第164話 誰も殺させない

「……何をしに来た」


 低く重い声でヘラクレイオスが問うた。

 拳を高く構えたまま、視線だけをアレクシオスに向けている。


「貴様に出来ることは何もない。殺されたいなら、そこで待っていろ」


 アレクシオスは答えず、灰白色グレーの巨体へと足を踏み出す。


「聞こえなかったのか」

「おれの前で誰も殺させはしない。そのために、おれはここにいる」


 前庭テラスを満たす闇をかき分けながら、アレクシオスはなおも前進する。

 両者を隔てる距離は五メートルにも満たない。戎装騎士ストラティオテスにとって、その程度の距離はゼロに等しい。

 一方がその気になれば、一瞬のうちに間合いは消滅するはずであった。

 そうするあいだにも、アレクシオスとヘラクレイオスの距離はますます近づいていく。

 どちらも戦いの口火を切ることなく、とうとう漆黒と灰白色の騎士は、真っ向から対峙する格好になった。


「おれと戦え――ヘラクレイオス」


 アレクシオスの無貌の面を赤光が流れる。

 ヘラクレイオスは何かを言おうとして、足下で生じた異変に気づいた。

 両足の関節を破壊され、もはや身動きの取れないはずのオルフェウスがわずかに動いている。

 体内に残ったわずかなエネルギーを用いて”破断の掌”を駆動させ、石畳を抉っているのだ。

 オルフェウスの身体は徐々に沈み込みつつあるものの、その速度はあくまで緩慢だった。地中に潜行して逃れようにも、それを可能とするだけのエネルギーはもはや残っていない。


「何をしたところで無駄だ」


 アレクシオスに視線を向けたまま、ヘラクレイオスは冷たく言い捨てる。

 その言葉は、二人のうちどちらかに向けられたものでもなく、どちらに対しても向けられたものでもあった。


 黒い影が動いた。

 アレクシオスは地を蹴り、高々と宙空に身を躍らせる。

 赤い軌跡が上昇していくその下で、真紅の騎士はいっそう深く身を沈めつつあった。

 ヘラクレイオスは上方から襲いかかるアレクシオスを迎え撃つべく、あらためて拳を構える。

 オルフェウスを始末することはいつでも出来る。目の前で仲間を殺される苦しみを味わわせてからでも遅くはない。アイリスの生命を奪った相手には、その罪業に見合うだけの報いを受けさせる必要がある。


 と、重力に任せて落下を続けていたアレクシオスの身体が奇妙な軌道を描いた。

 両足の推進器を作動させたのだ。

 黒騎士は噴射炎の尾を引きつつ、ヘラクレイオスめがけて猛然と飛び込んでいく。

 ふいにヘラクレイオスの目交からアレクシオスの姿が消失した。イセリアに潰された右の視界に入ったためであった。

 戎装騎士ストラティオテスの視覚器は片側だけでも広大な視野角をもつ。それでも、広範囲に渡って器官を破壊されれば、死角が拡大するのは当然だった。


 刹那、ヘラクレイオスがとっさに繰り出した拳打は、むなしく空を切った。

 アレクシオスがまたしても軌道を変更し、大きく後退してヘラクレイオスから距離を取ったためであった。


「貴様……」


 ヘラクレイオスは唸るように呟いた。

 オルフェウスの姿が消え失せていることに気づいたとき、真紅と漆黒の騎士は、ともにヘラクレイオスから数十メートルも離れた空中にあった。


 あの瞬間――。

 アレクシオスが飛び込んでいったのは、攻撃を仕掛けるためではなかった。最初からオルフェウスを救出し、ヘラクレイオスの元から引き離すために、黒騎士は命がけの突撃を敢行したのだ。

 跳躍に先立ってアレクシオスの顔貌を流れた赤光は、オルフェウスへの無言の合図でもあった。”破断の掌”を作動させたのは、自力で脱出するためではなく、アレクシオスが拾い上げやすいように身体の位置を調整するためであった。


 まさしく薄氷を踏むような危うさの上に成り立った、それはたった一度だけの離れ業だ。

 もしわずかでもタイミングを見誤っていたなら、いまごろアレクシオスは巨拳によって跡形もなく打ち砕かれていたにちがいない。

 あるいは、一髪の差でオルフェウスの回収に失敗していたなら、おそらく二度と救出の機会は訪れなかっただろう。

 互いへの揺るぎない信頼と、みずからの生命を危険に晒す覚悟――。

 そのどちらかが欠けていても、望んだ結果は得られなかったはずであった。


 アレクシオスはオルフェウスを抱きかかえたまま、音もなく石畳に降り立つ。

 ”破断の掌”を使用したことによって、いよいよ体内に残っていたエネルギーが払底したのだろう。戎装を保てなくなったオルフェウスは、いつのまにか少女の姿へと戻っている。

 自力では歩くことの出来ないオルフェウスを支えながら、アレクシオスは気遣わしげに問いかける。


「大丈夫か?」

「アレクシオス、私――」

「分かっている。おまえはよく戦った。負い目を感じることなど何もない」


 アレクシオスはオルフェウスを手近な石柱にもたせかからせると、


「あとはおれに任せておけばいい。――エウフロシュネー!!」


 崩れた石柱の陰で息を潜めていた蒼騎士に呼びかける。


「オルフェウスとイセリアを連れて、すぐにここから離れろ」

「でも、それじゃお兄ちゃんが……」

「おれのことは心配いらない。いまは自分たちが生き延びることだけを考えろ」


 言って、アレクシオスは首だけで振り返る。


「……頼んだぞ」


 短い言葉には、一切の反論を峻拒する響きがあった。

 エウフロシュネーはこくりと頷くと、オルフェウスに駆け寄る。

 仲間たちに較べるとひと回り幼い少女も、やはり騎士であることには変わりない。この状況で自分に出来ることを見極め、迷いなく最善の行動を取るのは当然だった。

 気がかりなのはイセリアだ。

 アレクシオス一人をこの場に残して撤退することに彼女が首肯するとは到底思えない。

 たとえそれが他ならぬアレクシオス自身の頼みであったとしても、頑として自分も一緒に戦うと主張するはずであった。


「グズグズしている時間はない。あの二人を運べるのはおまえだけだ。やってくれるな、エウフロシュネー」


 念を押すように言われて、エウフロシュネーは遺跡の崩れた外壁をちらと見やる。

 ヘラクレイオスに吹き飛ばされてからというもの、イセリアはそこから動いていない。

 おそらく過大なダメージを被ったことで、一時的に意識を失っているのだろう。

 もしそうなら好都合だった。目覚めるまでにこの場所を離れてしまえば、イセリアは意地の張りようもないのだから。 


 エウフロシュネーがオルフェウスを背負った直後、地響きが前庭テラスを揺るがした。

 あくまで静かな足取りには、しかし、隠しようのない怒りが滲んでいる。

 凄愴な鬼気が夜を凍てつかせ、相対するすべての者に逃れられない死を突きつける。

 灰白色グレーの巨躯をそびやかして、ヘラクレイオスはゆっくりとアレクシオスたちに近づいてくる。


「どこへ行くつもりだ」 


 重く錆びた声は、金鎖かなぐさりのように聞く者を縛める。


「貴様らは一人残らずここで殺すと、そう言ったはずだ」


 アレクシオスは、エウフロシュネーとオルフェウスを庇うように立つ。


「奴はおれが食い止める。そのあいだにすこしでも遠くへ逃げろ」

「……アレクシオス、気をつけて」

「心配するな。おれも後からかならず追いつく」


 オルフェウスの言葉に、アレクシオスは力強く肯んずる。

 そのあいだにも、ヘラクレイオスとの距離はじわじわと縮まっている。

 半歩。

 どちらかが踏み込めば、そこが死地に変わる。


「まさか、逃げられるとでも思っているのか」

「貴様のほうこそ、さっき言ったことを忘れたのか。おれの前では誰も殺させない」

「くだらん――」


 言い終わるが早いか、ヘラクレイオスは忽然と消えた。

 石畳を蹴り、突進を仕掛けたのだ。

 巨体がアレクシオスめがけて急迫する。

 凄まじい摩擦が大気を灼き、引き裂かれた風が叫びを上げる。太く逞しい腕は、ただ敵を圧し潰すためだけに駆動する。巨大な質量が波濤のごとく押し寄せる。

 オルフェウスやカドライとは異なり、加速能力を持たないヘラクレイオスの動きは、アレクシオスにもことが出来る。


 だからこそ、恐ろしい。

 いまアレクシオスが直面するのは、はっきりと具象かたちを取った死であった。

 巨大な拳が自分の身体に叩きつけられ、五体を打ち砕く瞬間を、アレクシオスは否が応でも認識させられる。

 それは、意識が消失する最後の一瞬まで、想像を絶するほどの恐怖と苦痛、そして絶望を味わうということでもある。

 吹き荒れる殺意の嵐のなかで、アレクシオスはひとつの光景を見た。――自分が殺される、その瞬間を。

 脳裏にあざやかに描き出されたのは、装甲と黒血を撒き散らし、無残に破壊されたアレクシオス自身の姿であった。


 恐怖が身体を支配するより早く、黒騎士は動いていた。

 前方へ。まさに襲いかかろうとしているヘラクレイオスの拳へ。

 アレクシオスは躊躇いなく飛び込んでいく。

 その行動は、傍目には自殺行為としか映らなかったはずだ。

 避けようのない死を前にして正気を失い、みずから生命を絶とうというのか。

 右肩と額に灼けるような痛みを感じたのは次の瞬間だった。漆黒の装甲はみるまに剥ぎ取られ、大小の破片となって舞い上がる。


 


 アレクシオスはヘラクレイオスの脇をくぐるように側方へ抜けると、勢いもそのままに跳躍する。

 同時に、両手首からするどい銀光が迸った。槍牙カウリオドゥスを展開したのだ。

 推進器を作動させ、急降下に入ったアレクシオスは、ヘラクレイオスの頚椎めがけて槍牙を突き込む。

 ヘラクレイオスは上半身を旋回させ、右肘を高く掲げる。たんに攻撃を防ぐだけではない。左腕を用いた反撃までも考慮した、それは攻防一体の構えであった。

 アレクシオスが攻撃の成功を確信したときには、すでに逃げ場は失われている。

 巨拳は、今度こそ確実に黒騎士を葬り去る――そのはずだった。

 槍先がヘラクレイオスの装甲に触れる寸前、アレクシオスはふたたび推進器を全開し、大きく飛び退っていた。

 そのまま身体をわずかにひねり、軽やかに石畳に着地する。

 ヘラクレイオスは拳を下ろすと、アレクシオスを見つめ、問うた。 


「いまの攻撃、どうやって避けた」

「おれには自分が殺されるところが見えた。だから、ように動いただけだ」

「ほう――」


 感情のない声でヘラクレイオスは呟いた。

 敵のみごとな戦いぶりを称賛するのでもなければ、小賢しさを嘲笑う訳でもない。

 最強の騎士は、ひとつの事実を認識しただけだ。

 アレクシオスが自分と同等の演算能力を持っているということを。

 最弱の騎士と侮られながら、アレクシオスがここまで生き残ってきた理由を、ヘラクレイオスはようやく理解したのだった。

 つねに戦いの先を読み、自分自身の死さえも詳らかに再現シミュレートする――。

 死に至る経緯を把握していれば、それを回避するための手立てを講じることも出来る。ヘラクレイオスがオルフェウスとの戦いでそうしたように、アレクシオスもみずからの死を現実に先んじて体験することで、絶体絶命の状況を切り抜けたのだった。


「貴様への認識を改めねばならんようだ」


 言って、ヘラクレイオスはアレクシオスに向き直る。

 先ほどまで全身から発散されていた殺気は嘘みたいに霧散している。

 およそ戦場には似つかわしくない静謐な気が前庭テラスを満たしていく。

 ゆっくりと拳が上がった。

 ヘラクレイオスの巨躯がさらにひと回り大きくなったようにみえるのは、決して錯覚ではない。

 わずかに後じさったアレクシオスを見据えて、ヘラクレイオスは冷厳に告げる。


「――そうだとしても、結果は変わらん」

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