第166話 荒野の少女たち
その音を、エウフロシュネーの翼ははっきりと聴いた。
翼を形作る無数の小装甲が、大気の微かな振動を捕捉したのである。
大気を掴むだけでなく、その状態を詳らかに把握する
それが何の音であるかは、考えるまでもなかった。
ヘラクレイオスの巨拳が叩きつけられる轟音と衝撃――。
ほんのすこし前まで自分に向けられていたおそるべき猛威は、忘れたくても忘れられるものではない。
思い出すだけで身体の奥底がしんと冷えていく。戦場で目の当たりにした
このさき生き延びたとして、その恐怖が消え去ることは決してないだろう。
いま、エウフロシュネーはオルフェウスとイセリアを抱えたまま、ガレキアから五十キロ西北の上空を飛んでいる。
二人分の重量が加わっているということもあり、その飛び方は普段のエウフロシュネーとはまるでかけ離れたものだ。高度も速度も安定せず、推進器は時おり咳き込むみたいな音を立てている。
それでも、ここまでよく保ったと言うべきであった。
ヘラクレイオスとの戦いで受けたダメージによって、エウフロシュネーの翼と推進器は、どちらもひどく損傷している。二基の推進器の片方はほとんど機能を停止し、翼には無数の亀裂が走っている。
”
ヘラクレイオスからすこしでも離れるために――そして、自分たちを逃がすためにたった一人で戦場に残ったアレクシオスの想いに応えるために。
その一念が、エウフロシュネーをここまで支えたのだった。
眼下には、この地方に特有の荒涼とした景色が広がっている。
白茶けた土がむき出しになった大地には、枯れ木と砂岩のほかには目につくものもない。
いまにも消え入りそうな細い線は、ガレキアから伸びる唯一の道路だ。そこにも人馬の姿は見当たらなかった。夜の荒野を支配するのは、いまなお残る暑気と、寂寞たる闇であった。
このままさらに百キロほど西に進めば、やがて土はより細かな砂粒へと変わり、『帝国』最西端の砂漠地帯に差し掛かる。
そこは、ごく少数の土着部族を除いて、ほとんど人の住まない僻遠の地であった。
エウフロシュネーが主要な道路や街のある方角を避け、
ヘラクレイオスの追跡を警戒しているのだ。移動速度ではエウフロシュネーに遠く及ばないものの、すぐれた演算能力を用いて逃走経路を分析し、現在地を割り出す程度のことは難なくやってのけるはずであった。エウフロシュネーがいずれ飛行不能に陥り、その回復にはかなりの時間を要するということも、敵はすでに把握しているにちがいない。
味方と合流するために帝都イストザントの方向に逃げるのが最も合理的であり、なおかつ蓋然性の高い選択ということになる。
だからこそ、エウフロシュネーはあえて帝都方面とは真逆に針路を取り、
一分一秒でも長く時間を稼げば、それだけイセリアとオルフェウスを回復させることが出来る。
唯一の切り札であるオルフェウスが万全の状態に近づくほど、ヘラクレイオスに勝てる可能性も高くなるのだ。
みずからの役目を果たすべく奮起するエウフロシュネーの胸に、重くわだかまるものがある。
アレクシオスのことだ。
あのあと、少年がどうなったかは、あえて考えないようにしていた。
考えたところで、いまさら何が出来る訳でもない。
いまは自分のなすべきことに全力を注ぐ――頭では理解していても、抑えきれない感情が止めどもなく胸を埋めていく。
それは、エウフロシュネーの腕のなかでじっと息を殺しているオルフェウスにしてもおなじはずだった。イセリアがまだ意識を取り戻していないのは、三人が逃避行を続ける上では好都合でもあった。
エウフロシュネーが大きく姿勢を崩したのはそのときだった。
間髪を入れず、右の翼で何かが裂けるような音が生じた。
愕然と首を巡らせたエウフロシュネーの視界に映ったのは、ほとんど千切れかかったみずからの翼であった。
傷ついた翼は二人分の荷重量に耐えきれず、とうとう断裂に至ったのだ。
こうなっては、もはや飛行を続けることは出来ない。
エウフロシュネーはまたたくまに高度を失い、イセリアとオルフェウスを抱えたまま地表に叩きつけられる。
土煙に巻かれ、砂岩に叩きつけられながら、エウフロシュネーは決して二人を放そうとはしなかった。
身体にまとわりつく土を払い、エウフロシュネーはゆっくりと立ち上がる。すでに戎装は解けている。戦闘形態を維持するだけのエネルギーさえもはや残っていないのだ。
そして、それはイセリアとオルフェウスも同様だった。
「二人とも、大丈夫――」
言いさして、エウフロシュネーは息を呑んだ。
イセリアに足首を掴まれたためだ。
「お姉ちゃん、気がついたんだね。よかった――」
「……アレクシオスは?」
イセリアは顔を伏せたまま、血を吐くような声で問うた。
「アレクシオスはどうしたのよ」
「それは……」
「まさか、あたしたちだけで逃げてきたなんて言うんじゃないでしょうね」
「そう、だよ――――」
ほんの一瞬前まで全身をたえまなく苛んでいた痛みが、いまは懐かしい。
それ以上の痛みが
「お兄ちゃんは、私たちを逃がすために一人で残ったんだ」
「なんで……」
「そうしてくれなかったら、今ごろ私たちはみんなヘラクレイオスに殺されてたよ。私たちは手も足も出なかった。それは、お姉ちゃんだって分かっているよね」
イセリアは何も言わず、顔を地面につけたまま微動だにしない。
泣いているのか、怒りと悔しさに唇を噛んでいるのか……いずれにせよ、表情を見られまいとしているのはおなじだった。
そんなイセリアに、オルフェウスは腹ばいになったまま、動かない両足を引きずって近づいていく。
「イセリア――」
「あんた、アレクシオスを止めなかったの?」
「……うん」
「たった一人で置いていけばどうなるかくらい、あんただって分かってるでしょ。あたしと違ってあんたなら止められたはずよ」
「分かってた――だけど、止めなかった」
例によって抑揚に欠けた声で、オルフェウスは訥々と言葉を紡いでいく。
「私はアレクシオスを信じているから……」
「それが言い訳になるとでも思ってるの!?」
イセリアは顔を上げ、オルフェウスを睨めつける。
土に汚れた少女の顔には、涙の痕跡がありありと見て取れる。赤く腫れた目尻は、まだ乾ききっていない。
「信じてれば、死ぬと分かってて置き去りにしても許されると思ってるのかって聞いてんのよ!!」
「それがアレクシオスの望んだことだから――」
「だったら、あんただけ連れていけばよかったのよ……なんであたしまで……あのまま放っておいてくれたら、一緒に死ねたのに……」
イセリアの双眸からは堰を切ったように涙があふれ、乾いた土を濡らしていく。
「あんたたちにあたしの気持ちなんて分かるはずない。好きな人と死に別れるくらいだったら、一緒に死んだほうがずっとマシよ。心から人を好きになったことがなければ、そんなこと分かりっこないわよね」
「……分かるよ」
「なんでそんなことが言えるのよ」
「私も、アレクシオスのことが好きだから」
イセリアは一瞬目を皿みたいに見開いたあと、オルフェウスの顔をまじまじと見つめる。
白皙の肌はすっかり薄汚れ、亜麻色の髪は砂埃にまみれているが、秀麗な美貌にはわずかな翳りもない。
「好き」――薄桃色の唇から出たその言葉を、イセリアはたしかに聞いた。
イセリアの動揺など知る由もないというように、オルフェウスはなおも続ける。
「だから、アレクシオスの思う通りにしてあげたかった。アレクシオスは私たち三人を逃がそうとしてくれた。イセリアだけ置いていったら、きっと悲しんだと思う」
「……死んじゃったら、悲しむもなにもないでしょ」
「死なないよ――アレクシオスは、きっと私たちのところに帰ってくる」
常と変わらず無感情なオルフェウスの言葉は、しかし、揺るぎない信頼に裏打ちされていた。
「別れるとき、アレクシオスはあとでかならず追いつくと言ってた」
「言ってたから、って……」
「イセリアは、アレクシオスが約束を破ると思う?」
オルフェウスの問いかけに、イセリアはそれきり黙り込む。
三人のあいだに重い沈黙が流れた。
痺れを切らしたように立ち上がったのはイセリアだ。
「あー、もうっっ!!」
イセリアはよろけながら、なんとか体勢を立て直すと、周囲をぐるりと見回す。
「いつまでもこんなところに寝転がってても埒が明かないわ!! エウフロシュネー!!」
「な、なに?」
「この辺に休めそうなところないの? あんた、空からいろいろ見えてたはずでしょ」
「そういえば、あっちのほうに何軒か家が見えたよ。たぶん、このあたりの村だと思う。そこなら身を隠せるかも……」
「決まりね。ほら、あんたも行くわよ」
言うが早いか、イセリアは手首のない右腕でオルフェウスを軽々と担ぎ上げる。
オルフェウスはいまだ歩行機能が回復していない以上、誰かが運んでいかねばならない。イセリアがその役目を買って出たのは意外であった。
「ありがとう、イセリア」
「べつにあんたにお礼言われる筋合いはないわ。これもアレクシオスのためよ。そこんとこ、勘違いしないでほしいわね」
エウフロシュネーはおそるおそるイセリアの顔を覗き込む。
「お姉ちゃん、もう怒ってない?」
「怒るって、何によ?」
「お兄ちゃんを置いてきちゃったこと――」
「ちっとも怒ってないって言ったら嘘になるけど、あたしがアレクシオスを信じなくてどうするのよ。言っとくけど、一番アレクシオスのことを好きなのはあたしよ。誰かさんには負けたくないもの」
力強く言い切ったイセリアに、エウフロシュネーはおもわず相好を崩す。
その言葉は、無造作に担ぎ上げられているオルフェウスの耳にも届いているはずだ。
それぞれの胸に仄かな希望を抱いて、三人の少女は、夜の荒野に一歩を踏み出していった。
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