第125話 もうひとりの反逆騎士

 闇に紅が流れた。

 錯覚だ。無色であるはずの大気に色をつけるのは、むせかえるほどの血臭であった。

 遠くで揺れる松明の炎以外に明かりはなく、周囲を見渡すことは容易ではない。

 それでも、石敷きの道のうえで何かが蠢いているのは分かる。

 時おり苦しげなうめき声を漏らしながら、もぞもぞと動いている。


 人間であった。

 それも、一人や二人ではない。石畳の上に転がっている数は、ゆうに五十人を超えるだろう。

 軍服を見れば、いずれも中央軍の兵士たちであることはひと目で分かる。

 そのうち半分近くはぴくりとも動かない。すでに息絶えているのか、もはや身体を動かす精魂も尽き果てたのか。

 どちらにせよ、もう苦しみを味わわずに済むのであれば、半分よりはよほど幸福だ。いまももがいている兵士たちの苦悶に満ちた表情をみれば、十人中十人までもがそのように思うにちがいない。


 奇妙なのは、あたりには血臭が充満しているというのに、石畳の上には血の一滴も落ちていないということだ。

 これだけの数の兵士が一箇所に集っているにもかかわらず、周囲には闘争の形跡は見当たらない。五十人からの兵士たちは、武器を携えたまま、まるで眠りこけたみたいに倒れ伏している。


「――――あっけないものだ」


 声は闇の奥から生じた。

 男の声であった。どこまでも典雅な声色は、笙の音を彷彿させた。


「こんな兵士などいくら揃えたところで、私の前では何の意味もない……」


 ふいに闇のなかに輪郭が浮かび上がった。

 雅やかな声に相応しく、秀麗な容貌の美青年であった。

 切れ長の黒瞳と、肩までかかった艷やかな黒髪。どことなく憂いを帯びた端正な面差しは、見る者の目を引きつけずにはおかない。

 東方人の美形の条件をことごとく備えた青年は、暗闇に咲いた一輪の花みたいに寂然と佇んでいる。

 しなやかな足取りで歩を進めるたび、手にした鈴がちりんと軽妙な音を立てた。


「どんな夢を見ているのかな……?」


 青年は兵士の顎を持ち上げて問うが、むろん返事が帰ってくるはずもない。

 兵士は焦点の合わない目を宙に泳がせ、時おり言葉にならないうわ言を呟くだけだ。

 と、背後に気配が生じたのはそのときだった。


「よう。こっちも済んだかよ」


 青年とは真反対の嗄れ声は、まるで世間話でもするような気安さで語りかけてくる。

 闇のなかから飄然と進み出たのは、一人の老翁であった。

 ヴラフォス城でアレクシオスたちを手引きした老翁だ。先ほどとは打って変わって、腰をまっすぐに伸ばしている。十歳も若返ったように見えるのは、あながち錯覚でもあるまい。

 あのとき見せた好好爺じみた面影は、いまやすっかり消え失せている。

 代わりにその面上にありありと浮かぶのは、血に飢えた凶人の顔貌かおだった。


「しかし、ひでえ臭いだ――内臓はらわたでもぶちまけたかと思ったぜ」

「これは現実うつよの臭いではない。強いて言えば、彼らの魂魄が消え入ろうとしている証とでも思っていただきたい。我々の魂魄が、それを感じ取っているがゆえに、血の臭いを感じるのだ」

「ほお。そういうもんかい」


 気のない返事をする老翁に、青年は鋭い視線を向ける。


「……それで、そちらの首尾は?」

「おお、それだがな」


 老翁は思い出したとでも言うように青年に向き直る。

 そして、皺だらけの顔を自信ありげに歪ませると、


「すべて完璧よ。じきに仕掛けに火が回る。それでわしらの仕事は終わりだ」 

「それは重畳……」

「ところで、アルサリールよ。いつまでもここにいる訳にも行くまい。いつまた増援がくるかも知れんものな」


 老翁の言葉を受けて、アルサリールと呼ばれた青年はこくりと首肯する。


がじきに迎えに来るはずだ。あなたをここに送り届けたときと同じように……」

「早めに迎えに来てくれればいいがなあ」

「噂をすれば、ほら――」


 アルサリールは暗い夜空を指差す。

 濃墨で塗りつぶしたような夜空に、ひとすじ白い線が浮かんでいた。

 そこに何がある訳でもない。夜気に満たされた空間に、白線はで明瞭に浮かび上がっている。


 次の瞬間、白線を起点として、さまざまな形の線が夜空に縦横に走り始めた。

 遠目には空がひび割れているようにみえる。ありえない現象であった。実体を持たないはずのものがどうして「割れる」ことが出来るだろう?

 しかし、夜空には実際に白い破線が引かれ、それは徐々に大きくなっている。

 ひび割れに区切られた夜空は、鱗が剥がれるみたいにぼろぼろと剥離しはじめた。空の断片は、剥がれた途端に、まるでもともと存在していなかったみたいに跡形もなく消失していく。


 ややあって、割れた空の向こうから現れたのは、一体の異形であった。

 かぎりなく透明に近い装甲をまとった異形は、裂け目を通ってゆるゆると降下してくる。

 夜風が吹き抜けていくたび、身体にまとわりついた無数の帯がたなびく。

 装甲と同様に透き通ったそれは、電界発光素子エレクトロ・ルミセンスに似た構造を持っているのか、時おりきらきらと光を散らす。

 その背後で割れた空がひとりでに閉じていくのは、はたしていかなる魔術を用いた結果か。

 事情を知らない者がこの場に居合わせたなら、異界の神がこの世に降臨する場面と錯覚したとしても不思議はない。それほどまでに現実離れした出現であった。


「迎えに……来た――」


 眼下の二人にむかって、異形は少女の声で告げた。

 アルサリールと老翁は驚く様子もなく、透明な異形が降りてくるのを待ち受けている。


「お仕事……もう……終わった?」

「こちらは問題ない」

「ベイドウは――」

「わしが仕損じると思うのか? 老いぼれと思って見くびってもらっては困るぞ」

「それなら……よかった……」


 老翁――ベイドウの答えに、異形は満足したように頷く。


「さあ、それでは行こう。これ以上ここに留まっている必要はない」

「わしも同意見だ。、早いところ頼むぜ」


 二人の言葉に、しかし異形は何も言わなかった。

 俯いたまま、じっと石畳を見つめている。


「どうした?」

「行く……ヘラクレイオスたち……ところ……」

「なぜだ? あいつらに限って、そんな気遣いはいらないだろうに――」

「行かなければいけない……そんな気……する……だから……」


 あくまで頑ななその言葉に、アルサリールとベイドウは互いに顔を見合わせる。


「……行けるのか?」

「まだ……それに……ここから……そんなに遠くない……たぶん大丈夫……」


 アルサリールはほんのすこし考え込むような素振りを見せると、


「それなら、彼らのところに向かうがいいだろう」

「おい――アルサリール、本気か!?」

「もちろん。どのみち彼女がいなければ私たちは帝都盆地ここから出ることも出来ないのだから、ここは彼女の裁量に任せたい」

「仕方がねえなあ」


 ベイドウは呆れたように言うと、長く息を吐いた。


「仕掛けが作動するところを見られんのは面白くないが、こうなったら付き合うしかねえ」

「ありがとう……アルサリール……ベイドウ……」

「よせよ。お互いに『帝国おかみ』に逆らった大罪人同士じゃねえか。水臭いことを言うんじゃねえやい」


 ベイドウはあくまで剽気た様子でからからと笑う。


「とまあ、そういうことだ。よろしく頼むぜ、お嬢ちゃん」


 ふたたび空間に白い線が引かれ、やはりおなじようにひび割れていく。

 一体の異形と二人の男は示し合わせたみたいに進み出ると、そのまま空隙すきまへと消えていった。


***


 闇に朱が差したのは、それから間もなくのことだった。


 ぽつりぽつりと生じた炎は、またたくまに周囲へと燃え広がっていく。

 あかあかと燃えさかる猛火に照らし出されたのは、ゆるやかな稜線を描く丘陵。

 周囲に存在する同様の丘陵と較べてもひと回り巨大なそれは、興祖皇帝の陵墓みささぎであった。

 『東』を建国した偉大なる皇帝の墓所は、いままさに炎に沈もうとしている。

 古帝国様式の白亜の神殿は赤く染め上げられ、荘厳な祭壇はほとんど燃え落ちかかっている。炎はその効力の及ぶものに対して一切の容赦なく牙を剥き、すべてを烏有に帰すべく猛り狂う。

 梁を焼き尽くされた神殿が自重に耐えきれずに崩落するのも時間の問題と思われた。


 いまだかつて、社稷の象徴ともいえる建国者の陵墓に対してこれほどの暴挙が企てられたことはない。

 これだけの非常事態が出来しゅったいしたというのに、皇帝陵の守備を担っているはずの兵士たちの姿はどこにも見当たらないのは不思議であった。


 それも無理からぬことだ。

 炎に包まれた神殿のそこかしこに、黒い影みたいなものが見える。

 不寝番として警護に当たっていた兵士たちであった。

 総数はざっと七十人を下らないだろう。せめてもの幸運と言うべきか、彼らはいずれも火の手に巻かれるまえに息絶えていた。

 つい先刻、ベイドウは誰の助けを借りることもなく、たった一人で兵士たちを全滅に追いやったのだった。


 皇帝陵へと続く道で五十人、そして神殿内部で七十人。

 およそ百二十人の兵士たちは、ベイドウとアルサリールの二人によって全滅に追いやられた格好になる。

 兵士たちはいずれも中央軍の精鋭である。それを赤子の手をひねるように葬り去ったのは、まさに恐るべき手練の技であった。


 しかも、武器を用いなかったアルサリールとは異なり、ベイドウはまぎれもなく武力によって兵士を殺傷している。

 それにもかかわらず、衣服に返り血の一滴も付着していなかったのは、気づかれることなく仕留めていったためだ。ベイドウが最後に残った兵士の前にあえて姿を晒したとき、もはや助けを求めるべき味方は一人も残ってはいなかった。

 そうして兵士を一人残らず排除したあと、ベイドウは神殿の各所に仕掛けを施したのだった。

 時限式の発火装置――。

 内部に仕込まれた砂時計が傾くにつれて、可燃性の薬液がすこしずつ滲出し、やがて激しい炎を噴き上げる。ベイドウが手づから設計した精緻な仕掛けは、絶妙な位置に配置され、神殿を焼き尽くそうとしている。


 別の部隊が駆けつけたときには、すでに炎は皇帝陵全域を覆い尽くし、手に負えないほどに燃え広がったあとだった。

 ただちに犯人の捜索に取り掛かった彼らは、むろん知る由もない。

 この惨状を引き起こした者たちは、何の痕跡も残さずに遠く立ち去っていることを。

 ヘラクレイオスら反逆の五騎士による帝都襲撃と、皇帝陵の破壊計画とが同時に進行していたことも、また――。

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