第135話 微睡みの聖域
穏やかな日差しが降り注いでいた。
険阻な崖と深い森によって外界から隔絶された集落には、俗世の忙しい時の流れとは無縁のおだやかな時間が流れている。
争いも憎しみもない理想郷――アルサリールの言葉はあながち誇張ではない。『帝国』による秋霜烈日たる支配と弾圧が存在しないというだけでも、この場所は外の世界よりもずっと恵まれていると言えるだろう。
最初は身を潜めるように集落を見回っていたアレクシオスだが、昼日中に男が出歩いているというだけで、ここでは好むと好まざるとにかかわらず注目の的になる。
おそらく孤児院の子供たちが新たな騎士が来訪したことを報せたのだろう。どこからともなく集まって来た村人に押されるようにして、アレクシオスは路地の一角に追い詰められた。
次の瞬間、アレクシオスの周囲で沸き起こったのは、耳を聾するばかりの歓声だった。
――騎士さま、よくぞ我らのもとにおいで下さりました!!
村人たちは感極まったように叫び、涙を流している者さえいる。
いままで経験したことのない状況に戸惑いながら、アレクシオスは周囲に視線を巡らせる。
どの顔も真剣そのものだ。とても芝居を打っているようには見えない。
彼らは心底からアレクシオスを歓迎し、自分たちの側にいることを喜んでいるようだった。
――ナギド様の仰っていたとおり、神はいつも私たちを守ってくださる。あなたがここにおられることがなによりの
ときおり声を詰まらせながら熱っぽく語る老婦人に対して、アレクシオスはあいまいに頷くことしか出来なかった。
誰かに褒められるために戦っている訳ではない――アルサリールにはそう言い切ったアレクシオスだが、こうして大勢の人間に囲まれていると、渇いた心が潤っていくような感覚を覚えるのも事実だった。
北方辺境で
ヴィサリオンやルシウスに理解してもらえれば十分だと、ずっと自分に言い聞かせてきたのだ。
いま、アレクシオスはこれまで自分が立っていた足場が揺らいでいるのをはっきりと自覚している。
心の奥底で求めてやまなかったもの。本当はずっと渇望していたにもかかわらず、あえて興味のないふりをしてきたものが、ここにはたしかにある。
このままゼーロータイの騎士として戦うことを選べば、この充実感をずっと享受していられるかもしれない。
あのときアルサリールが言ったように、仮に『帝国』に戻ったところで従来と変わらない待遇が待っているだけだ。騎士の存在は秘匿され、どれほど人間のために尽くしたところで、その功績に相応しい評価が得られる訳でもない。
これまでのように心に満たされないものを抱えたまま、誰にも認められずに戦い続けることが出来るのか。
すでに多くの人間に必要とされる甘美な歓びを知ってしまっているのだ。
いまさら昔の自分に戻れないことは、ほかならぬアレクシオス自身が誰よりも承知している。
気づくと、アレクシオスは人波をかき分けるように駆け出していた。
これ以上あの場に留まっていたら、本当に引き返せなくなる――そんな恐怖が少年を衝き動かしたのだった。
それでも、すぐに集落を出ていくつもりにはなれなかった。
ゼーロータイについての調査がまだ不十分だというのは、あくまで建前だ。
居心地のいい場所を離れたくないという思いが、アレクシオスを引き止めたのだった。
そうして一日が過ぎ、二日が過ぎ、アレクシオスの集落への逗留は今日で三日目を迎えようとしている。
***
「これでどうだ?」
畑を出ながら、アレクシオスは傍らの農婦に問いかける。
脇に抱えているのは、畑に埋まっていた巨石だ。
まるで軽石みたいに扱っているためにそうは見えないが、重さは三百キロを下らないだろう。騎士の人間離れした膂力がなければ、数秒と持ちこたえられずに圧し潰されてしまうにちがいない。
いつものように集落を見て回っている途中、困り果てた様子の農婦たちを見つけたアレクシオスは、たったひとりで巨石を畑から掘り出してみせたのだった。
「ありがとうございます! でも、騎士さまにこんな仕事をさせてしまって……」
「気にしなくていい。このくらいは仕事のうちにも入らないからな」
アレクシオスはそれだけ言うと、両手を打ち合わせて泥を払う。
そのあいだも農婦たちは深々と頭を下げ、口々に感謝の言葉を述べている。
と、アレクシオスの上着の裾がくいくいと引かれた。
振り返ると、男の子のちいさな手が裾を掴んでいる。孤児院にいた子供の一人であった。
「騎士さま、今日も一緒に遊んでくれる?」
「ああ。これを片付けたらすぐに行くから、すこし待っていろ」
「本当? 約束だよ!」
男の子はうれしげに言うと、土を蹴立てて駆けていった。
集落の住人はおしなべて騎士に好意的だが、なかでも子供たちは特別だった。
恐れるでもなく、忌み嫌うでもなく、ただただ純粋な好意をぶつけてくる。
アレクシオスにとっても気恥ずかしいほどだが、しかし、決して悪い気はしない。
それどころか、かつて味わったことのない誇らしさと歓びが少年の胸をいっぱいに満たしている。
畑から集落へと戻る道すがら、アレクシオスははたと足を止めた。
前方から近づいてくるアルサリールの姿を認めたためだ。
旅装に身を固め、目深に笠を被っていても、端正な顔立ちは隠せない。
「……どこかへ行くのか?」
アレクシオスに問われて、アルサリールはふっと相好を崩す。
「ええ――外で済ませなければならない用件がありましてね」
「ナギド・ミシュメレトの命令か」
「ご想像に任せますよ」
アルサリールは意味深長な笑みを浮かべたまま、アレクシオスに一礼する。
そして、通り過ぎざま、思い出したみたいに言ったのだった。
「私が不在の間にここを出て行きたくなったなら、どうぞご自由に。以前も言ったとおり、挨拶は無用です」
「言われなくてもそのつもりだ」
「それなら結構……だいぶこの
こちらの心を見透かしたような口ぶりのアルサリールに、アレクシオスは何も言わなかった。
しばらく遠ざかっていく後ろ姿を見送ったあと、何事もなかったように踵を返す。
アルサリールの言葉どおり、アレクシオスはこの集落を気に入っていた。
善良で温和な人々と、素朴だが生きていくには不自由のない暮らしは、外の世界では失われて久しいものだ。
それでも、気がかりなこともないではない。
この三日のあいだ、アレクシオスはふとした拍子に何者かの視線を感じることがあった。
誰かに見られている――分かっているのはそれだけだ。
気取られないように視線の主を探り当てようとしたが、いまだに見つけることが出来ずにいる。
監視者が
ただ姿を隠すだけでならともかく、気配まで完全に遮断することはきわめて困難だからだ。
もし人間であるなら、そのような異能の持ち主をアレクシオスは一人だけ知っている。
かつてパラエスティム近郊の廃造船所で死闘を繰り広げた暗器使い。壮絶な爆死を遂げたあの男なら、みずからの存在を影と化すことも可能だろう。
正体が知れないのは不気味ではあるものの、監視されていること自体は別段驚くには値しなかった。
アレクシオスもアルサリールの言葉のすべてを鵜呑みにしている訳ではない。これまで彼が見せた友好的な態度も、本心から出たものかは疑わしい……というより、相手の油断を誘うための演技と考えるのが自然だろう。
口先ではいつでも出ていって構わないと言いながら、本当にそれを許すかどうかは別の問題だ。
だが、たとえそうであったとしても、アレクシオスはまだ集落を出ていくつもりはなかった。
ここにいる人々は、自分を必要としてくれている。
アレクシオスにとって、この場所に留まる理由はそれだけで十分だった。
***
その一団が集落にやってきたのは、ほとんど日も暮れかかったころだった。
三十人ちかい一団のほとんどは、女と子供、そして傷病人によって占められていた。薄汚れた粗末な身なりと疲労しきった顔は、ここまでの長く苦難に満ちた道のりを物語っている。
唯一の例外は、引率者と思しき壮年の男だけだ。いかにも聖職者らしい純白のローブには、泥はねひとつ見当たらない。
一日の仕事を終えた村人たちは広場に集まり、あらたな来訪者をあたたかく出迎えている。
アレクシオスは広場の石垣に背をもたせかかりながら、孤児院の子供たちとともにその様子を遠巻きに眺めていた。
ついさっきまでまだ遊び足りないと不満をこぼしていた子供たちも、その場の雰囲気を感じ取ったのか、いまはすっかり大人しくなっている。
「ここにいるのは『帝国』の暴虐によって住む家を失い、愛する家族を奪われた者ばかりです。あなたたちと同じように――」
引率役の男は大仰な身振り手振りを交えながら、周囲の人々にむけて語りかける。
どこからかすすり泣く声も聞こえてくる。
声の主は、無事に
アレクシオスには、そのどちらであったとしても不自然ではないように思われた。
「ここでは働けば働いた分だけ見返りを得ることが出来る。皇帝や貴族の贅沢三昧の暮らしを維持するために重い税を課せられることもなければ、あなたがたが懸命に耕してきた畑を取り上げられることもない……」
男の熱弁は最高潮を迎えようとしていた。
どこか冷めたような目でその様子を見つめながら、アレクシオスは片言隻句も聞き逃すまいと耳を澄ます。
話の内容には鼻白むばかりだが、外の世界の情報を得る貴重な機会を無駄にする訳にはいかない。
「まもなく各地でゼーロータイの同志が一斉に蜂起し、悪しき『帝国』はかならず滅び去る。私たちには神の加護がついている。何も恐れることなどない。我らが指導者ナギド・ミシュメレトの言葉に従い、その日を心して待とうではありませんか!!」
陶酔したような男の言葉は、アレクシオスに少なからぬ衝撃を与えた。
それも当然だ。まさか知らぬ間に事態がそこまで進んでいるとは思ってもみなかったのだから。
『帝国』は、皇帝陛下は、仲間たちは……これまで意図して考えないようにしていたさまざまな事柄が次から次へと浮かんでくる。
と、アレクシオスは人差し指にあたたかな感触をおぼえた。
見れば、女の子がちいさな指を絡めている。
「騎士さまも一緒に戦ってくれるんでしょう?」
「おれは……」
「だって、私たちの味方だもの」
アレクシオスは押し黙ったまま、子供たちから逃れるように歩き出していた。
少年の思考は千々に乱れ、心はかつてないほどに動揺している。
心地よいぬるま湯に浸かっていたようなこの数日が重くのしかかってくる。
――このままここにいたら、取り返しのつかないことになる。
それでも構わないと囁く声が聞こえた。それは他の誰でもない、アレクシオス自身の内面から生じた声であった。
足早に広場を横切りながら、アレクシオスは何気なく移住者たちに目を向ける。
居並ぶ顔に視線を滑らせていくうちに、おもわず息を呑んでいた。
瑠璃色の瞳と、くすんだ赤銅色の髪。
顔や手がひどく汚れているのは、西方人であることを隠すための細工だろう。
小柄な体躯と、よく見知ったその顔は、どれほど巧妙に変装したところで見間違えるはずもない。
他人の空似と思い過ごすには、あまりにも特徴が符合しすぎている。
ただひとつ――本当にその人物なら、こんなところにいるはずがないということを除いては。
「ラフィカ――」
アレクシオスは魂消えたように立ちつくしたまま、小声でその名を呟く。
つねにルシウスの傍らに影のように付き従う護衛にして、類まれな技量をもつ剣の使い手。
その姿はいつのまにか他の移住者に紛れ、アレクシオスの目の前から消え失せていた。
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