第126話 虹の名を持つもの

「おれは、なにを――」


 アレクシオスはいまにも消え入りそうな声で呟いた。

 エリスの支配からは脱したものの、身体はまだ重く、自分のものではないように感じられる。

 それも無理からぬことだ。

 強制的に外部から乗っ取られた神経伝達システムはずたずたに引き裂かれ、本調子にはほど遠い。修復にはもうしばらく時間を要するはずであった。

 思うに任せない身体に鞭打って、アレクシオスは川の中からゆっくりと身を起こす。

 無貌の面に流れる赤光は、少年の心情を表すように不規則に揺れている。


「オルフェウス……まさか、おれは……」

「大丈夫――」


 震える声で問うたアレクシオスに、オルフェウスはただ首を横に振る。

 先ほどの戦いで体力を使い果たした真紅の騎士は、力なく水の流れにへたり込んでいる。


「もう、何も心配いらないから」


 相変わらず抑揚に乏しく、無感情な声であった。

 ともすれば突き放しているようにも聞こえる少女の言葉に、アレクシオスはほとんど胸が詰まりそうになる。訥々と紡がれた言葉の裏に隠された優しさと気遣いを汲み取ったがゆえであった。

 アレクシオスがオルフェウスを抱き起こそうとしたとき、背後からふいに声がかかった。


「てめえら、戦場でイチャつくのもそこまでにしとくんだな」


 カドライは川の中州に立ったまま、アレクシオスとオルフェウスを睨めつけている。


「俺とエリスの姐御はまだ戦えるんだぜ。てめえらの頼みのオルフェウスはもう使い物にならねえ。さあて――どっちから料理してやろうか」


 橙色オレンジの装甲がにわかに輝きを増したのは、嗜虐の愉悦に打ち震えているためだ。生粋の加虐嗜好者サディストであるカドライにとって、獲物が増えれば、それだけ快楽も倍加する。


 エリスもすでに糸の呪縛を断ち切られた衝撃から立ち直っている。

 アレクシオスの神経はひどく傷つき、ふたたび身体を乗っ取ることは不可能だ。

 それで何の問題もなかった。

 すでに傀儡としての役目は十分に果たしている。この上はオルフェウスともども抹殺すればいいだけだ。傷ついた二騎を葬り去る程度、エリスにとっては造作もない。


「アレクシオス――」

「ここはおれに任せてくれ」


 無理を押して立ち上がろうとするオルフェウスを片手で制すると、アレクシオスはエリスとカドライにむかって一歩を踏み出した。

 少女を庇うように立った黒騎士に、カドライはあけすけな嘲笑を叩きつける。


「いったいなんの冗談だ? 雑魚が……女の前で粋がってんじゃねえぞ」

「もう貴様らの思う通りにはさせない」

「そうかい――だったら、お望みどおりてめえから殺してやるよ!!」


 カドライが飛びかかろうとした瞬間、凄まじい閃光と衝撃が夜気を裂いた。

 わずかに遅れて耳を聾するばかりの轟音が一帯を領する。その発生源が河原だと悟ったとき、カドライは反射的に振り返っていた。


「ヘラクレイオスの兄貴ッ!!」


 中洲から数百メートルの距離を隔てた河原には、もうもうたる黒煙がたちこめている。

 どこを見渡してもヘラクレイオスの姿は見当たらない。

 ほんの数秒前、アグライアの”黄金の剣”が発動したとは知る由もないカドライだが、ただならぬ事態が生じたことだけは分かる。

 まさか――最悪の想像が脳裏をよぎり、橙色の騎士の動きが一瞬停止する。


「カドライ!! 上だ!!」


 エリスの絶叫に大気をつんざく鋭い音が重なった。

 アレクシオスは川のなかから跳躍し、カドライにむかってまっすぐに急降下している。推進器スラスターの噴射炎が夜空に赤く映える。

 気付いたときにはすでに手遅れだ。加速能力を使用出来るほどには回復していないカドライは、回避することもままならず、アレクシオスの飛び蹴りをまともに浴びる格好になった。

 万全の状態に比べると威力は半減しているとはいえ、手痛い一撃であることに変わりはない。


「てめえ――ッ!!」


 心底からの憎悪を込めたカドライの悪罵は、しかし半ばで遮られた。

 アレクシオスが背後から羽交い締めにしたためだ。黒い装甲に覆われた腕はカドライの首をきつく締め上げ、胴体に槍牙カウリオドスの切っ先を押し付けている。

 ほんのすこし力を入れれば、槍牙はやすやすとカドライの生命を奪うだろう。


「……これでもまだ戦いを続けるつもりか?」

「エリスの姐御!! 構わねえ、俺ごとこいつをってくれ!!」


 エリスは構えを取ったまま、身じろぎもせずに二人を見つめる。

 アレクシオスとカドライの身体はぴったりと密着している。いかにエリスの技巧が優れていても、迂闊に攻撃を仕掛ければカドライを巻き込むのは必定だ。

 たとえ本人がそれを望んだとしても、味方もろとも敵を仕留める決断はたやすく下せるものではない。

 対抗してオルフェウスを人質に取ろうにも、糸を飛ばすために腕を動かせば、当然アレクシオスにも勘づかれる。


 ヘラクレイオスの無事も判然としない以上、カドライを失えばエリスは敵中で孤立することになる。いつのまにか自分たちのほうが追い詰められているという事実は、紫の騎士の胸中に少なからぬ動揺をもたらしている。


「退け――そうすればこの男は解放してやる」

「エリスの姐御、なにを迷っているんだ!? こんな奴の言うことを聞く必要はねえ!!」


 吠え立てるカドライを一瞥すると、エリスはだらりと両手を垂らす。

 降伏を意味していることはあきらかであった。


「姐御っ!!」


 エリスは答えなかった。

 アレクシオスとカドライはすでにエリスの眼中から外れている。

 いま紫の騎士が意識を傾けているのは、川のなかで動けずにいるオルフェウスだ。

 指先から伸びた不可視の糸は川底を這い、真紅の騎士の身体めがけて音もなく進んでいく。

 エリスはオルフェウスの体内に糸を侵入させ、あらたな傀儡として支配下に置くつもりであった。

 ほとんど体力を使い果たしているオルフェウスは、むろん戦いの役には立たない。

 それでも、アレクシオスに対する切り札としては十分だ。互いに気遣いあう二人であれば、一方はもう一方に対する最大の弱点になりうる。そのことはエリスもよく知悉している。

 極細の糸にとって、水の抵抗をかいくぐるのは容易ではない。

 流されないように必死に糸を操りながら、エリスは焦りをおくびにも出さないように努めて平静を装う。


「そのままゆっくり下がれ。妙な真似をしたらこいつの生命はない」


 アレクシオスの呼びかけに、エリスはゆっくりと後じさる。

 糸の操縦に全身全霊を傾けたいのはやまやまだが、ここで不審に思われる訳にはいかない。

 傀儡が完成するその瞬間まで、あくまで恭順の意を示しているように見せかけることが肝要なのだ。

 数歩下がったところで、エリスは指先にたしかな手応えを感じた。糸がオルフェウスの身体に到達したのだ。

 装甲の間隙すきまから糸を体内に侵入させ、全身の神経伝達システムを上書きすれば、オルフェウスはエリスの意のままに動くようになる。

 戎装騎士ストラティオテスの身体を操る技術ノウハウは、誰に教わるでもなく、エリスに生来の知識として備わっている。ひとたび体内への侵入を許したが最期、どれほど強悍な騎士だろうとエリスの支配を逃れる術はない。


……そのはずであった。


「――――!!」


 エリスは声にならない絶叫とともに膝を折る。


「なんなの……こいつ……他の騎士ストラティオテスとは、まるで……」


 途切れ途切れに呟く声には、平素の冷静さは見る影もない。

 オルフェウスの神経系に接触した瞬間、エリスは脳髄を灼かれるような苦痛に襲われたのだった。

 糸を通してもたらされたのは、全く未知の神経組織システムの情報だ。エリス自身を含め、既知のいかなる戎装騎士ストラティオテスとも異なっている。

 組織システムの規則性も構造もまるで不明である以上、瞬時の上書きなど出来るはずもない。

 たとえどれほどの時間を費やしたところで、その全貌を解析することは不可能であるように思われた。


 それだけに留まらず、逆流した情報はエリスの神経系を蹂躙しながら全身を駆け巡っていった。血管に焼けた鉛を流し込まれていくような感覚。身体を内側から破壊されていく恐怖は、エリスをパニックに陥れるのに十分だった。

 強制的に糸を切断していなければ、いまごろは騎士の人格を司る中枢を破壊され、生ける屍と化していたにちがいない。


「あんた……いったい何者なの……?」


 エリスは苦しげに喘ぎながら、オルフェウスを見やる。

 オルフェウスは自分の身に何が起こったのか理解していないようだった。川底に座り込んだまま、きょとんとエリスを見つめ返している。


「エリスの姐御!?」

「なんでもない……これ以上は分が悪い。退くよ、カドライ!!」

「だが、まだヘラクレイオスの兄貴が……」


 言いさして、カドライは言葉を切った。

 巨大な気配が近づいてくる。

 大地を踏みしめる重々しい足音は、よもや聞き間違えるはずもない。

 カドライの胸中から不安と焦燥が一掃されていく。

 やはり生きていたのだ。最初から疑ってはいなかったとはいえ、この状況で現れてくれたことへの喜びは並々ならぬものがある。


「ヘラクレイオスの兄貴――――」


 首だけで振り返ろうとして、カドライは一瞬に凍てついたみたいに身体を強張らせる。

 見まごうはずのないその巨体は、しかし、見知った姿形とはかけ離れていた。


「あ、兄貴……その姿は……」


 焼け爛れた灰白色グレーの装甲の下で、赤紫色の閃光が瞬いた。


***


 ヘラクレイオスがアーチ橋の上に現れた瞬間を境として、周囲のなにもかもが重さを増したようであった。

 空気は粘っこく絡みつき、時間の流れさえ緩慢になったように感じられる。あまりに強大な存在の前ではわずかな弛緩さえ許されず、そのために普段は気にも留めない事々をはっきりと認識させられるのだ。


「ヘラクレイオス――」


 アレクシオスは絞り出すようにその名を口にする。

 ここまでの道中、おなじ馬車に乗り合わせていたとはいえ、それは意識がない状態でのことだ。

 敵と味方として対峙するのはこれが初めてであった。最強の騎士を前にして、アレクシオスの胸裡では恐怖と闘志とが激しくせめぎ合っている。


「……カドライ、エリス」


 ヘラクレイオスはアレクシオスには目もくれず、カドライとエリスをそれぞれ瞥見する。


「ここまでだ。戻るぞ」


 常と変わらず重くさびた声で、ヘラクレイオスは二人に撤退を命じたのだった。


「待ってくれ、ヘラクレイオスの兄貴!! 俺はまだ戦える!! エリスの姐御だって……」

「俺の言葉が聞こえなかったのか」

「……っ!!」


 にべもないヘラクレイオスに、カドライは悔しげに俯く。

 自分の意志がどうあれ、この世で最も恐ろしく、誰よりも尊崇する者の言葉に逆らえるはずもない。たとえそれが自死を命じるものであったとしても、カドライは嬉々として従ったはずであった。


「残念だけど、ここまでのようね……」


 エリスは独り言みたいに言うと、カドライに目配せをする。

 神経伝達システムを破壊されたダメージは思いのほか深刻だ。戦闘はおろか、歩くだけでも耐えがたい激痛に苛まれる。外見こそ平素と変わりないが、その実ヘラクレイオスに劣らないほどの深手を負っているのだった。


「私たちはこれで退くわ。約束どおり、カドライを離しなさい」


 エリスに呼びかけられて、アレクシオスははたと我に返ったように拘束を解く。

 反撃を警戒したのも一瞬のことだ。

 カドライは先ほどまでの獰猛さはどこへやら、すっかり忠実な飼い犬みたいにヘラクレイオスに従っている。自身の思いがどうあれ、戦いを中止するよう命じられている以上、カドライとしては従容とそれに従うまでだった。


「覚えていろ。この俺に二度もナメた真似しやがったてめえは、いつか絶対に殺す――」


 去り際、苦々しげにアレクシオスに吐き捨てた言葉は、せめてもの意地であった。


 カドライがエリスの肩を抱いて橋の上に飛んだ直後、奇妙な現象が生起した。

 夜闇に白い線が走ったかと思うと、空間にみるみる亀裂が入りはじめた。あっけに取られたように見つめるアレクシオスの目の前で、亀裂は次第に大きくなり、やがて裂け目となってぽっかりと黒い口を開いた。

 やがて、透明な装甲をまとった異形が裂け目から降り立つのを認めたとき、アレクシオスはほとんど無意識に槍牙を構えていた。

 戎装騎士ストラティオテスであることは間違いない。敵であるなら警戒するのは当然だ。

 それにしても、透き通った装甲の騎士など、見たこともなければ噂を耳にしたこともない。

 玻璃ガラスで形作られたような優婉で繊細な姿形は、およそ戦場には似つかわしくないもののように思われた。


「――アイリス」


 ヘラクレイオスは小さく呟くと、ゆるゆると首を横に振る。


「……なぜここに来た?」

「心配……だから……」


 アイリスは透明な顔貌を不安げに傾げる。

 ヘラクレイオスの怒りを買うことを恐れているのか、それとも自らの懸念が的中したためか。

 あるいは、その両方であるのかもしれなかった。


「怪我……してる……」

「大したことはない」

「迎え……来て……よかった……」


 アイリスは満足げに頷くと、ヘラクレイオスらを裂け目へと案内する。


 爆音が響いたのはその瞬間だった。

 アレクシオスが推進器スラスターを作動させ、中洲から橋の上に飛び移ったのだ。


「待て!! そいつは何者だ? 裏切った五人のうちの一人か!?」


 誰もその問いに答えようとはしない。

 カドライとエリスが裂け目をくぐり、ヘラクレイオスの巨体がその後に続いた。

 裂け目の向こう側はどこに繋がっているのか。いずれの後ろ姿も、まるで紗幕をくぐったみたいに見えなくなった。

 最後にアイリスが裂け目を閉じようとしたとき、予期せぬことが起こった。

 アレクシオスが猛然と突進を仕掛けたのだ。

 轟音に身構えたときには、もう遅い。アイリスの透明な身体が消えるのとほとんど同時に、アレクシオスも裂け目に飛び入っていた。


 やがて空間が閉じると、まるで何事もなかったかのように黒ぐろとした闇があたりを埋めていった。

 無惨に破壊されたアーチ橋の上を川風が渺々と渡っていく。


「アレクシオス――」


 オルフェウスは冷たい川に身を浸したまま、呆然と虚空を見上げ、少年の名前を呟いた。

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