第171話 蒼穹

 都市まちは輝きのなかにあった。

 まばゆい日差しは入り組んだ路地のそこかしこにわだかまっていた夜の色を洗い流し、真新しい白に染め上げていく。

 万物を灼く酷薄な日差しも、この一時ひとときだけはやさしい。

 あと一時間もすれば普段どおりの熱暑に見舞われる都市の、それは幻にも似たもうひとつの顔だった。


 いま、ガレキアの城門の前に伸びた影は二つ。

 城門の前に設けられた広場には、他に人影は見当たらない。

 一人は赤黒い肌をした大柄な東方人の男、もう一人は華奢な西方人の青年であった。

 青年は雲ひとつない空を見上げ、遮るもののない陽光に目を細める。

 そして、東方人の男のほうに顔を向けると、


「ありがとうございました――アフメド代表」


 恭しく感謝の言葉を述べたのだった。


「あなたの助力がなければ、反乱軍が開城に応じることはなかったでしょう。おかげで無益な戦いを避けられました」

「礼を言うのはわしのほうだ、ヴィサリオンさんよ」


 アフメドはヴィサリオンを見つめ返すと、ところどころ欠けた歯を見せて破顔する。


「わしもガキのころからこのガレキアで生まれ育ったからな。任侠やくざだろうと堅気だろうと、生まれ故郷に愛着があるのはみな同じよ。この街を戦火に晒さずに済むんなら、それに越したことはねえ」


 言って、照れくさそうに鼻頭をこする。

 その横顔は、裏社会を支配する大侠客ではなく、遠く過ぎ去った少年の日を懐かしむ一人の男のそれだった。


「それにな。せっかく世の中が変わろうってんだ。ここで若い衆をむざむざ死なせちまうようじゃ、顔役の顔が立つまいよ」


***


 あの後――。

 ヴィサリオンから皇帝の書状を受け取ったアフメドは、わずかな子分とともに反乱軍の下へ赴いたのだった。

 むろん、開城の説得のためだ。

 面食らったのは反乱軍のほうである。ガレキアきっての実力者と見込んで交渉を任せたアフメドが、まさか『帝国』の主張をそのまま受け入れるとは、当の彼らもまったく予想していなかったのだ。

 それだけに、アフメドにむかって投じられた言葉は辛辣を極めた。


――臆病風に吹かれたのか!?

――そもそも、こんなやくざ者を信じて交渉役を任せたのが間違いだった。

――あんたともあろう者が、皇帝の使いの言うことを信じるなどどうかしている‼


 居並ぶ人々から思うさま罵られ、憎悪の視線に晒されても、アフメドは一向に動じなかった。

 親分に向けられた無礼な物言いと態度に憤慨する子分をなだめ、大侠客はじっと聞くに堪えない悪罵に耳を傾ける。


 反乱軍の主だった面々は、辺境軍の軍人や下級官吏によって占められている。全員が東方人であり、そして、ほとんどは三十に満たない若者たちであった。日頃から西方人に使役され、さんざん理不尽な思いを味わってきた彼らは、ナギド・ミシュメレトの扇動に乗って蜂起に及んだのだった。

 向こう見ずな若者たちは、中央軍の来攻を前に萎縮するどころか、いよいよ激しく闘志を燃え上がらせていた。


――開城など冗談じゃない。徹底抗戦だ。最後の一人まで戦い抜こう!!


 一人の若者が叫ぶと、周囲から雷同する声が相次いで上がった。

 いままでアフメドが反乱軍に協力してきたのも、彼らの無鉄砲さに男気を感じ、顔役としてその背中を押してやろうと思ったからだ。

 その思いは、ヴィサリオンとの会談を経ても変わっていない。

 アフメドは、あくまで血気にはやる若者たちに寄り添おうとしている。


「……よく聞け、ガキども」


 アフメドが低い声で言い放つと、ざわめいていた室内は水を打ったように静かになった。

 いくつもの修羅場をくぐってきた男の醸し出す無言の迫力に気圧され、否が応でも沈黙させられたのだ。じりじりと緊張が高まる。むし暑かったはずの部屋は、にわかに氷室ひむろと化したようだった。

 固唾をのんで自分を見つめる若者たちにむかって、アフメドはゆっくりと言葉を継いでいく。


「考えてもみろや。今回のケンカ、先に折れたのは皇帝のほうだ。言ってみれば、わしらは『帝国くに』にも皇帝にも西方人にも勝ったようなもんじゃねえか。お前さんらがこれ以上つまらん意地を張ったところで、何の得がある?」


 損得の問題じゃない――そう言いかけた若者の一人をするどく睨めつけて、アフメドはなおも続ける。


「こいつはまさしく損得の問題だぜ。皇帝がどうしても折れないってのなら、わしらには生きるために戦うという大義名分も立っただろう。だが、自分の非を認めて手打ちを申し込んできた相手と戦って死ぬようなバカげた真似は、喧嘩のイロハも知らぬ三下のやることだ」


 鬼の形相で一同を見渡したあと、アフメドはにっと相好を崩してみせる。

 あまりの落差に戸惑う若者たちの目の前で、厚く太い身体がすっくと屹立した。


「その程度の道理も分からんで、革命も何もなかろうが?」


 アフメドは駄目押しとばかりに凄みを利かせてみせる。

 顔は笑ったままだ。だからこそ、相対している者にとっては、余計に恐ろしい。


「安心しろや。開城したとしても、悪いようにはならん。それはわしがこの生命にかけて保証する。わしのところにやって来た使者は西方人だが、信用出来る男だ。すくなくとも、あのゼーロータイとかいうあやしげな連中よりよっぽどな」


 あっけに取られた様子の若者たちを尻目に、アフメドは早々と席を立っていた。

 話すべきことはすべて話した。あとは、残った者が決めることであった。

 反乱軍からガレキアを包囲する中央軍に使者が立ったのは、それから一時間ほど後のことだ。

 訝しむ中央軍の兵士たちの前で、使者は夜明けとともに開城に応じる旨を高らかに宣言したのだった。


***


「ところで、ちゃんと約束は守ってくれるだろうね」

「もちろん――それも開城の条件でしたから」


 試すように問うたアフメドに、ヴィサリオンは毅然と答える。


「帝都を発つまえ、皇帝陛下から直々に仰せつかっています。みずから武器を捨て、官軍に投降した者については、その罪の重さによらず死一等を減じる……と」

「もしその約束が履行まもられなかった時は、どうするかね?」

「皇帝陛下の名を借りて人を謀った罪は、私の生命でしか贖えないでしょう」


 真面目くさったヴィサリオンの言葉に、ひとしきり腹を抱えて笑ったあと、アフメドはふいに真剣な顔つきで言った。


「待てよ。そうなれば、わしも皆を騙したことになるな?」

「たしか、あなたの稼業では嘘つきは一番嫌われると言われましたが……」

「町の衆におとなしく首を差し出すか、さもなけりゃ潔くこの稼業から足を洗うしかねえだろうなあ」


 豪快に笑うアフメドにつられて、ヴィサリオンも柔らかく微笑む。


「しかし、惜しい」

「そう言いますと……?」

「お前さんは西方人にしては見どころがある。見た目よりずっと肝が据わってるところも気に入った。わしの子分にほしいところだが……」


 ぽりぽりと頭を掻きながら、ガレキアの大侠客は深いため息をつく。


「皇帝陛下に先にツバつけられちゃ、さすがのわしも諦めるしかねえよなあ――」


 その言葉は、ヴィサリオンの耳に届いたかどうか。


 ふいにけたたましい音が一帯を領した。

 金具と金具が擦れ合い、木材が軋る……さまざまな音が渾然となって、重厚な音楽を奏でる。

 門扉を貫いていた太いかんぬきが一本また一本を取り外されていくたび、街の内と外を隔てていた見えない壁も取り払われていくようであった。

 蜂起以来、固く閉ざされていた城門は、二人の目の前でゆっくりと開かれようとしている。


 城門が開く音に混じって、どこからか無数の足音が聞こえてきた。

 振り向いたヴィサリオンの目に映ったのは、市街地から広場へと近づいてくる一団の姿だった。

 先頭に立つのは、武装解除した辺境軍の兵士たちだ。

 その後ろには、反乱軍に加わった官吏と一般市民が続いている。

 人数は、見える範囲だけでも軽く千人を超えている。

 寄せ集めの軍勢であるはずの彼らは、混乱や恐慌に陥ることもなく、しずしずと行進を続けている。


 ややあって、ヴィサリオンは視線を正反対の方向に向けた。

 案に相違せず、開け放たれた扉の向こう側で待っていたのは、中央軍の大部隊だ。

 ガレキアを包囲するように展開した中央軍のなかでも、城門の前には最も兵力の多い部隊が配置されている。

 攻城戦の最先鋒を務めるはずだった彼らには、投降する反乱軍をまっさきに迎え入れるというあらたな使命が下されたのだった。


「まだ一件落着には早ええかね」

「ええ――私たちにとっては、ここからが正念場です」


 開城交渉は成功裏に終わった。

 だが、危機が過ぎ去ったと判断するにはまだ時期尚早だ。

 反乱軍の武装解除が完了するまで、片時も気を抜くことは出来ない。

 もし双方の些細な行き違いが武力衝突にまで発展するようなことがあれば、ここまでの努力はすべて水泡に帰すだろう。

 それはガレキアだけでなく、今後の『帝国』の国家運営すべてに当てはまることだ。

 皇帝ルシウスの決断をおろかな夢想に終わらせないためには、この『帝国くに』を危うい均衡の上に保ち続けねばならない。


 ヴィサリオンは、ふと思い立ったように、市街地の中心にそびえる険しい丘陵に視線を向けていた。

 ”トゥリスの丘”――。

 戦場へと向かった四人の騎士たちは、無事に夜明けを迎えられただろうか。

 ガレキア市中に入り込んでいたゼーロータイの一派はナギド・ミシュメレトともども早々に行方をくらまし、敵の戎装騎士ストラティオテスの動きも確認出来ない。

 戦闘がどのように推移したかは知る由もないが、状況から推測して、アレクシオスらが戦いに勝利したと考えるのが妥当であるはずだった。


 だが……勝つことと、無事に帰還することは、かならずしも両立しない。

 それでも、ヴィサリオンには、根拠のない確信があった。

 たとえどれほど困難な戦いであったとしても、彼らは帰ってくる。誰一人として欠けることなく。

 だから、いまはおのれの務めを果たさねばならない。

 生命のかぎり戦い抜いた彼らを、胸を張って迎えられるように。

 城門の外を目指して一歩を踏み出そうとした、まさにそのときだった。


「おい、あんた、いったいどこへ行く――」

 

 呆気にとられたようなアフメドの叫びは背中で聞いた。

 城門とは真反対の方向にむかって、青年は一目散に駆け出していた。

 広場へと近づいてくる無数の群衆のなかに、ヴィサリオンはその姿を見つけていた。

 どれほど離れていたとしても、けっして見間違えるはずはない。

 騎士ストラティオテスのようなすぐれた視覚は持っていなくても、ひと目見れば分かる。

 押し寄せる人波をかき分け、群衆の流れに逆らいながら、青年はひたすらに突き進む。

 そして、慣れない疾走に息を切らしたまま、声も枯れよとばかりに叫んだのだった。

 

「アレクシオス――――」


 これまで何度呼びかけたか知れない、その名前を。

 返事はなかった。それでも、ヴィサリオンは迷うことなく、なおも前進する。

 一歩近づくごとに、遠目には判然としなかった少年の凄絶な姿が明らかになっていく。

 衣服は上下ともにひどく傷つき、顔や首筋には乾いた黒血がべったりとこびりついている。

 そのうえ、右腕は肘から失われていた。

 出血こそ止まっているが、引き裂かれた痕跡もなまなましい袖口は、腕を失ってからさほど時間が経っていないことを示している。

 おぼつかない足取りとあいまって、その姿は、朝の光のなかにさまよいでた亡霊みたいにみえる。

 あまりにも異様な風貌と佇まいに恐れをなしたのか、周囲の人だかりにはぽっかりとまるい空隙が生じていた。

 これ幸いと空隙に身体を滑り込ませたヴィサリオンは、アレクシオスの肩を力強く掴む。 


「アレクシオス、私です!! 無事だったのですね!?」


 やはり返事はない。

 それでも、必死の呼びかけは、暗い淵に沈んだ意識を呼び戻したようだった。

 虚ろな闇を湛えるばかりだった黒い瞳に、すこしずつ光が戻っていく。

 アレクシオスの乾いた唇がかすかに動いた。目の前に立つ青年の、その名を紡ぐために。


「ヴィサリオン……?」

「無事でよかった。オルフェウスやイセリア、エウフロシュネーはどうしたのですか?」

「あいつらなら心配ない……大丈夫だ。みんな生きている」


 人混みを抜け、細い路地に入ったところで、アレクシオスは振り絞るように言った。


「……ナギド・ミシュメレトは死んだ。敵の戎装騎士ストラティオテスもだ。もう一人も残ってはいない」

「そうでしたか――」

「もうすこし嬉しそうに言ったらどうだ」

「それはお互い様ですよ。それに、あなたがそんな顔をしているのに、私だけが喜ぶ訳にはいきません」


 これ以上は得べくもないほどの大戦果を携えての勝利の報告。

 にもかかわらず、語る側も、そして聞く側も、喜びとはまるで無縁だった。

 アレクシオスは、胸につかえたものを吐き出すように、なおも訥々と言葉を連ねていく。


「……ナギド・ミシュメレトには、あと一歩というところでまんまと。結局、おれは何も出来なかったのかもしれないな」

「そんなことはありませんよ」

「しかし、おれは――」

「あなたがこうして生きて帰ってきてくれた。私には、それで十分です」


 アレクシオスは喉まで出かかった言葉を飲み込み、ちいさく肯んずる。

 もはや何を言う必要もなかった。

 救えなかった後悔も、届かなかった手の痛みも、けっして消えることはない。

 それでも、自分には、無事に戻ったことを喜んでくれる誰かがいる。

 生きながらえた理由なら、それだけで事足りる。

 いくつもの生命の終焉を見届け、孤独に夜明けを迎えた意味は、たしかにあったのだ。


「さて……ここでいつまでも立ち話というのもなんですし、ひとまず中央軍の野営地に向かいましょう。傷の手当もしなければなりませんからね」

「騒ぎが収まったことを知れば、あいつらも戻ってくるだろう」

「ええ。どこにいるかは分かりませんが、あなたの無事を知ったら、みんな喜ぶはずですよ」


 どちらともなく頷いたあと、二人は城門にむかって歩き出した。

 足を動かしながら、アレクシオスはふと顔を上げる。

 ガレキアの蒼穹そらはどこまでも高く、紺青こんじょう色にきらめいている。

 あんな色をしていただろうか――アレクシオスは、不思議そうに目を細める。

 昨日までの空とまるで違う色に見えるのは、たんなる思い過ごしなどではないはずだった。

 長い夜が明け、少年を取り巻く世界は大きくその形を変えた。

 変革の時代を迎えた世界は、これからもたえまなく変わり続けていくはずだった。

 熱い風が頬を撫でた。

 暑気に追い立てられるようにして、少年と青年は、白い街路を駆けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る