第130話 古の闇より…

 異変はごくちいさな兆候から始まった。


 発端は数年前――ちょうどイグナティウス帝が病に倒れた頃のことだ。

 その時期を境にして、各地に敷設された街道や橋梁の破損報告、そして官営の鉱山や工廠における事故の発生件数は、日ごとに増加していった。


 一つひとつの被害は微々たるものとはいえ、積もり積もれば各州の財政にも悪影響を及ぼす。

 それらの事故が意図的に仕組まれたものだとは知る由もない地方官吏は、みずからの権限においておざなりに対処するだけだった。

 むろん、上役への報告において可能なかぎり責任の所在をあいまいにし、被害を少なく見せかける努力だけは怠らない。

 ありふれた事故であり、注目に値しない問題であるように装うことが、ゆくゆくは官界での出世を利することになるからだ。それが本当に彼自身に起因するかはさておき、は、とりもなおさずだと見なされるのがこの国の常だった。

 そうした官吏たちの涙ぐましい努力の甲斐あって、州の上層部まで報告が上がるころには、ほとんどの問題は最初から存在しなかったことにされるか、あるいは無視しても構わない瑣末なものとして扱われるようになった。


 やがてルシウス・アエミリウスが次期皇帝として即位するころには、各地における異変はもはや無視出来ない規模に膨れ上がりつつあったが、それでもなお、帝都へと持ち込まれる報告は、およそ実態とはかけ離れたものだった。

 慶祝の時節にふさわしくない――そんな理由から事実はねじ曲げられ、報告書にはさながら新皇帝への祝辞であるかのように口当たりのいい言葉だけが並べ立てられた。

 アザリドゥスによるヴラフォス城の占拠、ヘラクレイオスらによる帝都襲撃、そして何者かによって興祖皇帝の陵墓が焼き尽くされるという一連の大事件が起こった後でさえ、各辺境はあくまで平穏であるかのように見えた。


***


 事件が起こったのは、帝都襲撃事件から数日後の夜のことだった。


 その日、南部辺境でも指折りの商業都市であるアルディメナは、夏の大祭に沸いていた。

 このあたりで最も大規模な祭りということもあり、わざわざ遠方から足を運ぶ者も多い。旅行客や商人がどっと流れ込むことによって、ただでさえ稠密なアルディメナ市内の人口は、祭りの期間を通して平時の三倍にも膨れ上がるのだった。

 人々がこぞって祭りに出かけるなか、小高い丘の上から市街地を睥睨する州行政府庁舎はふだんと変わりなく、五百人からの官吏たちは日々の業務に忙殺されていた。

 やがて夜を迎えると、祭りの熱狂は終息するどころか、ますます過熱していくようであった。そんな市街の喧騒をよそに、庁舎内にはまだ百人ちかい人間が居残って仕事を続けていた。

 官吏の一人が異常に気づいたのは、たまたま息抜きのために上階のベランダに出たときだった。

 眼下を見おろせば、市街地から庁舎へと続く坂道があかあかと照らし出されている。

 長い長い炎の尾が山肌に沿って引かれたような、それはなんとも浮世離れした光景だった。おもわず見とれてしまいそうになるが、山裾から流れてくるきな臭い風は、ただならぬ事態の到来を告げている。


 炎の正体はすぐに知れた。

 松明たいまつを携えた何百人ともしれない民衆が列をなし、庁舎に向かってきているのだ。

 遠目にも祭りの余興や酔客の悪ふざけではないことは分かる。

 庁舎に近づくにつれて、民衆が手にした鉄棒や鍬がはっきりと見て取れるようになった。


 閑静な丘の上に時ならぬ怒号が沸き起こったのは、それからまもなくのことだ。

 門番は必死に民衆を押し止めようとしたが、衆寡敵せず、正門はあっさりと破られた。そのあいだにも民衆は建物の周囲をすっかり包囲し、庁舎は丘の上で孤立する格好になった。

 民衆――否、もはや暴徒と化した一団は雪崩を打って玄関に突入し、酸鼻を極める略奪と破壊がたちまち幕を開けた。

 たまたまアルディメナを訪れていた州牧をはじめ、行政府の主だった顔ぶれはことごとく惨殺された。鈍器で撲殺された者もいれば、生きたまま焼き殺された者もいる。殺されたあと、梟首さらしくびにされた者はざっと五十人は下らないだろう。

 いずれも相手に対する激しい憎悪と怨恨、そして怒りがなければ到底出来るはずのない所業であった。

 かろうじて殺害を免れた下級官吏にも、暴徒による仮借ない私刑リンチが襲いかかった。肉親ですら見分けのつかない姿へと成り果てた彼らは無情に打ち捨てられ、半死半生でうめき苦しむ声が庁舎内を満たしていく。

 金目のものは徹底的に奪い去られ、盗るものがなくなった後は、壁紙まで引き剥がされていった。

 暴徒の乱入から小一時間ほどが経ったころには、瀟洒な西方風建築の庁舎は、ほとんど廃墟同然の様相を呈していた。

 ひたすら衝動の赴くままに破壊を繰り広げた暴徒たちは、いよいよ最後の仕上げに取り掛かったのだった。


 やがて、通報を受けた辺境軍の守備隊が駆けつけたときには、暴徒の姿は忽然と消え失せていた。路上に残った無数の足跡は、大人数が往復したことによって、ほとんど判別できないほどかき乱されている。

 兵士たちの目の前には、ただ炎と黒煙をはげしく噴き上げて燃えさかる庁舎と、おもわず目を覆いたくなるような無残な死体の山だけがある。

 このありさまでは、消火に取り掛かることすら出来ない。なにより、懸命に炎を消し止めたところで、生存者がいるとは思えなかった。

 どこからか陽気な音曲が流れてきたのは、まさにそのときだった。

 東方古来の笛と太鼓が入り混じったそれは、この地方に伝わる祭り囃子の音色だ。

 軽快な音に合わせて踊るみたいに、紅蓮の炎は狂おしく身をくねらせながら、いつまでも黒天を焦がしていた。


***


 アルディメナの事件の急報はただちに帝都にもたらされた。

 『帝国』の地方支配の要である行政府が破壊され、州牧と官吏が惨殺されるなど、およそあってはならない一大事だ。それはこの上なく明確な国家への反逆行為であり、皇帝への反抗にほかならない。

 一連の事件が起こった直後ということもあり、帝都はまるで戦時下のような緊張に包まれていった。


 それから数日と経たないうちに、早馬が次々と帝都の大城門をくぐった。

 南に続いて東・西・北の各辺境から届いた報せは、帝都を震撼させるのに十分だった。

 あの夜、暴徒による襲撃を受けたのは、アルディメナの行政府庁舎だけではなかった。

 同様の事件は、東西南北の四つの大都市で、ほとんど同時に発生していたのだ。

 かろうじて暴徒の鎮圧に成功した北部を除いて、残る三都市で州の官吏が多数殺害され、施設に火を放たれたことも共通している。逃亡した暴徒をまんまと取り逃がしたのもおなじだった。

 北部にしても、首謀者は身柄を拘束されるまえに服毒自殺を遂げていた。残りの者は扇動されただけの農民が大半を占め、有益な情報はついに聞き出せなかったという。

 その後、各地の詳細な被害状況が判明していくにつれて、さらに衝撃的な事実が浮き彫りになった。


 すなわち――。

 暴徒たちは例外なく東方人であり、犠牲者のほとんどは西方人であったということだ。

 たんなる偶然であるはずがない。西方人を標的ターゲットとした組織的な攻撃であることは自明だった。


 それは、興祖皇帝による建国以来、『東』において最も恐れられていた事態がいよいよ現実のものとなったことを意味している。

 大陸東方において支配者として君臨する西方人だが、その支配体制は実際のところ盤石にはほど遠い。

 国政と軍事の要職を独占しているとはいえ、総人口において西方人はわずか一割にすぎない。

 それでも今日まで広大な版図を治めてこられたのは、『帝国』が東方人に対して利益をたくみに分配し、ときに各民族を分断することによって危うい均衡を保ってきたためだ。

 東方人と一口に言っても、実際には数えきれないほどの民族が複雑な諸相をなしている。

 そして、『帝国』におけるそれぞれの民族集団の立場には、あきらかな格差が存在している。東方人のなかでも、草原の民には例外的に独立国に等しい自治権が与えられているのは、その最たるものであった。

 それは民族集団という巨大なくくりだけでなく、個人においても同じだ。

 地方官吏や辺境軍の門戸は、東方人に対しても広く開放されている。当人の能力次第では、それなりの社会的成功を得ることも夢ではない。

 東方人のあいだに序列を作り、互いに競い合わせる。危険を冒して『帝国』に逆らうよりも、その枠組のなかで取り立てられ、立身出世を遂げるほうが利得が大きいと感じさせる。

 西方人による支配を脅かさないよう細心の注意を払いながら、希望を抱かせることによって反抗の芽を摘み取る――それこそが『帝国』の民族政策の根幹だった。

 これまでも東方人による反乱はたびたび起こっているが、いずれも国家転覆を企図したものではなく、せいぜい飢饉や重税への抗議を目的とした散発的な騒擾に留まっている。その鎮圧に当たったのも、やはり東方人を中心とした辺境軍であった。

 それもいまや過去の話だ。

 もし人口の九割を占める東方諸民族が団結して立ち上がれば、少数マイノリティによるいびつな支配体制はたやすく崩れ去る。

 その先にあるのは、『帝国』の決定的な崩壊だ。


 革命――。

 それも、従来のような西方人による形だけの王朝交代ではない。

 革命が成功したならば、文字通り国の形が根底から変わるはずであった。

 およそ千年のあいだくすぶってきた火種は、ついに猛火を噴き上げて爆ぜようとしている。


 よしんば軍事力を結集して帝都イストザントを守り抜いたとしても、それはもはや往時の世界国家の残滓にすぎない。世界を二分する大国どころか、猫の額ほどの領土を固守するあわれな小国があるだけだ。

 なにより、東方人による独立国があらたに出現したならば、たかが一都市国家など遅かれ早かれ跡形もなく攻め滅ぼされるにちがいない。


 彼らにはそれを躊躇わないだけの動機がある。

 長年にわたって支配者としてふるまい、自分たちを傲慢に踏みつけ、膏血を搾り取ってきた西方人への復讐という動機が――――。

 

***


 書簡を手繰りながら、ルシウスは深く長いため息をついた。

 書斎の窓からは西日が差し込み、絨毯の上に不揃いな影を作っている。

 室内には他に誰もいない。広大な帝城宮バシレイオンの一角にひっそりと設けられた隠し部屋のような書斎は、ルシウスが一人で物思いに耽るために作らせたものだ。

 ゆったりとした長椅子にもたせかかったルシウスは、ふたたび書簡に視線を落とす。


――知らせなければ、最初からなかったことになるとでも思っていたのか。


 先だって、ルシウスは辺境の諸州に対し、ここ数年のあいだに州内で発生した事件についての仔細を報告するよう下知していた。

 どのような些末な事件も余すことなく、ただ事実だけを詳らかに記せ――そう厳命することも忘れていない。

 最高権力者である皇帝みずからの指示となれば、官吏たちもありのままを報告するほかない。上役を相手にしているのとはわけが違うのだ。事実を粉飾しようものなら、それこそ官界における前途は永遠に閉ざされる。

 そうして急遽作成された報告書に目を通したルシウスは、浮かべたくもない苦笑いを浮かべるしかなかった。


 長い報告書を読み進めるごとに、これまで各州から帝都にもたらされていた情報がいかに歪められ、判断材料として役に立たないものであったかを思い知らされる。

 もしこれだけの問題が生じていたことを事前に把握していれば、まだ手の打ちようもあったはずだ。

 いまとなってはなにもかもが手遅れだった。

 我が身かわいさに事実を糊塗し、美辞麗句を並べて皇帝の目を欺こうとした地方官吏たちの不誠実さを責めることはたやすい。


――いまさら詮無きことだ。


 ルシウスは書簡を折り畳むと、しばし瞼を閉じる。

 眼裏まなうらの闇に浮かぶのは、報告書に記載されていた無数の情報の断片きれはしだ。

 いったん形を失ったそれらは、若き皇帝の脳髄のなかでふたたび組み立てられていく。

 組んでは壊し、壊してはまた別のやり方で組み上げる。いつ終わるともしれない繰り返しのなかで、ルシウスは次第にたしかな手応えを感じはじめていた。

 三十分あまりが経過したころ、ルシウスは長椅子に預けていた上体をゆっくりと起こす。そのまま瞼をうっすらと開くと、


「ラフィカ、いるな」


 その場にいる誰かに語りかけるみたいに、虚空にむかって呟いたのだった。

 やわらかな日差しがふいにゆらぎ、部屋の片隅に赤銅色の髪を浮かび上がらせた。

 いつのまに入り込んでいたのか、ラフィカはルシウスの傍らに寄り添うみたいに控えている。


「お呼びですか? 陛下――」

「ひとつお前に頼みたいことがある」


 ルシウスはラフィカを手招きすると、小声で何事かを耳打ちする。

 

「どうだ? 探ってきてくれるか」

「ええ、まあ。それは構いませんけれど――」 

「どうした、なにか気がかりなことでもあるのか」

「しばらく陛下のおそばを離れることになります。このあいだ生命を狙われたばかりだということをもうお忘れですか?」

「心配するな。は何もせん。――少なくとも、今はな」


 ルシウスは自信ありげに言うと、ふっと相好を崩す。

 ラフィカは何も言わなかった。心配していない訳ではない。それでも、この男がそう言うのであれば、ただ従うだけだった。

 そのまま数歩ばかり部屋の暗がりに退いたかと思うと、ラフィカの姿はもうどこにも見当たらなかった。どのような技術を用いたのか、音もなく消え失せたさまは、闇に溶けてしまったようでもある。


 ルシウスは別の書簡を手に取り、膝の上におおきく広げていた。

 所狭しと記された事件や事故のなかで、とくにルシウスの目を引いたものがある。

 三年前の日付が押印されたそれは、白昼の往来で皇帝を侮辱した罪で逮捕され、連行される途中で舌を噛み切って自死した身元不明の老人の記録であった。 

 記録の末尾には、老人が最期に叫んだという言葉が付されている。


「救い主ナギド・ミシュメレトは地上に再臨する――か」 


 読み上げて、ルシウスは眉根を寄せた。

 いまとなっては、その名を知っている者はごくわずかだ。

 それでも、『帝国』にとって忘れがたい名前であることに違いはない。


 ナギド・ミシュメレト――。

 古帝国時代、三十年の長きに渡って『帝国』を苦しめた男。

 稀代の煽動者にして、生来のカリスマによって民心をたくみに掌握した伝説的な反逆者。

 ”父なる神が地上に遣わした救世主すくいぬし”――生前のナギドは、そう自称して憚らなかったという。彼の信奉者たちもそれを信じ、最後の一人が息絶えるまで戦い抜いたことを史書は伝えている。

 遠い歴史の彼方に過ぎ去ったはずのその名を、現代いまにおいて皇帝を誹謗する者が口にしたのはなぜか。

 狂人のたわごとと聞き流すべきだということは分かっている。

 それでも、古代の闇から這い出た亡霊みたいに、その名前はいまなお禍々しい魔力を帯びている。


 ルシウスは長椅子から立ち上がり、窓のほうに近づいていく。

 すでに日は傾いている。思いのほか長居をしすぎたらしい。

 窓のむこうでは、夕陽が帝都の街並みを染め上げていた。

 帝都イストザントの夕景は、東方で最も美しいもののひとつとして挙げられる。

 大気の状態がすこし不安定なのか。春から夏へと季節が移り変わろうとしているためか。

 あるいは、見る者の心が、常と変わらぬ景色をそのように見せるのか。

 その日の夕映えは、血の色によく似ていた。

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