第167話 決着
「解せんな――」
拳を引きつつ、ヘラクレイオスは問うた。
鉄のような声であった。その声が紡ぐ言葉の一つひとつも、やはり重い。
「なぜ、避けた?」
ふたたびの問いかけにも、しかし、返答はなかった。
「あのままじっとしていれば、楽に死ねたものを。貴様の役目はもう終わった。これ以上戦ったところで、苦しみが長引くだけだ」
言いざま、ヘラクレイオスはアレクシオスを横目に見る。
黒騎士は十メートルほど離れた石畳の上に佇んでいた。
あの瞬間――。
ヘラクレイオスが拳を叩きつける寸前、アレクシオスはわずかに身体を反らし、間一髪のところで直撃を回避したのだ。
攻撃を躱すうえで最も肝心なのは、敵に行動の始点を悟られないことである。アレクシオスはぎりぎりまで回避を遅らせることで、吹きすさぶ殺意の嵐をかいくぐったのだった。
危険な賭けであったことは言うまでもない。
戦いを通してヘラクレイオスに伍する演算能力に覚醒したとはいえ、成功する確率は
アレクシオスが迫りくる巨拳を避けおおせたのは、まさしく僥倖というほかない。
それでも、死を免れた代償は、決して小さなものではなかった。
「――――」
アレクシオスの足元には、黒々とした血溜まりが広がっている。
人間の血とはあきらかに異なるそれは、
みずから斬り落とした右腕の傷口は、すでに塞がっている。
あらたにおびただしい黒血を吐き出しているのは、奇妙に形を変えた右足であった。
本来左右対称であるはずの両足は、ひどくアンバランスな
左足に較べると、右足は三分の二ほどの太さしかない。
太腿から脹脛にかけてごっそりと装甲が剥ぎ取られているためだ。無残にささくれだった断面は、装甲に加えられた衝撃と圧力の凄まじさを物語っている。
ヘラクレイオスの拳は、アレクシオスの傍らを通過する際、わずかに右足を掠めていった。
衝突とも呼べない、触れるか触れないかという程度の接触。たったそれだけで、アレクシオスの装甲は、水を含んだ粘土みたいにやすやすと削ぎ落とされたのだった。
恐るべきは、ヘラクレイオスの拳圧の凄まじさであった。
「いい加減に諦めることだ。その身体で何が出来る」
「まだ……だ。おれは、まだ……」
「無駄だと言っている」
ヘラクレイオスはふたたび拳を構える。
半死半生の敵を前にしてに、
どれほど格下の相手だろうと、ひとたび戦場で相まみえた以上は、最後の瞬間まで決して手を抜くことはない。みずからの強さに胡座をかくことも、増上慢に陥ることもない。
敬虔な
それこそがヘラクレイオスを真に最強の騎士たらしめている所以なのだ。
大地を踏みしめ、屹然と立つその姿には、悠久の風雪にも揺るがぬ山脈の風格がある。
対するアレクシオスは、ほとんど精神力だけで身体を支えているようなありさまだった。
右足の
まさしく満身創痍であった。
右腕は肘から失われ、左腕にはカドライとの戦いで受けた生々しい傷痕が刻まれている。唯一目立った損傷のない左足も、それだけで何が出来る訳でもない。
万事休す――。
次の一撃は、どう足掻いたところで避けられない。
敗北も、死も、最初から覚悟の上で戦いに臨んだはずだった。
最強の騎士を相手に、最弱の騎士がここまで生き永らえたことは、ほとんど奇跡と言っていい。
本来ならとうに決着していたはずの戦いがこれほど長引いたのは、アレクシオスとヘラクレイオスのどちらにとっても予想外であった。
だが、どれほど奇跡を重ねたところで、結果を覆すことは出来ない。
最強の壁はあくまで厚く、高く、アレクシオスの前にそびえている。戦えば戦うほど、彼我のあいだに横たわる残酷なまでの実力差を思い知らされる。
あらためて突きつけられた現実は、肉体の苦痛にもましてアレクシオスを打ちのめしたのだった。
(そうだとしても、おれは――)
アレクシオスは顔を上げ、ヘラクレイオスをまっすぐに見据える。
恐怖が五体をがんじがらめに縛り上げ、威圧感に押し潰されそうになる。
それでも前を向くのは、最後まで戦いから逃げないという意思表示でもあった。
わずかでも視線をそらせば、その瞬間に
大地が揺らいだ。
巨大な質量がゆっくりと近づいてくる。
重厚な足音を伴って、逃れがたい死はすぐそこまで迫っている。
絶望に塗られていく視界のなかで、アレクシオスはそれを見た。
分厚く堅牢な装甲に穿たれた、針穴のごとき空隙。
幻などではない。それは
オルフェウスが”破断の剣”を突き入れた際に生じた破孔であった。
もう一歩というところで致命傷には至らなかったものの、
”破断の剣”は、原型である”破断の掌”と同様、微細な刃によって触れた物体を跡形もなく消滅させる。
そのようにして周辺の組織ごと失われた傷は、通常の傷よりもはるかに治癒が遅い。
(これが最後か――)
アレクシオスは左腕を胸の高さに持ち上げ、構えを取る。
それだけの動作がひどく億劫に感じられるのは、ほとんどエネルギーが尽きかけているためだ。
それに加えて、累積したダメージもある。
手足が意のままに動くのは、せいぜいあと数分といったところだろう。
動いても、動かなくても、結果は変わらないはずだった。
ならば――と、アレクシオスは足を踏み出す。
ヘラクレイオスを軸として、ゆるく右回りの弧を描くように旋回していく。
「……なんのつもりだ」
ヘラクレイオスの問いには答えず、アレクシオスは無言のまま、なおも動き続ける。
伸び切った弧が半円を描くかというところで、アレクシオスはふいに足を止めた。
同時に、ざり――と足下で硬い音が鳴った。
これまでの戦いで砕け散った装甲片を踏んだのだ。
アレクシオスが立つのは、さまざまな色の破片が散乱する一角であった。
灰と漆黒の騎士は、三メートルあまりの距離を隔てて対峙する。
ここまでヘラクレイオスが攻撃を仕掛けてこなかったのは、むろん温情ゆえではない。
アレクシオスを仕留めるのに万全を期すためであった。
事を急いて仕損じては、かえって時間を無駄にすることになる。一刻も早くオルフェウスを追撃せねばならないところを、ただでさえ足止めを食っているのである。アイリスの無念を晴らすためにも、いつまでも目の前の相手にかかずらっている暇はない。
表面には出さないものの、アレクシオスのしぶとさには、ヘラクレイオスも多少の驚嘆を覚えている。
油断のならぬやつ――。
そのような敵だからこそ、確実に息の根を止めなければならない。
***
空気がにわかに粘性を帯びはじめた。
宇宙開闢以来、決してたゆまぬはずの
先ほどまでの苛烈な闘争が嘘であったかのように、
実時間にして、わずか数秒。
死生の
あざやかな光芒が流れた。
先に動いたのはヘラクレイオスだった。
石畳を踏み砕かんばかりの勢いで巨体が猛進する。
眼前の敵をこの世から消し去る――ただそれだけのために、最強の騎士は躍動する。
どちらにとっても、これが最後の攻撃になるはずだった。
ざり――と、巨大な足に踏み砕かれた装甲片が悲鳴を上げた。
足下で生じた雑音など意に介さず、ヘラクレイオスはひたすら前に出る。
アレクシオスは左腕の槍牙を構えたまま、その場から一歩も動こうとはしない。
自分から動くには、あまりにも消耗しすぎている。
わずかに残った力を叩きつける一瞬を見極めるつもりなのだ。
(この一撃に、おれのすべてを賭ける――)
巨拳が夜気を裂いた。
音の速度を超えた拳は衝撃波を生み、仮借ない烈風が黒騎士を叩く。
刹那、ヘラクレイオスの目交に映じたのは、信じがたい光景であった。
アレクシオスは瞬時に戎装を解き、人間の姿へと戻っていた。
それだけではない。
その双眸は固く閉ざされている。少年はみずから視覚を断ったのだ。
狂ったか――。
敵がみせた不可解な行動にも、ヘラクレイオスの拳はけっして止まることはない。
ただひたすらに圧し、叩き、潰す。
すべてはあらかじめ決まっていたことだ。
すでに必殺の間合いに入っている。アレクシオスが何をしようと、何も出来ないはずだった。
アレクシオスが動いた。
ヘラクレイオスの拳が身体に触れようかというとき、少年は、ふたたび黒騎士に
ヘラクレイオスの右拳と、アレクシオスの左腕が中空で交差する。
両者の攻撃の速度はほとんど等しい。
アレクシオスの槍牙のほうがわずかにリーチが長い。それも、有利とは呼べないほどの僅差であった。
アレクシオスは、このときのために力を温存していた。
戦いの最中にもかかわらず戎装を解き、両目を固く閉ざしていたのも、むろん理由あってのことだ。
多くの高等動物において、視覚は感覚のなかでも最も重要なものとして位置づけられている。
人間が五感を通して認識するさまざまな情報のうち、視覚が占める割合は全体の八割以上にも及ぶのだ。
その点においては、
だが、多くの情報が取り込まれるということは、それを処理するために多大な負荷が生じることをも意味している。平時であれば無視出来る程度だが、寸秒を争う戦闘中となれば、その差が生死の分水嶺となる。
アレクシオスがみずから視覚を閉ざしたのは、その負荷を軽減するためにほかならない。
戦いにおいて最も重要な感覚を捨て去る――無謀であることは、当のアレクシオスが誰よりもよく分かっている。
たとえ一瞬でもヘラクレイオスを凌駕するためには、それだけではまだ足りないことも。
戎装を解いたのは、負荷の原因となるあらゆる機能を停止させるためだ。
そうして捻出した処理性能の余剰を演算能力に回すことで、アレクシオスはこれまでになく正確な未来予測を可能としたのだった。
すべては、最後の一撃を完璧なものとするために。
少年は何もかもをなげうち、一か八かの賭けに出たのだった。
***
次の瞬間、アレクシオスの身体を激しい痛みが襲った。
真っ赤に焼けた鉄を押し付けられたみたいな灼熱感が全身を貫く。
摩擦によって超高温を帯びた拳は、アレクシオスの装甲をあっけなく打ち砕き、その生命を断つ――。
ヘラクレイオスも、そしてアレクシオスも、演算能力によって導き出された結論は同じだった。
二人の騎士がまったく同様の結論に達したなら、それはたんなる予測ではなく、近い将来かならず生じる事実を意味する。
確定したはずの未来は、しかし、ついに現実のものとはならなかった。
アレクシオスは、身体を灼いていた熱がふいに失せるのを感じた。
痛みはまだ残っている。
それは必ずしも悪い結果を意味しない。
痛みを感じることが出来るのは、生きている証でもあるのだから。
アレクシオスは、おそるおそる自分の身体を見やる。
圧力によって装甲はひどく歪んでいるものの、致命的な破壊には至っていない。
何が起こったのか?
見上げた視線の先で、
拳とアレクシオスを隔てるのは、数ミリにも満たないわずかな空隙だけだ。
「ぬう――」
ヘラクレイオスが漏らしたのは、まぎれもない苦悶の声だった。
強引に立ち上がろうとして、巨人は耐えかねたように片膝を突く。
その動きに引きずられるように、アレクシオスも大きく姿勢を崩していた。
アレクシオスが突き入れた左の槍牙は、ヘラクレイオスの胸の破孔を過たず貫いていた。
わずかなリーチの差――それが明暗を分けた。
槍先はオルフェウスの”破断の剣”よりもさらに深く、騎士の全機能を司る中枢部に達している。
強力な再生能力を持つ
それは、ヘラクレイオスとて例外ではない。
「……どうしておれを道連れにしなかった」
アレクシオスは、ヘラクレイオスを見据えて、問うた。
「あのまま拳を叩きつけていれば、おれを殺すことは出来たはずだ。情けをかけたのか!?」
「……どう思おうと、貴様の好きにするがいい」
ヘラクレイオスはやはり重く錆びた声で言った。
「貴様は勝ち、俺は負けた――ただ、それだけのことだ」
「そんな答えで納得出来ると思うのか!?」
「敗者は言葉を持たん」
ヘラクレイオスの言葉には、反論を許さぬ強い意志が込められていた。
敗れ去った者は、戦いの結果について何も語ることはない。
これまでヘラクレイオスが葬ってきた者たちがそうであったように。
最強の称号も、無敗の名声も、致命的な敗北の前にどれほどの意味を持つだろう。
いまや自分も一人の敗残者でしかないという現実を、ヘラクレイオスは従容と受け入れている。
「……おれは、おまえに勝ったとは思っていない」
「好きにしろと言ったはずだ。俺にはもう関わりのないことだ」
「逝くのか――」
アレクシオスの声はかすかに震えていた。
あれほど恐ろしかった敵が。
対峙するだけで骨まで凍てつくようだった敵が。
最も多くの
いま、自分の目の前でその生命を終えようとしている。
「もう、この世に留まる意味もなくなった」
途切れ途切れにヘラクレイオスは言葉を紡いでいく。
無貌の面を流れる光芒はすこしずつ弱まり、不規則な明滅を繰り返す。
アレクシオスは拳を握りしめる。
言葉を持たないのは、敗者だけではないのだ。
「だから、これで、いい――」
最後の光が流れていったのと、ヘラクレイオスが沈黙したのは、ほとんど同時だった。
物言わぬ鋼鉄の
傷だらけの巨体は何も語らない。気高い魂がどこへ旅立ったのかも、また。
その傍らに佇むアレクシオスの胸に去来するのは、最強の敵をみずからの手で打倒した歓びでも、最大の危機を脱した安堵でもなかった。
索漠たる思いが胸に広がっていく。
あるいは、言葉にしがたい喪失感――どちらも勝利の感慨とはほど遠いものだ。
無理に心を奮い立たせても、とても快哉を叫ぶ気にはなれなかった。
「……終わった、のか」
戎装を解いたアレクシオスは、誰にともなく呟く。
声は夜空に溶けるはずだった。
場違いな拍手の音が
「見事な戦いぶりだったよ――アレクシオス。さすが僕が見込んだだけのことはある」
アレクシオスは、とっさに声のしたほうに視線を向ける。
神殿の奥で白い影が揺らめいた。
ローブの裾をはためかせ、悠揚迫らぬ足取りで近づいてくる。
痛みをこらえて立ち上がったアレクシオスは、あるかなきかの声で呼んだ。
忘れようもない、その名前を。
「……ナギド・ミシュメレト」
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