第134話 姫君の覚悟

 時代の終焉おわりとは、はたしてどのようなものか。

 この国で最高の頭脳を持つ碩学に尋ねても、明確な答えを得ることは難しいだろう。

 かつて確かにあったを実際に体験した者は、もはやこの世のどこにもいない。

 現存する史書は、歴史を形づくる一つひとつの出来事を伝えこそすれ、往時の世を満たしていた空気や、人々の心の移ろいまでは筆写していない。

 誰も知らず、また語ることも出来ないがゆえに、人々がそれをはっきりと認識したときには、すでに一つの時代は避けがたい終焉の最中にあるのだ。

 そして、すべてが終わったあと、それはやはり記録に残されることも語り継がれることもなく、次の時代までふたたび永い眠りに就くだろう。

 いま――古い傷口から血がにじむように、終焉の予兆はこの『帝国くに』を覆い尽くそうとしている。

 

 州行政府の襲撃事件が発生してからというもの、東西南北の各辺境にはあきらかに剣呑な空気が漂いはじめていた。

 事件以来、官憲による取締がこれまでになく強化されたということもある。

 面子を潰された各方面の辺境軍は犯人検挙に血道をあげ、わずかでも嫌疑のある人間は片っ端から投獄されていった。

 およそ法の規範を逸脱した捜査と逮捕の対象となったのは、例外なく東方人であったことは言うまでもない。

 その先には終わりの見えない長い勾留と、拷問さえ辞さない厳しい尋問が待ち構えている。

 実際には身に覚えがないにもかかわらず、苛烈な尋問に耐えかねて虚偽の自白を行う者が相次いだのも当然だった。過酷な運命に変わりはないにせよ、自白すれば苦痛をひとまず先延ばしにすることは出来る。辺境軍の側もそれを見越した上で、暴力にたやすく屈するような人物をとくに選んで逮捕していたのである。

 こうして辺境軍の上層部が急ごしらえの「犯人」を用意し、皇帝の歓心を買うことに汲々とする一方で、市井の人々の憎悪は際限なく膨れ上がっていった。

 一家の働き手を突然奪われ、そのうえ国家に背いた逆賊の烙印を押されたとなれば、もはやこれまでどおりの生活を営むことは不可能に近い。


 それは紛うかたなき権力の横暴であった。

 しかも、その矛先が東方人だけに向けられたとなれば、辺境における西方人と東方人の対立はますます深まるばかりだった。

 皇帝とおなじ西方人を畏れ、へりくだってきた東方人たちも、ここに至って不満を隠そうとはしなくなっていた。長年に渡って自分たちを弾圧し、事あるごとに足蹴にしてきた西方人に対する東方人の怨嗟は、まさに爆発しようとしていたのである。


 そんな不穏な動きは、辺境軍の内部にも波及しつつあった。

 各州の要塞で、武器庫に備蓄されていた各種の兵器と弾薬が一夜にして持ち去られる事件が頻発したのはその最たるものだ。

 事なかれ主義に染まりきった辺境軍上層部といえども、これほどの重大事を隠蔽することは出来ない。

 帝都への報告こそ偽りなく行われたが、盗まれた武器の行方は杳として知れないままだ。

 いや――誰もがあえて口にしないだけで、その行き先は分かりきっている。

 武器は各地で蠢動する反『帝国』勢力に流れ、いずれ発生するであろう武装蜂起の際に用いられるにちがいなかった。


 なにより深刻なのは、辺境軍内に内通者が多数潜伏しているということだった。

 駐屯地への侵入と武器庫からの武器の搬出という一連の作業を秘密裏に行うためには、大がかりな偽装工作が不可欠となる。意図的に捜査を撹乱し、犯人たちの足取りを掴ませないことも然りだ。

 どちらも軍内部に犯行を手引きする者がいなければ、とても成し遂げられることではない。

 辺境軍の将兵のうち、兵士や下級将校の大部分は東方人によって占められている。彼らの存在なくして軍組織を維持することは出来ず、治安維持のために東方人に東方人を弾圧させるというジレンマは、常に辺境軍につきまとっている。

 辺境軍の兵士たちが西方人の支配に疑問を持ち、『帝国』の転覆を企てる革命思想を広く共有するようになれば、正規軍がそのまま反乱軍と化す恐れもある。

 最後のたがが外れたとき、いよいよ『帝国』の破滅は現実のものとなるだろう。


 これまで支配者として辺境に君臨してきた西方人たちは、いまや自分たちの繁栄が風前の灯火となった現実に否が応でも向き合わざるをえなくなっている。

 日増しに醸成されていく反『帝国』・反西方人の気運に恐れをなすあまり、家族とともに辺境を脱出し、帝都イストザントに向かう者が続出したのも無理からぬことであった。彼らはいつ自分たちに牙を剥くかしれない辺境軍ではなく、純粋に皇帝と西方人のための軍隊である中央軍に庇護を求めたのである。

 それは皇帝の名代として各州に配置され、西方人支配の象徴と位置づけられてきた皇族においても例外ではなかった。

 

***


「公主さま、どうか早急なる避難を――」


 辺境軍高官の軍服をまとった初老の男は、屋敷に来てから何度となく繰り返した言葉をふたたび口にした。

 庭池に面したテラスには長椅子がいくつも並べられているが、それに腰掛けることなく、老軍人はじかに板張りの床に膝を突いている。

 それは最上級の礼儀であると同時に、相手に対する心からの敬意の表明でもある。

 老軍人はちらと顔を上げる。見上げた先にちょこなんと座しているのは、まだ十二、三歳の少女であった。

 輝くような金糸の髪と、淡雪みたいな白い肌は、彼女が西方人のなかでも最も高貴な血を引いていることを物語っている。たおやかな四肢をつつむ絢爛な錦衣でさえ、それをまとう者の価値には遠く及ばない。


「そのような頼みは聞けぬ。そちには何度もそう申しているではないか」

「されど、事態はかつてないほどに緊迫しております。この地に留まっていては、いずれ御身に危険が……」

「それなら、なおさらわらわはここを退くわけにはいかぬ」


 祖父と孫ほども歳の離れた軍司令官にむかって、少女――ラエティティアはあくまで毅然と言い放つ。


「もし近隣で賊徒が蜂起したならば、この屋敷へと殺到するのは必定にございます。皇妹であるあなたさまに万一のことがあれば、我らは皇帝陛下になんと申し開きをすればよいか……」

「司令官、そちは『帝国』の皇族をなんと心得る?」


 ラエティティアは軍司令官を見据え、諭すように言い聞かせる。


「我らは飾りものではない。皇族が各地に置かれているのは、一朝事あれば帝都におわす皇帝陛下の藩屏はんぺいとなってお守りするためじゃ。賊軍がわらわを狙うというなら、それは望むところ。たとえ半刻でも帝都への進軍を食い止められるのなら、この生命よろこんで差し出そうぞ」

「そのお心意気はご立派なれど、まず公主さまに避難頂かなければ、他の者もこの地を離れることが出来ませぬ。我ら軍人のなかにも、せめて妻子だけでも帝都に逃したいという者が多く……」


 ラエティティアは苛立ったように立ち上がると、軍司令官にぷいと背中を向けた。

 少女らしい可憐な身のこなしには、しかし、強い拒絶と軽蔑が篭められている。


「逃げたければ勝手に逃げるがよい!! わらわはでもここを動かぬぞ。一度任された土地を捨てておめおめ逃げたとあっては、亡き父上に面目が立たぬ」


 返す言葉もなく俯いた軍司令官を一瞥すると、ラエティティアはテラスと庭池の柵に華奢な身体をもたせかかる。

 水面は初夏の陽光にきらめき、少女のかんばせを青々と映している。

 揺れる水面を眺めながら、ラエティティアはちいさくため息をついた。


「兄上……皇帝陛下ほどのお方が、これほどの大事を手をこまねいて見ているはずはないのじゃ。わらわは最後まで陛下を信じる。そちらにも、このような時勢ときだからこそ、みずからの責務を果たしてもらいたいと思っておる」

「……帝都から戻られて以来、公主さまはお変わりになられましたな」

「それはいい意味でか? それとも、悪い意味でか?」

「言うまでもございません。公主さまがそこまでの覚悟を決めておられるならば、我らも最後までお付き合いしますぞ」

「またわらわの我儘を通してしまったかの――」


 軍司令官は首を横に振ると、一礼してその場を辞去した。

 自分のほかには誰もいなくなったテラスで、ラエティティアはひとり水面を見つめている。

 風が吹き渡るたびにかき乱され、たえまなく揺れ動く自分の姿は、いまの心中を映し出しているようでもある。


 軍司令官の前では気丈に振る舞っていたラエティティアも、昨今の情勢に不安を抱いていないわけではない。

 この世界の終わりまで続くかと思われた『帝国』が、西方人の支配が、こうもあっけなく崩れ去ろうとしているのは、ラエティティアにとっても信じがたいことだった。

 それでも、時代が激動の渦中へと向かっていることははっきりと分かる。

 大人ほどには考え方が固着していない少女は、変化していく世相をありのままに認識する柔軟さを持っているものだ。

 だからといって、従容と革命を受け入れることは、ラエティティアには到底出来そうになかった。

 革命によって誕生する新たな国家には、おそらく西方人の居場所はない。まして、皇帝の血縁ともなればなおさらだ。かつて天下万民の尊崇を集めていた高貴な血筋は、いまや東方人にとって憎悪の的でしかないのだから。

 悩んだ末に少女が選んだのは、最後まで『帝国』の皇族としての務めを果たすことだった。

 先帝イグナティウスの娘として生を受けたラエティティアにとって、国家とおのれの存在は分かちがたく結びついている。

 それは皇帝である兄ルシウスも同様だ。愛する兄とおなじ運命に殉ずることが出来るなら、たとえどのような最期を迎えることになろうとも、ラエティティアに悔いはない。


「……帝都には騎士ストラティオテスがいる。あの者たちなら、きっと兄上を助けてくれる。この『帝国くに』を守ってくれる」


 柵にもたれかかったまま、ラエティティアはひとりごちる。

 傍目には、まるで水面に映る自分自身に言い聞かせているように見えていることだろう。


「……そうであろう? イセリア――」


 騎士たちのなかでもとりわけ思い入れの深いその名を、ラエティティアは最後にぽつりと呟いたのだった。

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