第163話 この身が砕けても…

 すばやく後方に飛び退った三騎は、互いに距離を取ったまま戦闘態勢を取った。

 

 そうするのには、むろん理由がある。

 密集していては一網打尽にされるおそれがあるためだ。

 それに対して、散開していれば、たとえ一人が倒されたとしても、残る二人は難を逃れることが出来る。

 この状況で生き延びるための冷徹な判断であった。


「あたしを真っ先に狙おうっての? いい目の付けどころと言ってあげたいけど……」


 ヘラクレイオスはイセリアに狙いをつけたようだった。

 猛然と突進してくる巨体に怯むことなく、イセリアは迎撃の構えを取る。


「そう簡単にこのあたしを倒せると思ったら大間違いよ!!」


 ヘラクレイオスの左拳が閃いた。

 イセリアを一撃の下に葬り去るはずだった拳は、予想に反して中空で静止した。

 力づくで止められたのだ。イセリアは左腕と右腕を十字に交差させ、ヘラクレイオスの拳をみごと受け止めている。


「力自慢はあんただけの取り柄だと思わないことね」

「ほう――」

「このまま押し返して……」


 イセリアはそれ以上言葉を継ぐことが出来なかった。

 身体全体が徐々に沈み始めていることに気づいたためだ。

 ヘラクレイオスの拳から加えられる桁外れの圧力によって、イセリアは地面に埋め込まれようとしている。

 いつのまにか足元の石畳は大きくひしゃげ、全身の関節が過負荷に耐えかねて軋りを上げる。

 エリスとの戦いで傷ついた装甲が圧壊するのも時間の問題であった。


「まずは貴様からだ」

「この……あんまり調子に乗るんじゃないわよ……っ!!」


 気丈に振る舞ってはいるが、形勢の不利はあきらかだ。

 そうするあいだにも、ヘラクレイオスから加えられる重圧はさらに増している。


「お姉ちゃん――!!」

「エウフロシュネー、あんたは下がってなさい!! 余計な手出ししたら承知しないわよ!!」

「でも、このままじゃ……」

「このあたしを誰だと思ってんのよ。こんなところで、死ぬわけ、ないでしょ……」


 言いかけたところで、イセリアの身体が大きく沈んだ。

 片足の減衰装置ダンパーが破壊され、身体を支えることが不可能になったためだ。

 こうなっては、もはやヘラクレイオスの拳を押し返すことも、受け流すことも出来ない。かろうじて持ちこたえているもう一方の足が破壊されたとき、イセリアの命運は尽きるはずであった。

 と、イセリアの身体からヘラクレイオスめがけて、鋭い軌道を描いて上昇したものがある。


「ぬう――」


 ヘラクレイオスはちいさな呻き声を漏らす。

 顔面の右半分には深い傷痕が刻まれ、赤黒い液体が溢れ出している。

 イセリアは尾を操り、ヘラクレイオスの顔を切りつけたのだ。

 視覚器センサーを破壊されたヘラクレイオスは、視野の右側をまるまる失うことになった。いかに戎装騎士ストラティオテスといえども、複雑な構造をもつ器官を再生するには相応の時間を必要とする。

 イセリアが苦し紛れに繰り出した攻撃は、ヘラクレイオスに予想以上の痛手を与えたのだった。


「感謝してもらいたいわね。前よりずっと男前になったわよ」


 押し潰されそうになりながら、イセリアは精一杯の軽口を叩いてみせる。

 拳の重圧がふっと軽くなったのはそのときだった。

 刹那、イセリアの身体を強烈な衝撃が見舞った。黄褐色の装甲は脆い土器かわらけみたいに砕け、無数の破片となって飛散する。

 イセリアは数十メートルも吹き飛ばされたあと、遺跡の外壁に叩きつけられてようやく停止した。


 ヘラクレイオスが放ったのは、鋭い膝蹴りであった。

 拳を武器とするヘラクレイオスにとって、足技はいわば禁じ手だ。

 両足は身体を大地に固定するための楔であり、また破壊力の根源でもある。いたずらに足を動かすことは、拳打の威力を殺すことにもなりかねない。

 普段のヘラクレイオスであれば、どれほど手強い敵を相手にしていたとしても、絶対に取るはずのない攻撃手段だった。

 アイリスを失った悲しみと、片目を潰された怒りが、ヘラクレイオスにその禁を破らせたのだ。

 むろん、一時の激情に支配され、冷静な判断力を失った訳ではない。

 それどころか、ヘラクレイオスの頭脳はかつてないほどに冴え渡っている。

 おのれに課していたあらゆる束縛を捨て去り、ひたすら敵を抹殺することに専心する。これまで築き上げてきた戦術も、禁じ手としていた技の数々も、敵を倒すためなら躊躇うことなく用い、迷うことなく排除する。

 騎士としての矜持を捨て去ることで、ヘラクレイオスはまさしく鬼神のごとき強さを手に入れたのだった。


「っ……ぐ……」


 イセリアは瓦礫を押しのけようと必死にもがく。

 直撃を受けながら即死に至らなかったのは、並外れた防御力を持つイセリアだからこそだ。並の戎装騎士であれば、いまごろは原型を留めぬほどに破壊されていたはずであった。

 それでも、身体を突き抜けたダメージの影響は甚大だった。

 四肢の駆動機構メカニズムは完膚なきまでに破壊され、もはや自分の意志で立ち上がることすらままならない。

 よしんば身体が十全に動いたところで、ヘラクレイオスに対して無力であることには変わりない。

 二人の騎士のあいだ横たわる実力差は、それほどまでに大きいのだ。

 イセリアがヘラクレイオスに傷を負わせたのは、ほとんど奇跡と言っても過言ではなかった。

 奇跡は二度とは起こらない。

 ヘラクレイオスが敵を前にして隙を見せることはもはやなく、イセリアにふたたび千載一遇の好機が巡ってくることもない。


 イセリアに突きつけられたのは、たったひとつの残酷な事実――どう足掻いたところで避けられない死であった。

 それはオルフェウスやエウフロシュネーにしてもおなじことだ。

 ヘラクレイオスがこの場にいる全員の抹殺を宣言した以上、誰一人として逃れられるはずはないのだから。

 みずからの意志で変えられるものがあるとすれば、


「冗談……じゃない、わよ……」


 イセリアはかろうじて動く左腕で瓦礫を払う。

 勝てる見込みがないことは、彼女自身が誰よりもよく分かっている。

 だからこそ、最後の最後まで抗う意味がある。腕の一本でも道連れにしなければ、死んでも死にきれるものではない。結果は変えられなくても、どこまで悪あがきが出来るかは自分次第なのだ。

 黒髪の少年の横顔がふと脳裏をよぎる。

 アレクシオスがここにいないのは、イセリアにとって幸いでもあった。

 たとえ自分の生命が尽きるとしても、愛する者が生きているなら、最後の瞬間まで希望を抱き続けることが出来る。すくなくとも、自分の死が無駄ではないと信じることは出来るはずだった。

 全身を苛む激痛をこらえながら、イセリアは顔を上げる。

 重厚な足音を響かせて、灰白色グレーの巨体が少しずつ近づいてくる。

 それは具象かたちを取った死そのものであった。


***


 真紅と蒼の影が左右から躍り出たのはそのときだった。


「無駄なことだ」 


 挟撃を仕掛けたオルフェウスとエウフロシュネーに対して、ヘラクレイオスは両腕をわずかに持ち上げただけだ。

 ”破断の掌”を使うには、オルフェウスはまだエネルギーが十分に回復していない。エウフロシュネーはもとより注意をそらすための囮にすぎない。

 ヘラクレイオスが最小の動きで応じたのは、そこまで見切った上での判断であった。


 二騎はほんの一瞬ヘラクレイオスの腕に触れたかと思うと、弾かれるように後退していた。

 もしあのまま攻撃を続行していたなら、すくなくともどちらか一方は反撃によって致命傷を負っていたはずだ。

 片側の視野を失ったことで、ヘラクレイオスのはさらに研ぎ澄まされたようだった。

 相手のほうが数で勝っていたとしても、その行動を予測することはたやすい。連携のパターンにはおのずと限界があり、ヘラクレイオスの優れた演算能力ならば、すべての可能性をしらみつぶしに検討することも出来る。


「貴様らは一人残らず殺すと言った。しかし、死に急ぐというなら止めはしない」


 ヘラクレイオスはオルフェウスとエウフロシュネーを交互に一瞥する。


「先に死にたいのはどちらだ。貴様か、それとも――」


 ヘラクレイオスの視線はいったんオルフェウスに向けられたかと思うと、そのまま正反対の方向に移った。


「貴様か」


 エウフロシュネーがとっさに身構えたのと、灰白色グレーの巨体が烈しく大地を蹴ったのは、まったく同時だった。

 巨人の剣が夜気を裂いた。

 そう見えたのは、ヘラクレイオスの手刀であった。

 エウフロシュネーは翼を展開して上空に逃れようとするが、もはや手遅れだ。

 横薙ぎに襲いかかった手刀は、ちょうど腰のあたりでエウフロシュネーを両断するはずだった。


「エウフロシュネー!!」


 イセリアの絶叫は、しかし、むごたらしい破壊音と交わることはなかった。

 気づいたときには、エウフロシュネーはヘラクレイオスから三十メートルあまり離れた石柱の陰にいた。

 オルフェウスに抱きかかえられ、一瞬のうちにここまで移動したのだ。


「お、お姉ちゃ……」

「大丈夫だよ。何も心配いらない――」


 なだめるようなオルフェウスの言葉を、冷たく重い声が遮った。


「愚かな真似をしたな、オルフェウス。最後の力を無意味に使い果たしたのだ。これでもう貴様の勝ち目はなくなった」

「……私は、あなたを助けた人とおなじことをしただけ」

「俺の前で二度とその口を開くな」


 オルフェウスがエウフロシュネーを突き飛ばした直後、二人がいた場所は跡形もなく消え失せていた。

 ヘラクレイオスの拳が石畳ごと地面を抉り取ったのだ。

 エウフロシュネーには目もくれず、ヘラクレイオスはオルフェウスを猛追する。

 わずかなエネルギーを使い果たしたオルフェウスは、加速に入ることも、”破断の掌”を使うことも出来ず、ひたすら後退するばかりだった。

 逃走と追撃――際限なく続くかと思われたその繰り返しは、唐突に終わりを迎えた。


 オルフェウスが大きく姿勢を崩したためだ。

 その直前、ヘラクレイオスの掌から迸った鋭い光を、オルフェウスはたしかに認めていた。

 薄灰色を帯びたそれは、掌を覆う装甲が剥がれ落ちたものだ。

 ヘラクレイオスは強大な握力によってみずからの装甲を砕き、急ごしらえの飛び道具へと変えたのだった。

 加速能力を用いればたやすく回避出来るはず攻撃も、いまのオルフェウスにはとても躱しきれるものではない。

 細長い短剣みたいな装甲片は、足首をやすやすと貫通し、関節を完全に破壊していた。


 ヘラクレイオスは好機を逃さず、オルフェウスめがけて執拗に投擲を繰り返す。

 形も長さも不揃いな凶器は、真紅の騎士の両足首と両膝を貫き、そのまま石畳に縫い止めていく。

 やがて、オルフェウスが膝を突くと同時に、石畳に赤黒いものが広がっていった。

 加速に入ることはおろか、もはや歩くことさえ望めない。この状況から逃れることも、反撃に転じることも出来ない。

 オルフェウスに許されるのは、従容と死を待つことだけであった。

 ヘラクレイオスは拳を振り上げて、ふいに動きを止めた。

 より正確に言うなら、攻撃の対象を切り替えたのだ。


「お姉ちゃんから離れろ――!!」

 

 ヘラクレイオスの腕が大きく旋回した。

 そのままエウフロシュネーの手首を掴み取り、手近な石柱に叩きつける。

 凄まじい音が一帯を領した。それは石柱が砕かれる音であり、エウフロシュネーの装甲が破壊される音でもあった。


「慌てるな。貴様らもすぐに後を追わせてやる」


 石柱の倒壊に巻き込まれた蒼騎士には一瞥もくれず、ヘラクレイオスはまるで独り言みたいに呟く。


「終わりだ、オルフェウス」


 口々に何ごとかを叫ぶイセリアとエウフロシュネーを無視して、ヘラクレイオスはふたたび拳を高く掲げる。

 その姿は、一刀を振りかざした処刑人と、首を刎ねられる刑死者によく似ていた。

 ヘラクレイオスは、もとよりオルフェウスを真っ先に殺すつもりだった。

 最初に拳を汚すのは、最愛の者を奪った敵の血でなければならない。ほかの有象無象を始末するのはそれからでも遅くはないのだ。

 鉄拳の裁きを下すべく、ヘラクレイオスは最後の狙いをつける。


 まさに振り落とされるというところで、巨拳はそのまま静止した。

 闇の奥にあらたな気配を感じ取ったためだ。

 は”トゥリスの丘”の斜面を駆け、たったひとりで戦場に近づいてくる。

 やがて、荒れ果てた前庭テラスに降り立ったのは、艷やかな漆黒をまとった騎士であった。

 

「アレクシオス――――」

 

 誰ともなくその名を呼んだのにあわせて、血色の閃光が闇にまたたいた。

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