第165話 灰鬼悄然

「おれは、勝つために戦っている訳じゃない」


 アレクシオスはヘラクレイオスと向き合ったまま、ぽつりと言った。

 自暴自棄になって取り乱すでもなく、怒りと興奮に任せて叫ぶでもなく。

 あくまで静かな声色は、かえって言葉の裏に秘めた悲痛な決意を際立たせる。


「勝ち目がないことなど、最初から分かっている」

「ならば、なぜ戦う――」

希望のぞみを絶やさないためだ」


 アレクシオスは顔を上げ、決然と言い放つ。


「あいつらが生きていれば、未来に希望をつなぐことが出来る。いまは無理でも、おまえを倒せる可能性はこの世に残り続けるということだ」

「そうだとしても、貴様がそれを見届けることはない」

「すべて承知の上だ。――おれは、


 言いざま、アレクシオスの足が動いた。

 漆黒と灰白色グレーを隔てていた空間が急激に圧縮される。

 単純に体格だけを見較べれば、両者のあいだには大人と子供ほどの差がある。

 アレクシオスも決して華奢ではないが、磊々たる岩塊みたいなヘラクレイオスの巨躯を前にしては、いかにも細く頼りなさげにみえる。まともに組み合った瞬間、黒騎士はあっけなく捻り潰されるだろう。

 それでも、全身から発散する鬼気の凄まじさでは、アレクシオスはヘラクレイオスにいささかも引けを取っていない。

 アレクシオスの歩みには、みずからの死を受け入れ、それでもなお前進する者に特有の力強さがある。

 いま、少年は迷いもためらいも振り捨て、凄愴な覚悟とともに最後の戦いに赴こうとしている。


 たとえこの身が砕け散っても、一秒でも長くヘラクレイオスを足止めする――。

 みずからに課した使命を果たすために、アレクシオスは死線を越える。ひとたび越えれば二度とは戻れない、生死をわかつその一線を。


希望のぞみなど、どこにある」


 最後の間合いを詰めながら、ヘラクレイオスは吐き捨てる。

 ほとんど独り言のようなその言葉には、どこか自嘲するみたいな響きがあった。


「貴様らにも、この俺にも――この世界のどこにも、そんなものはありはしない」

「それでも、おれは信じている。生命を賭けるには、それだけで十分だ!!」


 先に踏み込んだのはアレクシオスだった。

 高度な演算能力を持つ騎士同士の戦いにおいて、勝敗を左右する最大の要因は、攻撃力でも速度でもない。

 先読みの精度だ。

 敵が取りうる行動を詳らかに予測し、より実際に近い結果を導き出した者が勝利する。地形を変えるほどの威力をもつ武器も、電光石火の敏捷性も、行動を読まれては意味をなさない。

 あらゆる騎士を圧倒するヘラクレイオスの膂力も、それだけでは最強にはほど遠い。卓越した演算能力と組み合わされることで、初めて能力は真価を発揮するのだ。


 そして――もうひとつ、先の読み合いを軸に展開される戦いには、通常の戦いとは決定的に異なる点がある。

 よほど速度で上回らないかぎり、ということだ。

 多くの場合、戦いでは先手を取った側が主導権を握る。巧遅よりも拙速が尊ばれるのは、そのほうがより勝利を得やすいためだ。

 一方、高度な演算能力を持つ騎士に対して先手を取ることは、敵に自分の動きを予測する材料を多く与えることを意味する。彼我の反応速度に顕著な差がなければ、後手に回る利益が勝るのは道理であった。


 アレクシオスはそんな先手の不利を理解しながら、あえて自分から攻撃を仕掛けたのだった。

 後手に回ったところで、ヘラクレイオスの拳をかわしきれる保証はどこにもない。アレクシオスの行動はすでに分析され、同じ手は二度と通用しないはずだ。回避に成功したという事実は、この戦いでは何の意味も持たない。

 それに加えてアレクシオスの背を後押ししたのは、不確かではあるものの、着実に芽生えつつある自信だった。

 ここに至って、アレクシオスの演算能力は目覚ましい成長を遂げている。

 自分でも気づくことのなかった才能は、幾多の強敵との戦いを通して蓄積された豊富な戦闘経験を土壌として、ついに大輪の花を咲かせようとしているのだ。

 それが生命の終焉を飾る花であったとしても、アレクシオスに後悔はない。


 イセリアとエウフロシュネー、そして、オルフェウスの顔が、アレクシオスの脳裏に浮かんでは消えていく。

 三人ともおのれの生命を顧みることなく、死力を尽くしてヘラクレイオスと戦った。今日の戦いに敗れたとしても、彼女らが生きているかぎり、未来が真の絶望に覆われることはない。

 アレクシオスに出来るのは、希望の灯火を絶やさないことだ。

 持てる力のすべてを傾け、ヘラクレイオスを止める。

 五体が砕け、血の一滴まで枯れ果てたとしても、最強の騎士から時間ときを奪い取ってみせる。

アレクシオスは我が身を一陣の黒風へと変え、ヘラクレイオスの内懐に飛び込んでいく。


 狙いをつけたのは、イセリアによって破壊された右の顔面だ。

 戎装騎士ストラティオテスの頭部には、視覚器センサーを始めとするさまざまな感覚器が密集している。騎士は首を斬り落とされたところで致命傷には至らないとはいえ、やはり重要な部位であることには変わりないのだ。

 いかにヘラクレイオスといえども、感覚器を破壊されては、もはや十全の戦闘能力を維持することは出来ない。

 すくなくとも、すでに戦場を離れつつあるオルフェウスらの追跡は断念せざるをえないだろう。

 ヘラクレイオスの顔面は、早くも自己再生能力によって修復が始まっている。

 もっとも、傷口を覆っているのは薄くやわい皮膜だ。その強度は装甲とは較べるべくもない。

 アレクシオスが槍牙カウリオドゥスを打ち込めば、たやすく頭部の奥深くまで貫通するはずであった。

 ヘラクレイオスの拳が動くより早く、アレクシオスは石畳を蹴っていた。

 大きく展開した推進器が青い炎を吐出し、黒騎士を一気に押し上げる。

 夜闇にするどい銀の軌跡を描いて右腕の槍牙が突き出される。


――とどけ!!


 アレクシオスは胸中で叫ぶ。

 自分自身の身体も、ヘラクレイオスの挙動も、すべては事前の読みどおりだ。

 これでいい。このまま事が運べば、アレクシオスの繰り出した攻撃は、ヘラクレイオスの頭部に甚大なダメージを与えるはずだった。

 むろん、ヘラクレイオスが防戦一方に甘んじるはずはない。

 攻撃に合わせて、強烈な反撃カウンターを見舞ってくるだろう。

 おそらく避けきれない。それは、当のアレクシオス自身が誰よりもよく分かっている。

 ヘラクレイオスに与える痛手は千金に値する。その代償と思えば、何を失ったとしても惜しくはない。

 どうあれ、アレクシオスは生命尽きるその瞬間まで抗い、最強の騎士を”トゥリスの丘”に釘付けにするつもりだった。


 槍牙が傷口に触れようかという瞬間だった。

 眼前に生起した信じがたい光景に、アレクシオスはおもわず我が目を疑った。

 ヘラクレイオスは迫りくる槍先を避けるどころか、首を前方に大きく傾けたのだ。


「――――!?」


 驚嘆の声を上げる暇もなく、槍牙はあっけなくヘラクレイオスの頭部を貫通していた。

 一見すると、攻撃はこれ以上ないほどの成功を収めたようにみえる。

 にもかかわらず、アレクシオスの背筋を冷たいものが走り抜けていくのはなぜか。

 槍牙の入射角が当初想定していた位置とはかけ離れていたためだ。

 偶然などではない。

 ヘラクレイオスは自分からすすんで攻撃を受けることで、命中点をコントロールしたのだ。


 アレクシオスが左の槍牙を振るったのは、ほとんど反射的な動作だった。 

 ヘラクレイオスへのさらなる追い討ちのためではない。

 のだ。

 そうしていなければ、時をおかずに襲いかかったヘラクレイオスの反撃をまともに受け、アレクシオスの全身は無残に粉砕されていたはずであった。


「くっ……!!」


 そのまま十メートルあまり飛び退ったあと、アレクシオスはふたたび構えを取る。

 乾いた石畳に斑斑と黒い点が落ちた。

 右腕の切断面からたえまなく滴る黒血だ。みずからの血に濡れた漆黒の装甲は、美しくも凄惨な輝きを帯びている。

 ヘラクレイオスは、頭部に突き刺さったアレクシオスの右腕を無造作に引き抜くと、そのまま足元に叩きつける。砕けた装甲が同色の闇に呑まれていくなかで、槍牙の銀光だけがやけに鮮やかだった。


「……これで終わりか?」


 アレクシオスを見下ろして、ヘラクレイオスはこともなげに言いのける。


「貴様の浅知恵など、しょせんこの程度でしかない」


 ヘラクレイオスの頭部を貫いた槍牙は、密集した感覚器センサーの間隙をすり抜けていった。

 凄絶な見た目に反して、視覚も聴覚も依然として無傷のままだ。

 ヘラクレイオス自身がそうなるように計算し、みずから攻撃を受けることでダメージを軽減した結果であった。

 アレクシオスの決死の攻撃は、ヘラクレイオスに痛手を与えるどころか、自分の右腕を失うだけに終わったのだった。


「終わりだ、アレクシオス。貴様に出来ることは何もなくなった」

「まだ……だ……」

「これ以上俺の手を煩わせるな」


 ヘラクレイオスの声には、静かな怒気が漲っている。

 それも当然だ。

 ここで足止めを食らっているのは、ヘラクレイオスにとっても不本意なのだから。

 ヘラクレイオスの憎悪は、もっぱらアイリスを手にかけたオルフェウスに向けられている。あと一歩というところで逃走を許したうえに、追撃に移ることも出来ないとなれば、やり場のない怒りを募らせたのも道理だった。

 ふだんは決して感情を表に出さないヘラクレイオスも、沸き起こる激情をいよいよ御しかねているようであった。


「おれはまだ生きている。戦いはまだ終わっていない」

「無駄だ」

「なぜ、そう言える――」

「貴様は片腕を失った。この意味は分かっているはずだ」


 言い切ったヘラクレイオスに、アレクシオスはそれきり二の句を継げなかった。

 右腕を失ったということは、たんに最大の武器の一方を失ったというだけではない。

 アレクシオスが取りうる戦術の幅が大きく狭まったということだ。

 左腕はいまだカドライとの戦いのダメージから回復しきっていない。どう器用に扱ったところで、自ずと限界は見えている。

 ヘラクレイオスの演算能力を以ってすれば、これからアレクシオスが取りうる行動をことごとく予想することも出来るはずだ。すべての挙動を見通されているのでは、悪あがきのしようもない。

 背に腹は代えられない状況であったとはいえ、アレクシオスは右腕を切断したことを悔やまずにはいられなかった。

 こうなっては、もはやヘラクレイオスの足止めなど不可能だ。

 高度な演算能力に覚醒したアレクシオスは、まさにそれゆえに、もはや打つ手がなくなったことを認識させられたのだった。


「死ぬためにここにいる――たしかに、そう言ったな」


 灰白色グレーの巨人は、荘重な足取りでアレクシオスに近づく。


「その望みを叶えてやる」


 ヘラクレイオスが拳を構えた。

 かつてない危機を前にして、アレクシオスは呆けたように佇んでいる。

 恐怖のあまり戦意を喪失したのか。あるいは、自分の役目が終わったことを悟り、従容と死を受け入れるというのか。

 いずれにせよ、その瞬間はまもなく訪れる。

 アレクシオスは、もはや抗うことも逃れることも出来ないはずだった。

 巨大な質量が動き、闇の天地がおおきく揺らいだ。

 耳を聾する破壊音は、”トゥリスの丘”だけでなく、ガレキアの市街地まで達した。

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