第169話 革命者

「浮かない顔をしているねえ」


 拍手を止めたナギドは、いかにも腑に落ちないといった風で言った。

 まだあどけなさの残る唇に酷薄な笑みを漂わせて、わざとらしく小首をかしげてみせる。


「最強の騎士を倒したんだ。もっと喜んだらどうだい?」

「……だまれ」

「おやおや――せっかく君の勝利を祝福しにきてあげたというのに、あんまりな言い草じゃないか。ねえ、アレクシオス」


 白いローブの裾をはためかせ、ナギドはアレクシオスに近づいていく。

 ヘラクレイオスとの戦いで満身創痍とはいえ、戎装騎士ストラティオテスであるアレクシオスが人間を寄せ付けない力を有していることには変わりない。その気になれば、ナギドの生命を奪う程度は苦もなくやってのけるはずだ。

 それにもかかわらず、ナギドの足取りはあくまで軽かった。

 豪胆というよりは、もともと恐怖の感情を持ち合わせていないのだろう。

 小柄な指導者は踊るように進み出ると、アレクシオスの傍らではたと足を止めた。


「君が喜ばないなら、僕が代わりに喜んであげようか」

「ヘラクレイオスはおまえの仲間だったはずだ。それを殺されて、なぜ喜べる」

「仲間? ……なるほど。君には、僕たちの関係はそんなふうに見えていたんだねえ」


 ナギドはアレクシオスの顔を覗き込むと、からからと乾いた哄笑を漏らした。


「前にも言ったと思うけれど、僕と彼は互いに利用しあっていただけさ。『帝国』を倒すという点では、僕たちの利害は一致していたからね。僕らのあいだにあったのはそれだけさ。彼が死んだからといって、べつに哀しむ理由はないんだよ。もし僕が先に死んでいたとしても、きっと彼は泣いてはくれなかっただろうからねえ」

「そうだとしても、戎装騎士ストラティオテスを失った痛手は大きいはずだ。いくらおれの前で強がってみせたところで、奴らはもう二度と帰ってこない」

「どうかな――」


 ナギドの双眸が妖しい光を帯びた。

 たんなる虚勢などではない。それは心底から勝利を確信した者の眼であった。

 訝しげに見つめるアレクシオスに、ナギドは意味ありげに微笑みかける。


「君はヘラクレイオスに勝った。だけど、は、僕の勝ちだ」

「……どういう意味だ」

「もう隠す必要もなくなったから、君には教えておこうか。――今日から遅くとも三日のうちに、『帝国』全土でゼーロータイに率いられた反乱軍が蜂起する手筈になっている。ガレキアの反乱はこれから始まる大革命の嚆矢というわけさ」


 ナギドの声には、いつのまにか恍惚の色が混じりはじめている。

 みずからの言葉によって自己暗示をかけ、自分自身を神憑りトランス状態へと導いているのだ。

 他人を言葉ロゴスに酔わせるためには、まず自分が言葉ロゴスに酔わねばならない。ゼーロータイの神秘的指導者は、誰に教えられるでもなく、扇動術の秘奥をみごとに体得していた。


「そうなれば、帝都の皇帝も重い腰を上げるはずだ。鎮圧のためにあちこちに中央軍を送り込むだろう。そして、反乱軍には大勢の死者が出る。住居を失い、故郷を逐われる人々が数え切れないほど溢れる……」

「まるで自分たちの敗北を望んでいるような口ぶりだな」

「そのとおり――まさにそれこそが僕の狙いなんだよ、アレクシオス」


 両手を鳥の羽根みたいに広げたナギドは、大仰な身振りを交えながら、滔々と語り続ける。

 淀みのない言葉は、ナギドの内心から出たものか。あるいは、その肉体に降りた大いなるものが語らせているのか。

 アレクシオスの黒い瞳に映じたのは、まぎれもない狂気の色彩いろであった。


「分かるかい――多くの犠牲が出るということは、この『帝国くに』に家族を、恋人を、友人を殺された人間がそれ以上に生まれるということだよ。革命に乗り気でなくても、西方人のことを恨んでいなくても、愛する者を失えば話は別だ。皇帝が武力で革命を抑え込もうとすればするほど、彼らの憎しみの火に油を注ぐことになる。それはやがて、この『帝国くに』を跡形もなく焼き尽くすほどの炎になる……」


 恐ろしい内容とは裏腹に、ナギドの言葉にはどこか弾むような響きがある。

 押し黙ったままのアレクシオスを一瞥し、ナギドはなおも続ける。


「僕らの革命はそうして成就する。偉大にして傲慢な『帝国』は、この地上から永遠に消え去るだろう」

「その後はどうするつもりだ。おまえがあらたな皇帝になるつもりか?」

「まさか……僕はそんなものに興味はないよ。権力も富も、僕には何の価値もないものだからね」

「では、いったい何のために――」

「この世界を壊すためさ」


 アレクシオスの問いに、ナギドはこともなげに言い切った。


「ねえ、アレクシオス。僕は心から神を信じているんだよ」

「それと世界を壊すことと、どんな関係がある!?」

「神は病める者、貧しき者をこそお救いになる。それは彼らが最も神を必要としているからだ。『帝国』が倒れても、人の欲望はけっして消えることはない。空白になった権力の座を巡って、ひたすら殺し、奪い合う……この世界が地獄に近づくほど、人々は神に救いを求めるようになるだろうねえ」

「東方人を西方人の支配から解き放つというのは、そのための方便か」

「僕はべつに嘘は言っていないよ。革命も、戦乱も、神の王国をこの地上に建てるためには必要なことだからね」


 ナギドはくっくと笑うと、


「君と君の仲間たちがいくら足掻いたところで、もう止められはしない。さっきも言ったように、この勝負は僕の勝ちだ」


 アレクシオスにむかってローブの胸元をこれ見よがしにくつろげる。

 殺せるものなら殺してみろ――そう言外に挑発しているのだ。

 騎士の膂力ならば、軽く手刀を突き出すだけで心臓を貫くことが出来る。

 ここで自分が死んだところで、もはや革命は止まらないという確信がナギドにはある。

 だからこそ、こうして危険を冒してアレクシオスの前に姿を現しているのだった。


「どうしたんだい、アレクシオス? 僕は逃げたりしない。僕は君のことが気に入っているからね。君にだったら、

「……殺さない」

「へえ?」

「おれは、おまえの思い通りにはならない」


 アレクシオスは眦を決してナギドを見据える。

 どこか虚ろだった黒瞳には、静かな、しかし確固たる意志の光が漲っている。


「おれも、この世界も、おまえの悪意になど屈しない」


 言って、アレクシオスは左手を懐に差し込む。

 取り出したのは、一通の書状だった。

 出撃の直前、ヴィサリオンから預かった皇帝ルシウスの密書だ。

 戦闘の余波を受けてひどく汚れてはいるものの、目立った破れやほつれは見受けられない。


「なにかな、それは――」

「読んでみろ」


 言い終わるが早いか、アレクシオスは書状をナギドに差し出していた。

 書状がナギドの手に渡ったのと、アレクシオスが膝から崩折れたのは、ほとんど同時だった。

 身体の各部に蓄積したダメージにより、もはや立っていることさえままならない。ふっと遠のきそうになる意識を引き止めるだけで精一杯だった。

 力なく首を垂れたアレクシオスは、ついに見ることはなかった。

 ナギドの面上から余裕の笑みが消え失せる瞬間を。

 入れ替わりに驚嘆と焦燥に塗り替えられていく、そのさまを。


***


 皇帝大詔令エディクトゥム・インペラトル――。


 字のごとく、皇帝の意志によって発布された法令である。

 その強大な権威は、元老院や各省庁の手になる一般の法令の比ではない。

 皇帝大詔令の法的効力は、既存のあらゆる法令に優越する。皇帝本人が望まぬかぎり撤廃も改正も出来ず、すくなくとも彼が存命のあいだは、『帝国』における絶対の法規ルールとして運用される。


 それは、たんに至尊者アウグストゥスの絶大な権威の象徴というだけでなく、諸刃の剣でもあった。

 『帝国』の歴史上しばしば発生した皇帝暗殺事件は、ほとんどの場合、皇帝大詔令を不服とする勢力によるとしての側面を持っている。

 法令の効力が皇帝の生涯に渡って持続するなら、力づくで終止符を打とうというのが暗殺者の理屈だった。

 なにしろ相手は『帝国』の最高権力者だ。悪法を押し通す暗愚な皇帝ならば、臣下の説得によって翻意する可能性はかぎりなく薄い。いっそ殺してしまったほうがよほど理にかなっている。

 歴代の皇帝が皇帝大詔令の濫発を避けたのも当然だった。

 大権を行使することは、自分の背に突きつけられた剣を増やすことにほかならない。皇帝も一人の人間である以上、やはり生命は惜しい。ついに皇帝大詔令を発布することなく死んでいった数人の皇帝は、帝王としての権能を放棄したかわりに、玉座にあってこの上ない安寧を得たはずであった。


 むろん、皇帝のなかには、あえて真反対の道を歩む者もいる。

 ルシウス・アエミリウス帝はその最たるものといえた。

 彼が生涯に発布した皇帝大詔令は、わずかに二件を数えるのみ。

 一つは即位してまもなく、もう一つは最晩年、死の直前に起草されたものである。

 事実上、ひろく世間に周知され、実際に運用されたのは前者だけだ。

 これは、歴代皇帝のなかでもとくに少ない部類に入る。

 にもかかわらず、ルシウス帝に突きつけられた刃の数は、過去に即位したどの皇帝よりも多かった。


 なぜか――。

 若き皇帝の意志は、世界の在り方を根底から変えてしまったからだ。

 同時代の人物は、ルシウス帝を次のように評した。

 秩序と法の破壊者、玉座の狂人、戴冠せし野蛮人……。

 やはり同時代を生きた別の人物は、しかし、全く異なる評価を皇帝に与えている。

 いわく――興祖皇帝以来、東方に即位した数多あまたの皇帝のなかで、の人こそは最良の一人であったと。

 一方では口を極めて罵倒され、一方では惜しみない賛辞を送られる。

 そのふるまいは、ある者の目には愚劣な暗君として、またある者の目には賢帝として映る。

――『帝国』史上、最も毀誉褒貶かまびすしい皇帝。

 後世におけるルシウス帝の代名詞は、玉座に就いたその瞬間ときから、つねに彼とともにあった。

 

*** 


「ありえない――」


 書状を握りしめたまま、ナギドは上ずった声を漏らした。


「まさか、こんなことが……あるはずがない……」

「信じるも信じないも好きにしろ。だが、そこに書いてあるのは、すべて本当のことだ」

「こんなことをすればどうなるか、皇帝は誰よりもよく分かっているはずだ」

「皇帝陛下はすべて覚悟の上でご決断なされた」


 アレクシオスは深く息を吸い込むと、


「この『帝国くに』に根を張った憎悪も恨みも、ここで断ち切るために」


 ナギドをまっすぐに見据えて、躊躇いなく言い切った。 


「僕らに壊される前に、皇帝は自分の手ですべてを壊すつもりかい――」


 ナギドの声はかすかに震えていた。

 それも無理からぬことであった。書状に記された内容を理解して、なお飄然としていられる人間は、すくなくともこの地上には存在しないはずだった。


 『帝国』は地上で唯一の正当なる国家であり、皇帝は万人を統べる存在である。

 どちらも無謬むびゅうでなければならない。

 その無謬性は実際に過ちがないことではなく、ことによってのみ担保される。

 為政者の側に一切の過ちが存在しない以上、悪政の責任を問われることはない。貧困にあえぎ、やむにやまれず国家に反旗を翻した者も、その事情が斟酌されることは決してなかった。


 ルシウス帝の皇帝大詔令は、その前提を破壊した。

 法令の序文において、従来の『帝国』の政策に過ちがあったことを認めたのだ。

 皇帝がみずから無謬性を放棄することは、おのれの権威を否定することに等しい。

 まして、それが『帝国』の長年にわたる東方人政策の非を認める内容であったとすればなおさらだった。


 皇帝大詔令はいう――。

 これまで『帝国』は東方人に不公平な税を課し、社会のさまざまな場面において不合理な差別を看過してきた。

 かつて興祖皇帝が東方で挙兵した際、彼に力を貸したのは各地の東方人たちである。彼は王朝の再建にあたって万民の平等を約束し、すべての人間に市民権を付与した。

 『帝国』が盤石なる体制を築き上げるに至ったのは、興祖皇帝の崇高な理念によって東方の諸民族を統合したからにほかならない。

 爾後、千年の歳月がながれ、八つの王朝の交替を経るうちに、いつしかその理念も忘れ去られていった。

 いま、西方人はただ血のみを根拠に驕慢の限りを尽くし、みずからを支配者と称して憚らない。まつりごとを壟断し、市井にあって利益をほしいままに独占している。軍や官界においては、西方人が出生によって栄達を遂げる一方、東方人はたとえ有能な人物であっても昇進を阻まれ、相応の官職を得ることが出来ない。

 これらの過ちは、肇国ちょうこくの志を踏みにじるだけでなく、多年に渡って国家に計り知れない実害をもたらしてきた……。


「……これより後、『帝国』は本来の理念に立ち返る。皇帝ルシウス・アエミリウス・シグトゥスの名において、西方人と東方人の不当な待遇差を順次撤廃し、あるいは改善に努めることを、天下万民に宣言する――」


 ナギドはようよう息をつくと、アレクシオスをちらと横目で見やる。


「アレクシオス、君は本当にこれを信じているのかい。こんなことが本当に実現出来るはずがない。しょせん一時しのぎのまやかしだよ」

「おれは、皇帝陛下を信じている」

「これからもいままでどおり西方人の支配が続くだけだ。何も変わらない」

「たとえすぐには変わらないとしても、おれは人間を、人間の世界を信じる。おまえの悪意に抗い、生命あるかぎり守り抜いてみせる」


 ナギドは我知らずアレクシオスから視線をそらしていた。

 これ以上目を合わせていることに耐えられなくなったからだ。

 精神のぶつかり合いに敗れたことを悟り、ナギドは悄然と後じさる。ゼーロータイの指導者であるナギドにとって、そこは決して負けるはずのない戦場だった。


「……まだ終わらないさ」


 ナギドはちいさく呟くと、その場で踵を返す。


「どこへ行く!?」

「君もついてくるがいい。その身体で追いつければだけどね――」


 白いローブを翻し、小さな後ろ姿は朽ちた神殿の奥に消えていった。

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