第168話 もうひとつの戦い

 淡い闇が廊下を満たしていた。

 完全な暗闇とまでは行かないのは、数メートルおきに壁にかけられた燭台のおかげだ。

 獣脂が燃える際に生じる独特の悪臭も、四囲を闇に閉ざされることに較べればどうということはない。


 いま、燭台の火に照らされ、廊下に伸びた影はふたつ。

 先頭を行くのは、堂々たる体格の東方人の男だった。

 暗褐色の肌にはおびただしい古傷が刻まれている。どれも堅気かたぎの世界ではつくはずのないものだ。傷痕からじわじわと漏れ出すような殺気は、当人もあえて隠すつもりはないらしい。


 その後ろにぴたりと張り付くように進むのは、西方人の青年であった。

 女と見紛う華奢な体躯、青白い肌、色の薄い金髪……。

 文官の正装に身を固めながら、その穏やかな佇まいは、秋霜烈日たる『帝国』官僚のイメージとはほど遠いものだ。

 容貌も、身にまとう雰囲気も、先を行く男とは何もかもが対照的だった。

 なんとも奇妙な取り合わせの二人は、言葉をかわすこともなく、黙々と廊下を進んでいく。


「……ここだ」


 東方人の男はふいに立ち止まると、背後の青年に呼びかけた。

 無愛想に指さした先には、半円形のアーチを描くドアがある。

 男が拳で叩くと、扉は見た目に違わぬ重厚な音を返した。


「大親分、例の客人をお連れしました」

「おう――」


 扉の向こうから野太い声が応じた。

 短い返答は、むろん入室を許したことを意味している。


「ここから先は一人だ。分かっているとは思うが、もし妙な真似をしたら……」

「ご心配には及びません」


 青年は男を見据えると、あくまで毅然と言い切った。


「私は交渉に来たのです。それ以外のことなど、出来ようはずもありません」


 先ほどとは別人のような青年の言葉に、男の面上に驚きの色がよぎった。

 それも一瞬だ。男は逞しい身体をその場で反転させ、つかつかと廊下を引き返していく。

 しばらく進んだところで、男は顔だけで振り向いた。


「余計なお世話だろうが……無駄な骨折りだぞ」

「そうだとしても、私がすることに変わりはありませんよ」

「せいぜい親爺オヤジの怒りを買わんように気をつけることだ」


 男の声には、心底からの同情の響きがあった。

 今しがた会ったばかりの青年のことをことさらに気にかける理由は、男にはむろんない。

 それでも、これから彼を待ち受ける運命を思えば、自然と同情心が湧き上がってくる。男もまた、いまなお昔気質が残るといわれるガレキアの侠客やくざの一人であった。


 青年――ヴィサリオンは、ゆっくりと扉を押し開いていく。

 ひどく重い。材質は木だというのに、まるで石みたいに感じられる。

 はたして物理的な重量だけが理由なのか。

 そうではないことは、当のヴィサリオン自身がよく分かっている。

 この先で自分を待っている人間が、何の変哲もない木の扉をそこまで重く感じさせているのだ、と。


***

 

 アレクシオスたちがガレキア市内に潜入するすこし前――。

 すげなく拒否されると思われた開城交渉の打診は、意外にもすんなりと受諾された。

 その直後、中央軍の帷幄いあくに交渉の条件が伝えられるや、つかの間漂った楽観的な雰囲気はあっけなく消散した。

 反乱軍が交渉の全権を委ねたのは、ガレキアを取り仕切る地下勢力の頭目であったからだ。

 名をアフメドという。

 表向きは二十年あまり商業組合ギルドの会頭を務める地元の名士ということになっている。その正体がガレキアとその周辺に隠然たる勢力をもつ大侠客であることは、この地域では公然の秘密でもあった。


 中央軍の将校たちが激怒したのも無理からぬことであった。

 東方人と同じテーブルにつくというだけでも屈辱的だというのに、相手方の代表者が、よりによって法の外に生きる侠客やくざだとは。

 『帝国』と地下勢力は決して相容れない――建前としてはそうなっている。

 そして、建前と実態は、しばしば皮肉なほどに乖離するものだ。

 こと辺境においては、国家と地下勢力はの共生関係にあるのが常だった。

 広大な国土の隅々まで張り巡らされた官僚制度も、日々発生する事件や訴訟のすべてに対応することは出来ない。正規の官吏だけで切り回すには、この国はあまりにも大きすぎるのだ。

 住民同士の些細ないざこざを調停し、訴訟に発展する前に手打ちを図る……。

 傷病人や寡婦、孤児を保護し、働き口を斡旋する……。

 逃亡した犯罪者を捜索し、官憲に引き渡す……。

 これらの例は、ほんの一部にすぎない。

 本来ならば国家が担うべき職務のうち、かなりの部分が地下勢力に委ねられているのが現実なのだ。

 もし彼らがいなければ、地方行政は過大な負担によってたちまちに機能を喪失し、皇帝の支配は立ち行かなくなる。

 そうした貢献への見返りとして、『帝国』は高利貸しや売春宿の経営、『西』との密貿易といった数々の非合法行為を黙認しているのだった。

 反乱軍の蜂起によって表の権力が壊滅したガレキアで、もうひとつの権力である地下勢力が入れ替わりに台頭したのは、当然の帰結といえた。

 だが、社会においてどれほど重要な役割を担っていたとしても、しょせん闇は闇でしかない。

 いかに近隣では並ぶ者のない権勢をほこる大侠客であろうとも、陽の差さない世界の住人であることには変わりないのだ。

 国家から正式な官位を与えられることもなければ、公的な役職につくこともありえない。そのような人間が皇帝の代理人と対等な立場で話し合いに臨もうなどとは、まさしく笑止千万であった。

 反乱軍が『帝国』の暗黙の了解をあえて踏みにじり、不敵にも挑発を行っているのは誰の目にも明らかだった。


――奴らは我々を愚弄している。これ以上の対話は、もはや不可能である。

――この上は武力をもってガレキア市中の賊軍をすみやかに制圧すべし。


 気炎を上げたのは、血気にはやる若手将校だけではなかった。

 本来彼らを抑制すべき指揮官や参謀までもが、もはや反乱軍との交渉の余地はないと考えるようになっている。

 司令部がことごとく強硬論に傾き、開城交渉そのものが破綻するかと思われたとき、


――私だけでも行かせてください。


 ヴィサリオンは、単身交渉の場に向かうことをあらためて願い出たのだった。

 止める者はなかった。

 当然だ。

 将校たちにしてみれば、わざわざ引き止める理由はないのだから。

 皇帝の勅命を受け、騎士庁ストラテギオンなる聞き慣れない部署からやってきた青年は、中央軍にとっては厄介な部外者である。

 そのようなあやしげな輩が敵の陣中に飛び込み、その結果どんな末路をたどったとしても、自業自得というものだ。

 どのみち、総攻撃の開始は夜明けまで待たねばならないという事情もある。

 いかに精鋭ぞろいの中央軍といえども、夜襲には危険が伴うのだ。

 まして、古来より守備側に三倍の利があるといわれる攻城戦ともなればなおさらだった。

 総攻撃の準備が万端整うまで、敵の注意を引きつけてくれれば十分――いっそ殺されてくれれば、容赦ない掃討戦をおこなう大義名分も立つ。

 交渉の成功などから信じていない将校たちは、自分たちに有利な状況を作り出す道具としてヴィサリオンを利用するつもりであった。

 そんな思惑を知ってか知らずか、わずか二名の護衛兵に見送られて、ヴィサリオンは単身ガレキア市内に入った。

 四人の騎士が”トゥリスの丘”で戦闘に突入した直後のことである。


***


 不思議な部屋だった。

 日没後もうだるような暑さが残るガレキアにあって、部屋のなかはひんやりとした空気に満たされている。

 部屋そのものが地下に作られているためだ。

 地面が断熱材の役目を果たし、外界の熱気を遮断しているのである。

 反乱軍が会談場所に指定してきたのは、ガレキアの外れにある地下倉庫の一室だった。

 そしていま、部屋の中央に置かれた丸いテーブルを挟んで、『帝国』と反乱軍の全権代理人は相対したのだった。

 どちらも他に陪席する者はいない。一対一の交渉は、反乱軍が提示した条件でもあった。


「わざわざのご足労、かたじけねえことで――」


 赤黒い禿頭を軽く下げながら、はいかにも大儀そうに言った。

 縦にも横にも太く、そして厚い男であった。

 年齢としは、五十をいくらか過ぎたといったところ。

 くびれのない胴は樽のようだが、不思議とだらしなく肥満しているという印象はない。肉の内側に秘めた鋭利なものがそのように感じさせるのだ。

 それを裏付けるように、ゆるゆると上がった面貌の中心で、細い目が射抜くような光を放っている。

 ヴィサリオンはするどい眼光に物怖じすることなく、落ち着いた声で応じる。


「こちらこそ、お会い出来て光栄です。アフメド親分」

「すまんが、その呼び方は勘弁願いたい。あんたはわしの子分でもなけりゃ、わしはあんたの親でもないのだからね」

「では、アフメド代表――」


 ヴィサリオンはちいさく咳払いすると、アフメドの目を見つめて言った。


「さっそくですが、ガレキアの開城についての具体的な話し合いを……」

「おお、その話だがな」


 アフメドは長い顎髭を撫でつつ、茶飲み話をするみたいな調子で語りはじめた。


「あんたには悪いが、もう答えは出とる」

「と、言われると――」

「この流れはもう誰にも止められん。いくさは避けられんということだ。町衆のなかには乗り気でない者も少なくはないが、若い連中はすっかり殺気立っておる。わしもわざわざそこに水を差すのは気が進まん」


 アフメドはあくまで呑気に言うと、ぽりぽりと禿げ上がった頭を掻く。


「さあ、話はここまでだ――あんたも帰るがいい。心配はいらん。街を出るまで誰にもけっして手出しはさせん」


 席を立ったアフメドが数歩と進まぬうちに、背後から声がかかった。


「待ってください。まだ話は終わっていません」

「お若いの、いまわしの言ったことが聞こえなかったかね」

「聞こえています。その上で、まだ終わっていないと申し上げているのです」

「わしは話は終わったと言った。それとも、あんた、わしを虚言ほら吹きにするつもりかい――」


 アフメドはヴィサリオンを見下ろすと、静かな声で問うた。


「あんた、わしらの稼業で一番軽蔑されるのは、どんな奴か知っているかい」

「……いいえ」

手前てめえで吐いた言葉を手前で反故にするような野郎さ。あんた、わしにそいつらの仲間入りをしろと言うのかい?」


 言って、アフメドは赤黒い相貌をくしゃくしゃにして破顔してみせる。

 一片の翳りもない笑みであった。

 子供のように無邪気な笑みであった。

 それなのに、なぜ、向かい合った者の心胆をこうまで寒からしめるのか。

 この笑顔に見送られながら、いままでどれほど多くの人間が無情に生命を奪われただろう。

 アフメドの面上に浮かんだのは、そんな凶猛な笑みだった。


「わしはな、これでもあんたの身を案じているつもりだ。失礼だが、見たところ、まだ二十歳はたちそこそこだろう。この『帝国くに』も今日明日に滅びるという訳じゃない。なにもここで死に急ぐ必要はなかろうよ」


 いかにも気遣わしげに言うアフメドに対して、ヴィサリオンはなおも切々と言葉を継いでいく。


「お心遣い痛み入ります。ですが、ここで交渉を終わらせる訳にはいかないのです」

「あんたも分からん人だ」


 アフメドの両眼からみるみる笑みが消えていく。

 次の瞬間、みしりと椅子が軋りを上げた。アフメドがふたたび腰を下ろしたためだ。


「だいいち、この期に及んで何の交渉をしようと言うのだね。この街の人間はもう西方人の役人や軍人どもを大勢殺しちまっている。あのゼーロータイとかいう連中に煽られてやったことだとしても、街を明け渡したら無罪放免という訳にもいかんだろう。それとも、あんたは自分の首にすすんで縄をかける間抜けがいると思うのか?」

「このまま戦いになれば、犠牲はその程度では済まないはずです。無関係な市民も巻き込まれるでしょう。それを止められるのは、あなただけなのです」

未来さきのことは誰にも分からん――」


 アフメドは腕を組むと、ふいに真顔に戻って言った。


「もしナギド・ミシュメレトの言うように革命が成功したなら、どうだ? 近ごろはあちこちの都市まちで東方人の反乱が起きているらしいじゃねえか。この『帝国くに』が倒れれば、わしらは重罪人どころか、革命の英雄だ」

「本当に、そんなことが出来ると思っておられるのですか」

「だから、分からんと言ったのだ。のっぴきならない修羅場でわずかな望みに賭けようという気持ちは、わしにはよく分かる。死ぬと分かった人間は、生きるためならどんな無謀なことでもするもんだ。そういう人間は、この『帝国』にごまんといるんじゃねえか?」


 アフメドの言葉は、朴訥であるがゆえに、ヴィサリオンの胸を打った。

 暴力で脅しあげ、あるいはその場しのぎの甘言を弄して相手を丸め込もうとするのは、あくまで三下の小悪党のすることだ。

 ガレキアだけで四千人あまり、周辺地域も含めれば一万五千人もの配下を統べる大侠客は、ただ相手の目を見つめて語らうだけで事足りるのだ。

 この男に懇々と説かれたなら、当初はまるで意見を異にしていた者も、いつのまにか賛同に転じてしまう。それは、アフメドが表と裏とを問わず、わずか一代で華々しい成功を収めた秘訣でもあった。


「最後にひとつ言っておく――ガレキアの人間を追い詰めているのは、あんたら自身だぜ。中央軍がどういう軍隊かくらいは、無学な田舎者のわしらでも知っている。奴らが東方人をどう思っているのかもな。そんな連中に十重二十重に都市まちを包囲させておいて、あんたみたいな若造一人に開城交渉を任せるとは、白々しいにもほどがあると思わねえか」

「私がここに赴いたのは、開戦の口実作りにすぎない……と?」

「そう思ってもらってかまわんよ。だから、わしは是が非でもあんたを生かして帰さねばならんのだ」


 アフメドは太い指でテーブルを何度か叩く。

 それは別室に待機する配下への合図であり、開城交渉の完全な幕引きを意味している。合図を受けた配下たちはヴィサリオンを力ずくで連れ出し、中央軍のもとへ送り返す手筈であった。

 どれほど激しく抵抗したところで、優男一人で屈強な侠客たちに太刀打ち出来るはずもない。

 さしものヴィサリオンも、今度ばかりは粘りようがないはずだった。


「さあ、わしの話はここまでだ。あんたの男気に免じて相手をしてやったが、これ以上は付き合えん」

「……分かりました。ご厚意への返礼と言う訳ではありませんが、最後にあなたにどうしてもお見せしなければならないものがあります」

「ほお?」


 言って、ヴィサリオンは懐から革張りの小筒を取り出す。

 内部なかに収められていたのは、一通の書状だ。

 アフメドは折り畳まれたままのそれを受け取ると、太い指で広げてみせる。


「こ、こりゃあ――」


 書状に視線を落として、アフメドは我知らず驚嘆の声を漏らしていた。

 まっさきに文末に記された署名が目に入ったためだ。

 何度見返しても、紙上に並んだ文字は、つねに一人の男の名を示した動かない。

 それは、この世で並ぶ者なき至尊者アウグストゥスにして、地上における唯一の神権保持者インペラートル

 ルシウス・アエミリウス・シグトゥス――『帝国』当代皇帝の名にほかならなかった。


「これは……皇帝、陛下、の……」

「そこに書かれている内容をよくお読みになってください。そのうえで私を追い出すというのなら、どうぞご自由に」


 扉が開け放たれ、数人の男たちが部屋に踏み込んできたのは、まさにそのときだった。

 いましがたアフメドの指示を受けた配下たちだ。

 ヴィサリオンを取り押さえようとする配下たちを片手で制しつつ、アフメドは書状に目を通していく。一字一句どころか、墨の一滴まで見逃すまいとするように。


「う……おお……」


 言葉にならないうめき声とともに、アフメドは書状を手にしたまま膝を突く。

 その顔を次々によぎった感情は、驚きと歓び、そして恐怖――。

 いままで大親分が見せたことのない表情に、配下たちも少なからず動揺しているようだった。

 ややあって、ようやく立ち上がったアフメドは、ヴィサリオンを見つめ、これまでになく真剣な面持ちで言った。

 

「……お若いの、交渉の続きをしようじゃねえか」

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