第173話 エピローグⅡ―彼らのこと―(前編)

 フローレア街区――。


 そこは、蜂の巣のように細かく区切られた帝都イストザントの市中にあって、ひときわ異彩を放つ一角として知られている。

 『帝国』随一の歴史と伝統を誇る名門校から、各種の官吏養成学校、果ては中央軍の幼年学校に至るまで、ありとあらゆる種類の教育機関が密集しているためだ。街区にはそれらの学校に付随するかたちで図書館や公会堂、屋内運動場ギュムナシオンといった施設が完備されている。

 フローレア街区には、次代を担う人材を育成するために必要な一切が揃っていると言っても過言ではないのだ 


 季節は秋を過ぎ、早くも冬を迎えようとしている。

 その日、街区は異様な雰囲気に包まれていた。

 そろそろ始業の時刻だというのに、息を白く弾ませて学校へと急ぐ生徒や、彼らの登校を出迎える教師の姿は見えない。他愛もないおしゃべりや、そこかしこで交わされているはずの挨拶の声も、やはり絶えている。

 生徒たちの消えた街路を進むのは、重装備に身を固めた中央軍の兵士たちだった。

 兵士たちは誰も一様に表情をこわばらせ、その足取りは戦地に向かうがごとく重い。

 普段であればさわやかな喧騒に包まれるフローレア街区の朝は、凍てつくような緊張に支配されている。

 それも無理からぬことだった。

 前触れもなく生起した凶悪な事件によって、学び舎の街区まちはまさに恐怖と不安の真っ只中にあるのだから。


 事件は、いまから四時間ほど前――まだ夜が明けきらないころに起こった。

 武装した一団が突如として寄宿学校を襲撃・占拠し、校内にいた教師と生徒あわせて百人あまりを人質に立て籠もったのである。

 二手に分かれた犯人たちは、寄宿舎で眠っていた生徒を拘束するのと並行して、すでに起床していた教師たちをまたたくまに制圧していった。

 全校が犯行グループの手に落ちるまで、わずか三十分たらずの出来事だった。

 捕縛を免れたのは、折からの強風で壊れた門塀の修理のためにたまたま外に出ていた雑役夫ひとりだけだった。彼は校内の異変を察知すると、そのまま街区を三つ隔てた先にある中央軍総司令部に駆け込んだ。

 早朝ということもあり、応対に出た中央軍の当直士官は突拍子もない話であるとして一笑に付そうとしたが、雑役夫の必死の訴えにようやく重い腰を上げたのだった。

 やがて中央軍の部隊が現場に駆けつけたときには、すでに校門は内側から閉鎖され、校舎の前面にはにわか作りの防塞バリケードが築かれたあとだった。

 容易ならざる事態が出来しゅったいしたことはもはや疑いようもない。

 中央軍はただちに隷下の部隊を出動させ、寄宿学校の周囲に厳重な包囲を敷いた。さらには街区の出入り口を封鎖したことで、フローレア街区そのものが犯人にとっての巨大な牢獄と化したのだった。

 それは同時に、双方にとって終わりの見えない膠着状態の始まりを意味していた。


 寄宿学校への突入自体はさほど難しくはない。

 攻城兵器を使用すれば、防塞バリケードも問題にはならないだろう。

 それでも、敵の規模や目的が判然としない以上、軍としてはうかつな手出しは出来ないのだ。

 寄宿学校には元老院議員や各省庁の高官の子弟が多く在籍している。稚拙な作戦で生徒に犠牲が出るようなことになれば、当然その父兄が黙ってはいないはずだった。

 軍部の責任問題に発展するようなことになれば、何人の将軍が罷免あるいは辺境軍へと更迭されるか知れない。

 傲岸不遜な中央軍も、やはり『帝国』の一官庁であることには変わりない。この種のには、いきおい慎重にならざるをえないのだった。


 どちらも沈黙を守ったまま、二時間あまりが経過したころだった。

 寄宿学校の二階から、外の街路にむかって竹筒が投じられた。

 付近で警戒に当たっていた兵士がおそるおそる中身を検めてみると、竹筒のなかから一通の文書が見つかった。

 文書の冒頭において、犯人はみずからを”革命の後継者”と名乗ったあと、『帝国』に対する要求を一方的に並び立てていった。


――国家当局によって不当に逮捕され、いまも入牢じゅろうしている同志七十余名の即時解放。

――教師と生徒全員の身代金として百五十億ディナルをただちに支払うこと。


 そして、臆面もなく国家を脅迫する文書は、次のような文言で結ばれていた。


――もし我らの要求が受け入れられない場合は、人質を全員処刑する。なお、返答の期限は本日の日没までとする。……


***

 

 中央軍の臨時指揮所は、寄宿学校に隣接する公会堂に設置された。

 二百人からの人間を収容出来る広々とした室内は、指揮所にふさわしく作り変えられ、校舎の見取り図を広げた机の周辺には常時二十人あまりの軍人たちが詰めている。

 いずれも中央軍の高級将校たちである。

 将校たちの中心に座しているのは、濃茶色の髪を短く刈り上げた壮年の男性だった。

 年齢としは四十を超えたかどうか。

 鼻持ちならないエリート意識に染まった将校が多数を占める中央軍において、軍人らしい武骨さを備えた人物は例外に属する。してみると、男は例外中の例外と言うべきであった。


「突入準備は整っております。どうかご下知を、ハリラオス将軍――」


 催促するような視線を向けた副官にむかって、ハリラオスはゆっくりと首を横に振った。


「……駄目だ」

「ですが、まもなく正午です。我々に残された時間は長くはありません。ここで一気に奴らを制圧しなければ、いずれにせよ人質は……」

「君は私が保身のために突入を躊躇っていると思うか?」


 言葉の裏にある真意を見透かされたと感じたのか、副官はびくりと肩を震わせた。

 精悍な顔に憂いを漂わせたまま、ハリラオスは居並ぶ将校たちにむかって語りかける。


「私はどのように処分されようと構わない。問題は人質の生命だ。私たちは『帝国』軍人として、市民の生命を蔑ろにする訳にはいかない。このまま強行突入すれば、人質の大半は生命を落とすことになるだろう」

「それでは、将軍は奴らの無法な要求を呑むべきだと!?」

「そんなことを言ったつもりはない――」


 将軍と副官の意見の衝突に、室内の空気がにわかに緊張を帯びたそのときだった。


「あのう、ハリラオス将軍はこちらにおいでで……?」


 どこからか湧いた場違いな声に、その場の全員の視線が一点に集中した。

 彼らの目に映ったのは、指揮所の入り口に立つ線の細い西方人の青年と、その傍らに控える数人の少年少女だった。

 副官は大股で一行に近づくと、青年の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで問いただす。


「いったいなんだ、貴様ら? どこの教師と生徒かしらんが、貴様らのような民間人が勝手に足を踏み入れていい場所では……」

「よせ。彼らは私が招聘したのだ」


 あっけに取られた様子の将校たちを尻目に、ハリラオスは一行の前に進み出ると、深々と頭を下げたのだった。


騎士庁ストラテギオンの長官ヴィサリオン殿ですね。わざわざのご足労かたじけなく存じます。部下の非礼、なにとぞお許し願いたい」

「お顔を上げてください、将軍。私たちは任務を仰せつかっただけなのですから――」

「どうぞこちらへ。ここでは不都合もありましょう」


 青年を伴って別室に向かったハリラオスの背中を、将校たちは呆然と見送ることしか出来なかった。

 指揮所を退出する際、栗色の髪の少女は彼らに舌を出し、「ざまあみろ」と露骨な身振りジェスチャーで示してみせたのだった。


***


 一時間後――。

 騎士庁ストラテギオンのために用意された別室で、六人の騎士たちは校舎の見取り図を囲んでいた。


「学校のなかにいる敵は三十人。外には見張りが七人。もしかしたらもっと大勢いるかもしれないけど、見えたのはそれだけだよ」


 説明しながら、エウフロシュネーは見取り図の上に小石を置いていく。

 エウフロシュネーは周囲の景色に溶け込み、自在に姿を消すことが出来る。

 その能力を用いて寄宿学校の内部を偵察することで、犯行グループの人数と大まかな配置を割り出したのだった。


「そして、人質が捕まっているのはここ……」


 エウフロシュネーは寄宿学校のほぼ中心を指さした。


「なるほど、大講堂か――」 


 アレクシオスは腕を組み、見取り図の一点を凝視している。


「逃亡を防ぐなら、人質は一箇所に集めておくほうがいいだろうからな。奴らも考えなしに立て籠もっている訳ではなさそうだ」

「どうする? お兄ちゃん?」

「決まっている。難しいが、おれたちがやるしかない」


 アレクシオスが言い終えるが早いか、イセリアが見取り図の上にずいと身を乗り出してきた。

 豊かな胸に押し出され、整然と並べられていた小石が飛び散る。


「ふふん、あたしの出番ね。こんな建物、簡単にぶっ壊して――」

「誰がそんなことをしろと言った?」

「じゃあどうしろって言うのよ!?」

「おれたちの任務は人質の救出だ。犯人を捕らえても、人質が殺されたら意味がないことを忘れるな」


 至って真剣な面持ちで言ったあと、アレクシオスは騎士たちの顔を一瞥する。


「作戦が始まったら、二手に分かれて行動する。イセリアとレヴィ、ラケルは第一班……」

「ちょっと、なんであたしが双子あいつらと一緒なのよ? アレクシオスと一緒がいいんだけど」

「いいから、おれの言うとおりにしろ!! エウフロシュネーとおれは第二班……」


 アレクシオスはいったん言葉を切り、亜麻色の髪の少女を見やる。

 氷の彫像を思わせる玲瓏な面差し。少年を見据えた真紅の双眸は、次の言葉を待ちわびているようであった。


「オルフェウスは合図があるまで公会堂の屋上で待機。……いいな?」

「分かった」


 オルフェウスはこくりと頷く。

 その後ろで、イセリアはレヴィとラケルを横目に見つつ、聞えよがしに大きなため息をついてみせる。


「あんたたち、今回は仕事だから我慢してあげるけど、くれぐれもあたしの足引っ張るんじゃないわよ」

「それは私たちの台詞だ。なあ、ラケル?」

「今回に関しては私もおまえと全くの同意見だよ、レヴィ」

「あーもうっ! いつも喧嘩してるくせに、こんなときだけ仲良しになってんじゃないわよ!!」


 苛立ちを隠しもせずにイセリアが叫んだのと、部屋の扉が開いたのは、ほとんど同時だった。

 ヴィサリオンは一瞬心配そうに室内を見渡したあと、ほうと安堵の息をついた。本気の喧嘩ではないことは、ひと目見れば分かる。


「救出作戦のほうはまとまりましたか?」

「問題ない。準備が整い次第、すぐに出動する」

「こちらも先ほど調整が済んだところです。中央軍の各部隊は、私たちの作戦が終わるまで待機してくれるそうです」

「それは助かるな。奴らに余計な手出しをされたら、上手くいくものも行かなくなる」


 わざと渋面を作ってみせたアレクシオスに、ヴィサリオンもおもわず苦笑する。


「皆さん、どうか気をつけてください」

「分かっている。皇帝陛下がせっかく新たな世の中を作られようとしているんだ。反乱軍の残党に邪魔などさせるものか」

「そういうこと! あたしたちに任せとけばなーんにも心配いらないわ。大船に乗ったつもりで吉報を待ってなさい」

「泥舟の間違いじゃなければいいけど……」

「エウフロシュネー、あんた、いちいちくだらないこと言ってると大船から蹴り落とすわよ!!」


 いつものように口論を始めたイセリアとエウフロシュネーから目をそらし、アレクシオスはヴィサリオンに問いかける。


「……今回の件、ゼーロータイが関わっていると思うか?」

「なんとも言えませんね。皇帝大詔令エディクトゥム・インペラトルが発布されてから三ヶ月、ようやく辺境の情勢も落ち着いてきたところで、まさか帝都でこんな事件が起こるとは思ってもみませんでしたから……」

「とにかく、犯人の口から背後ウラ関係を聞き出さないことには何も分からんということだな」


 アレクシオスは窓辺に歩み寄ると、ちらと空を見る。

 すでに日は中天を過ぎている。冬の太陽は、想像以上の早さで傾きつつある。


 刻限リミットまで、あと三時間あまり――。

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