第172話 エピローグⅠ―革命のあとさき―

 革命は起こったのか?

 その問いは、しばしば後世の人間を悩ませることになった。

 『帝国』が編纂した正史によれば、ルシウス・アエミリウス・シグトゥスが皇帝として在位していた期間を通して、そのような事実は存在しない。

 すくなくとも記録の上では、の皇帝は、革命とは終生無縁であったということになる。


 ならば、この時代において、革命は起こらなかったのか?

 過ぎ去った歴史を紐解くとき、記録はかならずしも真実を意味しない。

 本来背反するはずの否定と肯定とが目まぐるしく移り変わり、真実は矛盾のなかにこそある。


 ルシウス帝が玉座にあったのは、そんな時代だった。


***


 ルシウス・アエミリウスの皇帝大詔令エディクトゥム・インペラトルは、正式な発布から時をおかずに国家の全土に示達された。


 千年もの長きに渡って維持されてきた社会構造を大きく変えるその内容は、西方人と東方人の区別なく、『帝国』に暮らすすべての人間を驚愕させずにはおかなかった。

 それが皇帝の意向であり、今後の施政の方針であると表明された以上は、何人なんぴとも異を唱えることは出来ない。

 ひとたび世に出た皇帝大詔令を改廃するためには、みずから弑逆者の汚名を被って皇帝を排除するしかないのだ。

 各地の西方人のあいだでにわかに皇帝暗殺の謀議が囁かれるようになったのは、彼らにとってルシウス帝の打ち出した政策がどれほど許しがたいものであったかを如実に物語っている。


 そんな西方人の反応とは対照的に、東方人の多くは新皇帝の決断を好意的に受け止めた。

 辺境の東方人には、文字の読み書きが出来ない者も多い。

 それでも、村々の集会場や広場に集められ、官吏による口頭での説明を受けるうちに、ただならぬ事態が出来しゅったいしたことを理解したのだった。

 無知蒙昧な辺境の民であっても、皇帝が地上の神のごとき存在であり、西方人がこの『帝国くに』の支配者であることは幼いころから知悉している。

 父祖の代から従容と受け入れ、これからも変わるはずはないと半ば諦めていた絶対的な支配の原理が、いままさに覆ろうとしている。他の誰でもない、当の皇帝自身の意志によって。

 それがどれほど信じがたく、また、ありうべからざることか。

 即位してまもない若き皇帝は、玉座の上で世界の形を変えたのだ。

 革命は起こらなかった――それは、を表現する言葉を、正史の編纂にあたった当時の歴史家たちが持たなかったというだけにすぎない。


 社会の頂点から押し寄せた革命に対して、底辺で芽吹いた革命はあまりにも無力だった。

 決起の意義を半ばまで反乱軍はたちまちに意気阻喪し、各辺境を覆っていた不穏な雰囲気は急速に薄れていった。

 なにしろ、皇帝みずからが東方人の差別的待遇の是正を約束したのである。

 実際にどこまで実現するかはさておき、多大な犠牲と引き換えに得られるはずだった革命の成果は、労せずして人々のもとに転がり込んできたことになる。

 反乱軍の主たる原動力のひとつだった思想イデオロギー的闘争が骨抜きにされたのも無理からぬことだった。

 『帝国』と皇帝はみずからの過ちを認めず、西方人が優遇される社会が改められることは決してない――。

  敵があくまで強硬な態度を崩さないことを前提として展開されてきたゼーロータイの扇動は、あっけなく主張の根拠を失った。

 カリスマ的指導者であるナギド・ミシュメレト亡きあと、ゼーロータイはあらたな革命の理論を提唱することも出来ないまま、反乱軍から人心が離れていくのを漫然と座視するばかりだった。


 その後、予定の期日を過ぎても、各地の反乱軍は沈黙を守り続けた。

 革命の最先鋒を担うはずだったガレキアがあっさりと無血開城に応じたことも、反乱軍の士気を削ぐ大きな要因になった。

 民衆と辺境軍による武力革命は、全国で一斉蜂起に及ぶからこそ成功の目途も立つ。

 裏を返せば、そうでもしないかぎり、まず勝ち目はないということだ。

 一地方が単独で反乱に及んだところで、たちまちに官軍によって制圧されるのは目に見えている。

 革命の成功を疑問視するようになった各地の指導層は、自分たちだけが貧乏くじを引くことを恐れ、ひとまず日和見に徹したのだった。

 指導層の多くは、地方の有力者によって占められている。彼らは純粋な思想的動機というよりは、革命が成功した後のさまざまな権益を当て込んで反乱軍を支援していた者たちである。

 はやくも戦後を見据えて算盤そろばんを弾いていた彼らに言わせれば、革命とは、あくまで西方人の既得権益を奪取するための手段にすぎない。

 利益を得るまえに自分の生命が失われるようなことがあっては、それこそ元も子もないのだ。

 分の悪い賭けに二の足を踏むのは、むしろ当然といえた。


 とはいえ、反乱軍のすべてが損得勘定に基づいて動いていた訳ではない。

 ナギド・ミシュメレトが予言した日程からだいぶ遅れて、いくつかの地方では実際に戦闘が起こっている。

 いずれも過激な反『帝国』主義者グループによって引き起こされたものだ。

 反乱軍のなかでも最も先鋭的な思想をもつ彼らは、いつまでも行動を起こさない各地の同志に痺れを切らし、みずから範を示すために挙兵したのである。

 旺盛な士気に反して、その目論見はことごとく裏目に出た。民衆の賛同を得られず、ただ無軌道に暴れまわる彼らの行状は、革命そのものに対する失望を世間に強く印象づけるだけに終わった。

 ほどなくして小規模な反乱が制圧されると、もはや後に続こうというものは誰もいなかった。

 すすんで官軍に投降した者、密告によって罪の軽減を図った者、何処かへ姿をくらました者……それぞれの構成員が辿った末路はさまざまだが、どの地方の反乱軍も戦わずして崩壊したのはおなじだった。

 大陸東方を席巻した革命の狂騒は、こうして幕を閉じたのだった。


 むろん、すべてが円満に解決した訳ではない。

 国内を見渡せば、いまだ未解決の問題は山積している。

 辺境軍から流出した大量の武器弾薬の行方は知れず、地方官庁の襲撃に参加した犯人の多くもいまだに足取りが掴めていない。

 革命の波に乗って全国に流布した反『帝国』・反西方人の思想は、今後の辺境統治に暗い影を落とすことが予想された。

 なにより憂慮すべきは、官憲の追及を逃れて地下に潜ったゼーロータイだ。

 ふたたびナギド・ミシュメレトが世に現れるまで、彼らはひっそりと息を潜めて時機を待ち続けるだろう。

 革命の火は消え去った訳ではない。それは熾き火のように静かにくすぶり、ふたたび烈しい炎を噴き上げる日を待ちわびている。

 それを踏まえても、東方人と西方人の凄惨な内戦が、あと一歩のところで回避されたことはまぎれもない事実だった。

 西方人と東方人――支配する側と、支配される側。

 その構図はたやすく変わらないとしても、変わる可能性が示されたことは、世界にとって計り知れない意義を持つはずだった。


 難局を乗り越えたことは、しかし、かならずしも将来の安定を意味しない。

 数多くの民族を内包する世界帝国は、しょせん危うい均衡の上に成り立った砂上の楼閣にすぎない。

 『帝国』がどれほど栄華栄耀を誇ろうとも、いつの日か必ず終わりは来る。

 地上の万物に等しく死が訪れるように、永劫に存続する国家もまた存在しないのだ。

 やがて滅びる運命だとしても、その受け止め方は一様いちようではない。

 結末は変えられないまでも、そこに至るまでのよりよい道すじを選ぶことは出来る。同じように滅びるのであれば、最善の滅びこそが望ましい。生まれ落ちた瞬間から死に向かっていく人間が、それでも悔いのない人生を送ることが出来るように。

 皇帝ルシウス・アエミリウスが下した決断は、避けがたい運命に対する精一杯の抵抗であった。

 滅びるべき国家を延命させた功罪をの皇帝に問うのは、あまりに酷というものだ。

 彼と彼の臣下は、みずからに与えられた役割のなかで死力を尽くし、その結果として、滅びゆく国家の命脈がいっとき繋ぎ止められたにすぎないのだから。

 『帝国』史上最も毀誉褒貶かまびすしい皇帝の、それは若き日の出来事だった。

 

***


 空は抜けるように高く、蒼かった。

 帝城宮バシレイオンの庭園には、秋の陽が燦々と降り注ぎ、季節の花々の美しさをいっそう引き立てる。

 とかく人の出入りの激しい王宮にあって、庭園は不思議なほどの静けさに包まれていた。

 男は、芝生に置かれた長椅子の上にいた。

 魁偉な長身を背もたれに預け、大きなあくびをひとつ。

 そのまま両目を閉ざしたのは、どうやらうたた寝をするつもりらしい。

 うららかな午後の陽光に満たされた庭園は、なるほど午睡ひるねにはおあつらえ向きの場所だった。


「……陛下、皇帝陛下」


 寝入りかけたところで、背後からふいに声がかかった。


「こんなところで寝てはお風邪を召しますよ。せめて羽織るものを……」

「心配してくれるのは風邪のことだけか?」

「ええ、まあ――」


 冗談めかして問うたルシウスに、ラフィカは戸惑いがちに答える。

 赤銅色の髪を揺らし、小柄な護衛は音もなく主人の前方に回り込んでいた。


「いくら私たちでも、病からは御身をお守り出来ませんからね」

「そのくらいは自分でどうにかする。そなたらはの危険から守ってくれれば十分だ」

「……陛下、ご自分の置かれている状況、本当に分かっていらっしゃいます?」


 言って、ラフィカは呆れたようにため息をつく。


「あの皇帝大詔令のせいで、いまや陛下は国じゅうの西方人から憎まれておいでです。世間の人々がなんと噂しているかご存知ですか?」

「ほう。どんなふうに言われているのか、余も興味がある。ぜひ聞かせてくれ」

「私の口からはとても憚られます」

「おまえに言われる分には構わんのだがなあ」

「陛下がよくても、私の気持ちの問題です。悪しからず――」


 いつのまにか長椅子から身体を起こしたルシウスは、ぷいと横を向いたラフィカを見つめて、いかにも愉快げに肩を揺らす。

 型破りな皇帝には、自分の悪口あっこうさえ純粋な興味の対象なのだった。


「笑い事じゃありませんよ。元老院議長が辞任したのも、表向きは陛下をお諌め出来なかった責任を取って……ということになっているんですから」

「ついでに頭の固い重臣どもも道連れにしてくれたのだから、あの叔父もなかなか洒落た真似をしてくれた」


 デキムス・アエミリウスが元老院議長の職を辞したのは、ほんの数日前のことだ。

 皇帝を補佐すべき元老院議長が引責辞任したとなれば、他の高官もそれに倣わざるをえない。

 行政の長である尚書令を始め、主だった大臣や各省庁の長官が相次いで辞意を表明したことで、中央政界の地図はまさしく一変した。

 すべては二人の計画通りだった。

 デキムスは、自分が政界を引退する道連れに、先帝の時代から仕えてきた宿老たちを一掃したのだった。彼らはいずれも守旧派に属し、ルシウスが皇帝として政治を執り行っていくうえでは有害無益な存在であった。

 当のデキムスにしても、自分があらたな世の中には不必要な人間であると判断したからこそ、潔く進退を決したのだ。


「おかげで余はやりやすくなったが……」


 旧勢力が消滅したことで、政界には巨大な穴が空いた。

 各辺境の東方人反乱はひとまず終息したとはいえ、いまなお予断を許さない状況にある。中央の政治的空白が国家の存立に直結するのは言うまでもない。

 ルシウスはかねてから目をつけていた人材を後任に指名し、すみやかに政界の再編を図ったのだった。

 皇帝が直接人事権を行使するのはきわめて異例のことである。

 旧来の価値観を絶対視する者にとって、ルシウスのふるまいはおよそ信じがたい暴挙として映った。

 玉座の上で殺意のこもった視線に気づいたことも二度や三度ではない。

 それでも、ルシウスはあえて視線の主を探し出そうとはしなかった。いちいち処罰したところで、暴君の風評に箔をつけてやるだけなのだ。


「私に言われるまでもないと思いますけど、そろそろ力づくで陛下を除こうとする者も出てくるかもしれません」

「それは面白い。生命を狙われているくらいのほうが余としても毎日に張り合いが出るというものだ」

「あなたは、またそんなことを――」


 ラフィカが言い終わるまえに、ルシウスは長椅子から立ち上がっていた。


「陛下、もう行かれるのですか?」

「休憩ならもう十分取った。それに、この後まだこなさねばならん仕事もある」


 この三日あまり、若き皇帝はほとんど不眠不休で動いている。

 常人なら過労のあまり倒れても不思議ではないところを、ルシウスはまるで疲れた素振りもない。肉体は相応に疲弊しているはずだが、臣下の前ではそれを感じさせないようにみずからを厳しく律しているのだ。


「すこしくらいなら、居眠りなさってもいいんですよ」

「玉座の上でいびきをかいた皇帝と呼ばれることになるぞ」

「そう言いたい者には、好きなように言わせておけばいいんです。だって、あなたは……」


 話を聞いているのかいないのか、ルシウスはさっさと歩き出していた。

 置いていかれまいと、赤銅色の髪をなびかせながら、ラフィカは広い背中を追いかける。

 そして、一度は言いかけた言葉を、そっと胸のなかで反復する。


――だって、あなたは、この『帝国くに』を救ったのですから。


 ルシウスは大股で歩きながら、ラフィカに語りかける。


「さっき、余は国じゅうの西方人から憎まれていると言ったな」

「……ええ」

「仮に西方人全員が敵に回ったとしても、せいぜいこの国の一割にすぎん。九割に憎まれるよりは、よほど気が楽というものではないか」

「物は言いようですね。あなたの味方もいることはお忘れなく。……敵に較べたら、ずっと少ないかも知れませんけど」

「そのぶん頼りになる者ばかりだろう」


 わざと毒を含ませたラフィカの言葉に、ルシウスは呵々と大笑する。

 ルシウスの胸裏をふと戎装騎士ストラティオテスたちの顔がよぎった。

 あの日、玉座の前で正義ただしいことのために死なせてくれと願った少年の姿は、いまも眼裏に焼き付いている。

 あのとき交わした言葉は、ルシウス自身にも少なからぬ影響を与えたはずだった。


 やがて、庭園を後にした二人は、玉座の間へと続く長い廊下に足を踏み入れた。

 採光窓から差し込んだやわらかな日差しが、薄暗い廊下に二つの不揃いな影を落とす。

 それもつかの間だ。気づいたときには、ちいさな影は忽然と消え失せていた。

 入れ替わるように近づいてきた侍従たちは、あざやかな緋紫の帝衣ガウンと、金銀の精緻な象嵌が施された帝冠を携えている。

 玉座の間に足を踏み入れるためには、皇帝といえども、然るべき衣服を身にまとう必要がある。

 服の着方ひとつ取っても古来からの厳格なしきたりが存在し、その手順を違えることは許されない。

 形式だけに囚われた堅苦しい作法――内心では着替えのたびに辟易しながら、ルシウスもあえて廃止するつもりはなかった。

 衣服を着替えることで、心までもが変わる。

 皇帝と人間という二つの顔を使い分けるためには、煩瑣な儀式も必要なのだ。

 これから向かうのが苛烈な政治の場であることを思えば、金糸銀糸の合間にさまざまな宝玉が編み込まれた絢爛な帝衣は、皇帝にとっての戦装束にほかならなかった。

 すべての準備を終え、玉座へと通じる扉が開かれたとき、そこにいたのは一人の男ではない。

 いま、冠の下に息づくのは、神々しいまでの威厳に満ちた帝王の顔貌かおであった。

 皇帝ルシウスは、おのれの戦場へと一歩を踏み出したのだった。

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