第162話 残花散りゆく

 戦場のあらゆるものが停止していた。

 ぬるく澱んだ大気、舞い上がった土埃、あるかなきかの風の流れ……。

 決して止まることのない時間さえも、その瞬間を境に凍てついたようであった。


 弾き飛ばされるように後じさったオルフェウスは、手近な石柱に背をもたせかかる。

 体内のエネルギーはほとんど底をつきかけている。戦うことはおろか、歩くことさえままならない。

 戎装殲騎ストラティオテス・ディオミスの姿から、通常の戎装騎士ストラティオテスに戻っているのは、もはや形態を維持することが不可能になったためだ。そうしていなければ、戎装そのものが解除されていたはずであった。

 ほんの一瞬前まで烈しい戦いが繰り広げられていた前庭テラスの中心には、不揃いな二つの影がわだかまっている。


「……なぜだ」


 崩折れかけたアイリスを抱きとめながら、ヘラクレイオスはちいさく呟く。

 常と変わらず低い声には、しかし、隠しようもない動揺と悲嘆が滲んでいる。

 どれほど懸命に押し殺し、決して表に出すまいと努めたとしても、感情を意のままに支配することは出来ない。

 それは、最強の騎士だろうとおなじだった。


「なぜ、俺を庇った?」


 ヘラクレイオスの問いに、アイリスはゆるゆると頭を横に振るだけだった。


「よかった……」

「何を言っている――」

「あなたが……生きていてくれて……よかった」


 それだけ言って、アイリスはヘラクレイオスの顔にそっと手を伸ばす。

 白く繊細な指が灰白色グレーの装甲に覆われた頬に触れた。

 愛おしむように。

 慈しむように。

 そして、名残りを惜しむように。

 アイリスは、ぎこちない手付きで無骨な輪郭をなぞっていく。


「自分が何をしたか分かっているのか」

「うん……でも、いいの……」

「俺のことなど放っておけばよかった。お前さえ無事なら、俺はどうなろうと構いはしなかった」

「約束……したから……」


 薄れゆく意識のなかで、アイリスはぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。

 いま、少女の白いかんばせに浮かぶのは、苦悶でも後悔でもない。

 冷たく硬い腕のなかに咲いた一輪の花のように、アイリスはヘラクレイオスに微笑みかける。


「ヘラクレイオス……かならず勝ってね……」

「俺はお前のために勝つと言った。お前がいなければ、勝利になど何の価値がある。お前がいない世界で生きる意味などない」

「あなたは、ずっと私のことを大切にしてくれた……自分の生命を投げ出しても、私を守ろうとしてくれた」


 アイリスは光のない瞳でヘラクレイオスを見つめる。

 視力を失ったのは、中枢部に負った甚大な損傷のためか。それとも、最後に能力を行使した代償か。

 そのどちらであったとしても、少女の生命がまもなく終わりを迎えることには変わりない。

 奇跡的に”破断の刃”による破壊を免れたごく僅かな部位も、まもなく機能を停止する。

 アイリスが口にする言葉は、消えゆく意識の断片にほかならなかった。


「私もおなじくらい、あなたが大切……だから、後悔なんてしてない……」

「俺はここにいる。だから、どこへも行くな」

「いままで……ありがとう……ヘラクレイオス」


 細い指先が装甲を離れた。


「――愛してる」


 重力に任せて力なく下がった少女の腕は、石畳に触れる寸前で、ふわりと宙空に浮いた。

 アイリスの身体を抱きかかえたまま、ヘラクレイオスは遺跡の内部に向けて歩き出していた。

 あくまで静かな足取り。

 怒りも悲しみも、遠ざかっていく巨大な背中から読み取ることは出来ない。

 オルフェウスは動くことも出来ず、ただその背を見送るだけだった。


***


 しばらく進んだところで、ヘラクレイオスははたと足を止めた。


 奇妙な場所だった。

 中庭へと続く回廊に面した小部屋である。

 壁の一面には切り出された石が整然と積み上げられ、一見すると細長い寝台みたいにみえる。

 どうやら太古の祭壇であるらしい。

 いまとなってはいかなる神が祀られ、どのような祭祀が執り行われていたかも判然としない。

 人々の願いも、祈りの言葉も、すべては遠い過去に置き去られたままだ。

 往時の信仰を偲ばせる痕跡をことごとく失っても、その一角はおごそかな雰囲気を留めている。


 ヘラクレイオスは祭壇に近づくと、アイリスの亡骸をそっと横たえた。

 戎装を保ったまま、装甲に覆われた指で乱れた髪を整えてやる。

 アイリスの表情は、生前のどの瞬間よりも穏やかだった。

 それは、現世うつよの苦しみから解き放たれた者だけに許された顔貌かおであった。

 遺された者がどれほどこいねがったとしても、その身体に二度と魂が還ることはない。生物の常識を超越した存在である戎装騎士ストラティオテスにとっても、死のみは等しい意味を持つ。


 しばらく祭壇の前に立ち尽くしていたヘラクレイオスだったが、やがて、ふいに踵を返した。

 やはり沈黙を守ったまま、灰白色グレーの巨体はふたたび来た道を戻っていく。


 前庭テラスに出たところで、ヘラクレイオスは足を止めた。

 オルフェウスはすでに石柱を離れ、戦場の中心にじっと佇んでいた。

 ヘラクレイオスがアイリスを運んでいるあいだに、多少はエネルギーも回復している。

 戎装殲騎ストラティオテス・ディオミスへの変形へんぎょうは不可能だが、戦闘を継続することは出来る。

 むろん、通常形態ではヘラクレイオスに勝てないことは承知の上だ。

 それでも、オルフェウスには戦わなければならない理由がある。

 逃げ出すという選択肢は、最初から存在していない。

 悲愴な決意を固めた真紅の騎士にむかって、ヘラクレイオスはゆっくりと近づいていく。


「俺の甘さがアイリスを殺した」


 硬い足底が石畳を打つ音に、金属が軋む音が混じった。

 ヘラクレイオスが拳を握り込むたび、手指と掌の装甲が耐えきれずに悲鳴を上げているのだ。

 自分自身の装甲さえ破壊するほどの凄まじい握力。

 生来の並外れた膂力に加えて、やり場のない感情がさらに破壊力を倍加させている。

 だが、どれほど自分を痛めつけたところで、抑えがたい感情はますます狂おしく燃え盛るばかりだった。


「この世界に守るべきものなど何ひとつない。それでも、俺には戦う理由がある」


 オルフェウスをまっすぐに見据えたまま、ヘラクレイオスは冷えきった声で宣言する。


「貴様はここで殺す――俺が、この手で葬り去る」


***


 上空に気配が生じたのはそのときだった。

 次の瞬間、大気を切り裂く轟音と衝撃に続いて、前庭テラスの片隅がもうもうたる砂煙に包まれた。

 ヘラクレイオスとオルフェウスがともに目にしたのは、砂塵の向こうでまたたく二色の光芒であった。


「なんとか間に合ったみたいだね」


 エウフロシュネーは身体にまとわりついた砂を払いながら、安堵したように呟く。


「ちょっとエウフロシュネー!! あんた、もうちょっと優しく降りらんないの!?」


 その背後で苛立ったように叫んだのはイセリアだ。

 着地の際に叩きつけられたためだろう。黄褐色の装甲はすっかり砂にまみれている。


「もう、こんなときに贅沢言わないでほしいなあ」

「いきなり飛び上がって地面に叩きつけられたら、誰だって文句の一つも言いたくなるわよ!!」

「仕方ないでしょ。私が途中で拾ってあげなかったら、お姉ちゃん今ごろまだ丘を登ってるところだよ」


 それきり二の句が継げなくなったイセリアは、「ふん」と拗ねたように顔を横に向ける。


 ほんのすこし前――。

 アイリスが異空間を出ると同時に、エウフロシュネーはガレキアの市街地に放り出されていた。

 自分の死と同時にみずからの作り出した異空間が永遠に消滅することを理解していたアイリスは、エウフロシュネーを通常空間に戻したのだ。

 エウフロシュネーがすぐさま”トゥリスの丘”へと向かったことは言うまでもない。

 直前まではオルフェウスが優勢であったとはいえ、アイリスが介入したことで、戦況がどのように変化したかはまるで予想がつかないのだ。

 途中で傷ついた身体を引きずるようにして斜面を登っていたイセリアを見つけたエウフロシュネーは、ついでとばかりに掴み上げると、そのまま戦場に引き連れてきたのだった。

 エリスとの戦いで右の手首を失い、装甲もひどく傷ついているとはいえ、四騎のなかではオルフェウスに次ぐ戦闘能力を持つイセリアである。

 ヘラクレイオスとの戦いに臨むにあたって、エウフロシュネーが戦力として見込んだのも当然であった。

 唯一アレクシオスの姿が見当たらないことは気がかりではあったものの、ひとまずは戦場への迅速な到着を優先した。もし切り札であるオルフェウスが倒されれば、こちらの勝機は失われる。イセリアとエウフロシュネーは、あくまでオルフェウスを補佐することしか出来ないのだ。


「イセリア、エウフロシュネー、どうして――」


 まだ回復しきっていないオルフェウスを支えるように、イセリアとエウフロシュネーが左右に並び立つ。


「お姉ちゃんを助けに来たんだよ」

「そういうこと。あたしたちが来たからには何も心配いらないわ。あんたはしばらくそのへんで休んでていいわよ」


 言って、イセリアはヘラクレイオスを見やる。


「さて、あんたのお仲間はもう誰も残ってないわ。いい加減に諦めたらどう?」

「……何人来ようと同じことだ」

「なんですって?」


 ヘラクレイオスは三人に向かって一歩を踏み出す。


「オルフェウスも、貴様らも、この俺が殺す。一人も逃しはしない」


 言い終わるが早いか、異様な音が前庭テラスに響き渡った。

 ヘラクレイオスが拳を繰り出したのだ。

 巨拳に引きちぎられた大気が悲痛な叫びを上げ、凄まじい摩擦が闇を焦げ付かせる。

 衝撃が収束したとき、イセリアとエウフロシュネー、そしてオルフェウスの姿はどこにも見当たらなかった。

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