよ、『帝国』を裏切ったことに変わりはない。

 軍法に則れば死刑が妥当だが、法とはあくまで人間を裁くためのものである。戎装騎士ストラティオテスが法の庭に上がった例はなく、また、人間の力が及ばない存在にいかにして死刑を執行するかという問題もある。

 結局、今回の一件が解決するまで、二人の処分はいったん棚上げという形に落ち着いたのだった。


 イセリアはちらとオルフェウスを見やる。

 処刑人としてはこれ以上ないほど好適だろうが、多少なりともオルフェウスの性格を知る者であれば、そのような役目を負わせようとは思わないはずだ。もしそのような命令が下ったなら、むろんイセリアも反対に回るつもりだった。


 と、ふいに廊下を駆けてくる足音が生じた。

 背後の扉が勢いよく開いたのは、それから数秒と経たないうちであった。


「遅くなって申し訳ありません――」


 ヴィサリオンはほとんど転がるように部屋に飛び込んできた。

 ここまでの道のりを全力疾走してきたためだろう。一見すると女と見紛う顔には汗の玉がいくつも浮かび、ほっそりとした肩は苦しげに上下している。

 そんな青年の姿を見て、イセリアはわざとらしくため息をついてみせる。


「ちょっと時間かかりすぎじゃない? あの後、すぐあたしたちを追いかけてきたんでしょ。もうとっくに着いててもおかしくないと思ったけど」

「ええ……もちろんです。私としても出来るかぎり急いだのですが、道中で何度も足止めを食らってしまい……」

「足止め?」


 訝しげに問うたイセリアに、ヴィサリオンは何度もうなずいてみせる。


「じつはいま、中央軍があちこちで街道を封鎖して取り調べを行っているのです」

「なによ、それ? バッカみたい。敵が引き上げていってからそんなことしたって何の意味もないじゃない」

「それが、どうやら原因は別にあるようでして……」


 ヴィサリオンはふいに声を潜めた。

 口にするのも憚られることを話すとき、人は誰しも小声になるものだ。


「……昨夜、興祖皇帝の陵墓みささぎが何者かに焼き払われたのです」


***


 同時刻、帝城宮バシレイオン――。


 襲撃から一夜明けた玉座の間には、依然として鬱然とした雰囲気がわだかまっている。

 理由は明白であった。

 広間に所狭しと集った文武の高官たちの顔は、みな一様に暗く沈んでいる。

 暗暗たる無数の視線を一身に浴びながら、若き皇帝はいささかも動じることなく、あくまで泰然と配下を睥睨している。


「かしこくも皇帝陛下に申し上げます――」


 恭しく頭を垂れ、つつと進み出たのは、白髯と蓄えた初老の男だ。

 文官の最高位である尚書令マギストロスであった。軍権を預かる大司馬とともに、皇帝に直接上奏する権限を持つ数少ない重臣の一人でもある。

 尚書令マギストロスは大きく胸をそらし、朗々と言葉を継いでいく。


「此度の一件は、『帝国インペリウム』建国以来の重大事にございます。太祖皇帝の御世から現在まで、栄光ある国家の威信がかように貶められた先蹤はなく……」

「前置きはそこまでにしておけ」

「は――」


 ルシウスが口にした予想外の言葉に、尚書令マギストロスは目を白黒させる。

 皇帝といえども、臣下の上奏が終わるまでは傾聴するのが暗黙の了解だ。

 まだ三十にもならない青年皇帝は、そんな慣例をこともなげに破ってのけたのだった。


「余の前でまわりくどい言い回しは無用である。目下の問題を手短に述べるがいい」 


 尚書令マギストロスはごくりとつばを飲むと、ままよとばかりに声を張り上げる。


「昨夜、興祖皇帝陵に侵入した賊が放った火によって神殿は焼け落ち、貴重な品々を収めた宝物殿も跡形もなく焼亡いたしました。再建の目途は一向に立っておらず……」

「それは承知している――余は問題を申せと言ったはずだ」

戎装騎士ストラティオテスの反乱に続いて、皇帝陵までもが焼かれたのですぞ。これ以上の暴挙を許せば、『帝国』の威信は取り返しがつかないほどに失墜いたします。陛下の御宸襟を安んじるためにも、どうか国家を挙げての賊徒討伐をご下命いただきたく――」

「そなたに余の心を代弁することを許した覚えはない」


 あっけにとられた様子の尚書令マギストロスを見下ろしながら、ルシウスはなおも続ける。


「討伐軍を編成する必要はない。中央軍は通常どおり、各州の辺境軍には管轄内の動向に十分警戒するよう通達するだけでよい」

「しかし、それでは、またしても同様の事件が……」

「そなたには敵の思惑がまだ分からぬか?」


 ルシウスは瞼を閉じると、深く息を吸い込む。


「敵の真の狙いは揺さぶりをかけ、我らを浮足立たせることにある。アザリドゥスの籠城、五人の戎装騎士の裏切り、そして皇帝陵への放火――すべてが無関係に起こったとは思えぬ。偶然にしてはあまりにも出来すぎている。おそらくは裏で糸を引いている者がいるはずだ」

「陛下、もしやお心当たりが……」

「余もそこまでは分からぬ。だが、ここで我らが迂闊な動きを見せれば、それだけ敵を喜ばせることになるのは確かであろう」


 ルシウスは並み居る高官たちをひとしきり見渡すと、


「余としても我が先祖に加えられた暴虐は看過出来ぬ。しかし、一時いっときの感情に任せて軽挙に出ることもまた、先祖に対する裏切りとなろう。余は皇帝として、私情を殺し、国家と民の利益のために判断を下さねばならぬ」


 やおら玉座を立ち、広間全体に響きわたるような声で高らかに宣言する。


「以後の対応は、余みずから必要に応じて指示する。そなたらは動じることなく、おのおの職責を果たせ――」


*** 


 玉座の間を退出し、近衛兵に守られながら渡り廊下を進んでいたルシウスは、ふいに足を止めた。


 前方からまっすぐに近づいてくる人影を認めたためだ。

 十メートルほど前方で跪く姿は、よもや見間違えるはずもない。

 それでも、ほんの数ヶ月前、次期皇帝の座をめぐって熾烈な争いを繰り広げた相手は、心なしかひと回りも縮んでみえた。他を圧倒するような覇気はすっかり影を潜めている。


「元老院議長――」


 ルシウスはちいさく呟くと、近衛兵にしばしこの場に留まるように命じる。


「お久しゅうございます。皇帝陛下」

「元老院議長こそ、つつがなく過ごされているようでなにより」

「なんの。すべては陛下のご厚情があればこそ……」


 ルシウスとデキムスは互いに目配せをすると、渡り廊下から中庭に出る。

 駆け寄ろうとする近衛兵を制しつつ、ルシウスはあくまで前方に視線を向けたまま、デキムスに語りかける。


「……それで、余に何の用件か? まさか世間話をしにきたのではあるまい」

「無論だ」


 どこか冗談めかして言うルシウスに、デキムスはきっぱりと断言する。


「儂は近いうちに元老院議長を退任するつもりだ。その前に、どうしてもやっておかねばならぬことがある」

「ほう?」

「新皇帝のために最後の一働きをしてやろうというのだ」


 デキムスはにこりともせずに言うと、ルシウスの顔をまじまじと見つめる。


「皇帝に即位してからというもの、敵を作りすぎていることに気付いているか。言うことは正しくても、やり方が無遠慮にすぎる。歯に衣着せぬがゆえに、買わずともよい恨みと反感を買うことになる……」

「元老院議長、余を案じてくれているのか。そなたの口からそのような言葉を聞くことになるとは思ってもみなかったぞ」

「せめてエンリクスを助けてくれた恩に報いたいと思ったまでのことだ」


 その名を口にした瞬間、デキムスの声にわずかに懐かしむような響きが混じった。海を隔てた地で暮らす最愛の孫を思い浮かべたとき、辣腕を恐れられた老政治家は、一人の祖父に戻る。


「今回の一件、おそらくすんなりと終わりはすまい。ことによっては予想外の大乱に繋がることも十分にありうる。才覚だけで乗り切れるものではないぞ……ルシウス・アエミリウス」

「ならば、どうせよと言うのだ? 叔父上――」

「臣下との折衝は儂が引き受ける。権勢は衰えたりといえども、元老院議長として築き上げたものが無に帰した訳ではないからな」


 デキムスはルシウスの肩に手を置くと、深くうなずく。


「誰におもねることなく、常に正しい道を選べ。それが皇帝の役目だ。臣下の反発や摩擦を恐れる必要はない。それは儂がすべて引き受ける」

「しかし、それでは叔父上が危うかろう」

「どうせ去りゆく身なら、悪名も怨嗟も背負っていくまでのことだ」


 言って、デキムスは破顔大笑してみせる。

 まつりごとの世界は、虚偽と謀略と詐術とが入り乱れる魔境だ。きらびやかな宮廷の陰では、いつの時代もおそろしい毒の花が咲き乱れている。誰よりもその内実を知悉しているからこそ、デキムスはあえて毒を喰らい、若き皇帝を守る盾になろうとしているのだった。

 たとえその先に悲劇的な破滅が待ち受けているとしても、デキムスにはもはや何の悔悟もない。

 ルシウスに大きな借りを作ったまま天寿を全うするよりは、いっそ凶刃に倒れたほうがよほど悔いなく逝けるというものだ。


「ならば、そなたに任せるとしよう――よしなに取り計らえ。

「謹んで拝命いたします――


 深々と一礼して、デキムスは元きた方角へと引き返していく。


 すこしずつ小さくなっていく背中を見送りながら、ルシウスの思考は、すでに次の戦略を描きはじめていた。

 感傷に囚われている暇はない。


 皇帝として最初の戦いはもう始まっている。

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