第170話 ナギド・ミシュメレト

 ナギドを追って朽ち果てた神殿を進むうちに、アレクシオスはあることに気づいた。

 闇の色が淡くなっている。

 人間の眼では認識出来ないほどの微妙な光量の変化を、戎装騎士ストラティオテスの視覚器は鋭敏に捕捉したのだった。

 ”トゥリスの丘”で戦いが始まってから、どれほどの時間が流れただろう。

 実時間では、アレクシオスらが夜半すぎにガレキアの市街地に降り立ってから、まだ三時間ほどが経過したにすぎない。

 にもかかわらず、もう幾夜も暗闇のなかを彷徨っているように感じられるのは、この一夜のうちに数えきれないほどの死線をくぐったためだ。

 死生の境界線上でせめぎ合う者にとって、刹那と永遠は限りなく近づく。

 修羅の間合いを埋める一秒は、安穏とすごす百年にも値するだろう。


 いつ明けるともしれない長い夜は少しずつ、しかし着実に終極に近づいている。

 まばゆい曙光が地平を染めるまで、あと一時間とかかるまい。

 アレクシオスが奇妙な感覚を覚えたのも無理からぬことだった。

 ほんのすこし前までは、生きて夜明けを迎えられるとは思っていなかった。

 ヘラクレイオスと戦っていたときは、もはや死は避けられないと覚悟していたのだ。

 戦いが終わり、まさか自分だけが生き残ることになるとは、アレクシオス自身いまだに信じがたい気持ちでいる。

 どんなに信じられなくても、この夜起こった出来事は夢や幻などではない。

 いまなお身体を苛む激痛と、乾いた石床に斑斑と落ちた黒血が何よりの証拠だった。


 なにより――戦いは、まだ終わっていない。

 指導者であるナギド・ミシュメレトが健在であるかぎり、ゼーロータイが滅びることはない。

 たとえ今回の蜂起が失敗に終わり、『帝国』にとって最悪の事態が回避されたとしても、後の禍根は残り続けるだろう。

 ふたたび地下に潜ったあとは、ひそかに勢力を蓄え、人々の心に『帝国』への憎悪を扶育ふいくする……同じことの繰り返しだ。

 皇帝ルシウスが東方人政策を根底から改革したとしても、すべてが一朝一夕に変わる訳ではない。

 『帝国』を長年に渡って支配してきた西方人の多くは、表立って皇帝の方針に反対を表明することはなくても、内心では東方人の地位向上を苦々しく思っているにちがいない。国家の要職を独占する彼らを敵に回すということは、『帝国』そのものを敵に回すに等しい。彼らはあらゆる手段を用いてルシウス帝を攻撃し、を玉座から引きずり降ろそうとするだろう。

 若き皇帝は、みずからが宣言した政策の実現のために、残る治世のほとんどを旧勢力との熾烈な戦いに費やすことになるはずだった。

 それほどまでの熱意と労力を傾けても、改革が成功するかどうかはなお未知数なのだ。

 ナギドとゼーロータイにとって、それはこの先も反乱を起こす機会はいくらでもあるということを意味している。

 稀代の扇動家は、その巧みな口舌によって西方人と東方人の対立という火種に油を注ぎ、この『帝国くに』を何度でも燃え上がらせることが出来る。神の王国を地上に築くために、ナギドは生命あるかぎり戦乱の世の到来を目論むはずだった。


 アレクシオスは痛む身体を引きずりながら、ナギドの気配を辿って先を急ぐ。

 取り返しのつかないことになるまえに、なんとしてもナギドの身柄を確保しなければならない。

 ヘラクレイオスとの戦いで払底したエネルギーも、いまなら多少は回復している。

 もしナギドが神殿内に伏兵を潜ませていたとしても、人間であれば問題にはならないはずだった。

 そう――人間であれば。


 神殿の中ほどに差し掛かったところで、アレクシオスははたと足を止めた。

 数メートル先の壁面に設けられた古い祭壇に気づいたためだ。

 より正確に言うなら、その台上に横たえられた者に。

 薄青色の髪と、儚げな面立ち。白い繊手は傷ついた胸を隠すように組み合わされ、遠目には心地よさそうに眠っているようにも見える。

 アイリス――。

 かつてゼーロータイに囚われた折、岩窟でたった一度だけ言葉を交わした少女は、物言わぬ亡骸となってそこにいた。

 アレクシオスは、ゼーロータイの側についた戎装騎士ストラティオテスがことごとく死したことを理解する。

 そして、あの瞬間、相討ちに持ち込めたにもかかわらず、ヘラクレイオスがそうしなかった理由も。

 もはや戦うべき理由も、生きていく目的も失った最強の騎士は、最愛の者が待つ場所へと旅立つことを選んだのだ。アレクシオスを道連れにしなかったのは、誰も傷つけてほしくないという生前のアイリスの願いを汲んだゆえであった。

 囚われたときに続いて、アレクシオスは二度までもアイリスに生命を救われたのだった。

 むろん、アイリスの意思がヘラクレイオスの行動を変えたとは、アレクシオスは知る由もない。

 ただ、亡き少女に救われたという確信だけがあった。

 救えなかったという悔恨も、また。


 アレクシオスはその場に立ち止まると、短い祈りを捧げる。

 感謝も、哀悼も、いまの彼女には届くことはない。生者に出来るのは、ただ死者のやすからな眠りを願うことだけなのだ。

 ややあって、祭壇に背を向けたアレクシオスは、迷うことなく神殿の奥へと向かっていった。

 

***


「やあ、遅かったね、アレクシオス――」


 ナギドは真剣とも戯れともつかない風で言うと、


「もっと近くに来るといい。僕を捕まえに来たんだろう?」


 五メートルほどの距離を隔てて立ったアレクシオスにむかって、大仰な身振りで手招きをしてみせる。


 いま、二人が対峙するのは、神殿のちょうど行き止まりだ。

 だからといって、べつに何がある訳でもない。

 そこは、半ばから断ち切られるようにして崩落した廊下であった。

 かつてはこの先になんらかの施設があったのだろう。廃墟となって間もないころに丘の斜面ごと滑落し、いまとなってはその痕跡さえ伺い知れない。

 壁と床の切れ目からは、四角く切り取られたガレキアの市街地が見える。

 見渡す世界は薄紫色を帯びていた。かすかな日差しが夜を溶かし、大地と街とをやわらかな色彩に染め上げている。

 アレクシオスの目に、ナギドのまとうローブのあざやかな白は、世界に投じられた奇怪な異物として映った。何物にも溶け合わず、あらゆるものを拒絶する清らかな純白。

 美しくも残酷なその色にむかって、アレクシオスは呼びかける。


「……ここまでだ。ナギド・ミシュメレト」

「まだ何も終ってなどいないさ」

「終わりだ。おまえは、もうどこにも逃げられない」

「それを決めるのは君じゃない――」


 言って、ナギドは廊下の終端に近づく。

 石床がふっつりと途切れたその先には、虚空がぽっかりと口を開けている。

 あと一歩踏み出せば、たちまち十数メートル下の斜面に叩きつけられる。

 ちょうど下方には岩場が広がっていることもあり、ひとたび足を滑らせたなら、助かる可能性は皆無であった。


「アレクシオス、君は僕が生き延びるために逃げたと思ったのかい?」


 すぐ背後に死の淵が迫っているにもかかわらず、ナギドは一向に物怖じする素振りもない。


「逆だよ。僕はここで死ぬ。そのつもりでここまで来たのだからね」

「それで、どうするつもりだ? 皇帝大詔令が発布されれば、反乱軍の士気は挫かれる。その上おまえが死ねば、ゼーロータイは跡形もなく消滅するだろう」

「分かっていないね、アレクシオス――僕は、


 フードからわずかに覗いた口元に浮かんだのは、およそ場違いな笑みだった。


「生きている者にしか出来ないことがあるように、死んだ者にしか出来ないこともあるのさ」

「いったい何の話をしている!?」

「残念だけど、今回は上手く行かなかった。だから、のさ。この世界に次の救世主が現れたとき、彼はその名を名乗るだろう。そして、彼によってゼーロータイは何度でも再建される……」

「名前を継ぐ者に後を託そうと言うのか?」

転生てんしょうと言ってほしいね。それは一年後かもしれないし、もしかしたら百年後、あるいは千年後かもしれない。いずれにしても、しくじった僕がいつまでも生きていては、いろいろ都合が悪いんだよ」


 ナギドはこともなげに言うと、その場でくるりと身体を反転させる。


「言っておくけど、僕が初めてという訳じゃないよ。すべては遠い昔、最初にナギド・ミシュメレトになった誰かが考えついたことさ。そして、これまで存在したナギド・ミシュメレトが繰り返してきたことでもある……」

「待てっ!!」

「さよならだよ、アレクシオス。皇帝ルシウスによろしく。――――と伝えておいてくれ」


 白いローブが薄明の空に踊った。

 廊下の終端から飛んだナギドは、ふわりと宙空に浮いたように見えた。

 それも一瞬のことだ。重力に引かれ、ナギドはたちまちに下降に移った。

 そのまま真っ逆さまに落ちていくはずだった身体は、しかし、一メートルと落ちないうちに停止した。


「……なんのつもりだい?」


 石床に這いつくばるように身を乗り出し、残った左手で自分の右手を掴んだアレクシオスにむかって、ナギドは不思議そうに問うた。


「僕を生かしたまま皇帝の前に連れ帰り、辱めを与えるつもりかな。君もなかなか人が悪いね」

「ちがう……」

「それなら、なぜこんな真似を?」

「このまま死んで逃げるなど、このおれが許さない。おまえには、自分のしたことの意味を理解させてやる」


 アレクシオスは一語一語、血塊を吐くように言葉を紡いでいく。


「よく聞け――おまえはナギド・ミシュメレトの一人なんかじゃない。神に選ばれた救世主でもない。血の通ったひとりの人間だ。他の誰もがそうであるように、この世に生まれ、やがて老いて死んでいく……ただの人間だ」


 ひと筋、ふた筋と、アレクシオスの左手を黒いものが伝い落ちていった。

 傷口から流れ出た黒血であった。ナギドの体重を支えたことで、一度は塞がりかけた傷がふたたび開いたのだ。


「ひとりの人間として裁きを受けさせるまでは、おれはおまえを殺さないし、誰にも殺させない。それがおまえ自身の意志であったとしてもだ」

「君の言うことは分かったよ。だけど、どちらにしても、『帝国』は僕を生かしておかないだろう。ここで死ぬのと、刑場に引き出されて殺されるのでは、いったいどれほどの違いがあるのかな」

「違いなら、ある」


 ナギドの双眸を見据えて、アレクシオスははっきりと言い切った。


「人間として生き、人間として死ぬ――おれたちがどれほど願っても叶わないことだ。おまえの下で死んでいった者のためにも、おまえには救世主ではなく、人間として最期まで生きる義務がある」


 ナギドは何も答えなかった。

 わざと無視した訳でも、返答に窮した訳でもない。

 何かを言おうとして、そのまま固く唇を結んだのだった。


 二人のあいだを一陣の風が吹き抜けていったのはそのときだった。

 夜明けの風は白いローブを膨らませ、頭を覆っていたフードを剥ぎ取っていった。

 見えない川面を漂うみたいに、長い黒髪がさあっと風に流れた。

 ナギドは隠すでもなく、琥珀色の瞳でアレクシオスをまっすぐに見つめる。


「やっぱり僕は君のことが好きだよ、アレクシオス」


 ふっと口元をほころばせたナギドに、アレクシオスはおもわず息を呑む。

 視線の先にいるのは、天上から遣わされた救世主でも、狂気の反乱指導者でもない。

 まだ面差しにあどけなさを残す一人の娘であった。


「君とは、いつかまたどこかで会うことになる。僕には分かるんだ」

「やめろ――」

「だから、それまで、すこしだけさよならだ」


 刹那、アレクシオスの手のなかから細い指が抜け落ちていった。

 それは二人の手を濡らした黒血のぬめりのせいだったのか。あるいは、何人も抗えない力が一方の身体を引いたのか。

 アレクシオスが叫んだときには、白いローブははるか下方に消えたあとだった。

 岩場には大小さまざまの岩が入り組み、どこに墜落したかも判然としない。

 分かっているのは、ということだけだ。


 ふたたび乾いた風が吹いた。

 朝焼けが世界の色をあざやかに変えていく。

 アレクシオスは、はるかな地平線を見つめて、茫洋と立ちつくすことしか出来なかった。

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