第161話 慟哭

 紅の風が吹いた。

 音もなく、砂粒ひとつ巻き上げることもなく。

 ただ、夜闇にあざやかな真紅の色だけを残して、風は幻みたいに消え失せた。

 それは、血なまぐさい戦場にほんの一瞬立ち現れた美しい幻影であったのか。


 否――紛れもない現実だ。

 ヘラクレイオスは、突き出した右腕を見やる。

 オルフェウスが加速に入るのと同時に、ヘラクレイオスも拳を繰り出していたのだ。

 完璧な反撃カウンターとなるはずだった一撃は、しかし、虚しく空を切った。

 ヘラクレイオスが想定したのは、数十億通りにも及ぶ可能性のなかで、最も確度が高い軌道コースだった。実戦を通して修正を重ね、オルフェウスの取りうる行動はすべて計算し尽くしていたはずであった。

 にもかかわらず、必殺の拳はオルフェウスに触れることなく、ついにエネルギーのすべてを使い果たして停止したのだった。

 ヘラクレイオスの心に兆した驚愕は、絶対であるはずの予測が外れたせいだけではない。 

 巨木のように逞しい右腕は、見るも無残な姿に変わり果てていた。

 灰白色グレーの装甲は前腕から肩にかけてごっそりと剥ぎ取られ、広範囲に渡って内部機構メカニズムが露出している。傷口からは血よりもなお赤黒い液体がたえまなくあふれ、遺跡の石畳に吸い込まれてゆく。

 ヘラクレイオスの装甲は、あらゆる戎装騎士ストラティオテスのなかで最も分厚く、至近距離で生じた核融合反応にも耐えきるほどの靭性と強度を誇る。

 堅牢きわまりないその装甲が、まるで紙細工のようにやすやすと切り裂かれるとは――。


 オルフェウスの”破断の掌”ならば、それも不可能ではない。

 両掌に配された十六兆もの微細な刃は、あらゆる物質の間隙に入り込み、どれほど強固な結合も触れるだけで断ち切ることが出来る。

 だからこそ、ヘラクレイオスは”破断の掌”の直撃を受けないように立ち回ってきた。

 ここまでの戦いで受けたダメージが装甲の表層部に留まっていたのは、ヘラクレイオスが持つ桁外れの演算能力の賜物である。先の先を読むことでオルフェウスの加速能力に対抗し、自身の被害を最小限に低減してきたのだ。


 もっとも、いまとなってはそれも過去の話だ。

 右腕の傷は致命傷にこそ至っていないものの、かなりの深手であることには違いない。

 少なくとも、これまで受けたかすり傷とはあきらかに一線を画している。

 もう半歩ばかり深く踏み込んでいたなら、右腕は完全に消滅していたはずだ。すんでのところでヘラクレイオスを押し留め、利き腕を救ったのは、無意識の警告であった。


「ぬう――――」


 いまやオルフェウスの速度はヘラクレイオスの演算能力を超え、ほとんど未来予知の域にまで達したはずの模倣エミュレートはまるで用をなさなくなった。

 新たに有効な手立てを講じようにも、オルフェウスがどのように動いたかさえ見当もつかないのだ。

 おのれの手の内を読まれたオルフェウスは、新たな姿に変形へんぎょうを遂げることで、ふたたび戦いの時計の針をゼロに戻したのだった。

 ヘラクレイオスは太い首を巡らせ、前庭テラスの片隅に視線を向ける。


 真紅の異形はそこにいた。

 戎装殲騎ストラティオテス・ディミオス――戎装騎士ストラティオテスを殺すための戎装騎士ストラティオテス

 美しくも恐ろしい処刑人は石畳の上に静かに佇み、じっとヘラクレイオスを見つめている。

 無貌の面に白光が流れた。

 まばゆい光芒は幾何学的な紋様パターンを描いて拡散し、不規則に明滅を繰り返す。


「もう諦めたほうがいい」


 向かい合ったまま、オルフェウスは玲瓏な声で告げる。


「あなたは私に勝てない」

「投降しろとでも言うつもりか」

「違う」


 言い切った声は、氷の冷たさを帯びていた。


「あなたはここで倒す。私が、この手で消し去る」


 オルフェウスはゆっくりと一歩を踏み出す。

 一帯を満たしていたはずの暑気はどこへ追いやられたのか。

 いま、灰白色グレーと真紅の騎士のあいだに充溢するのは、骨の芯まで凍てつくような凄まじい鬼気であった。


「――それが、私の役目だから」


***


「いいだろう」


 ヘラクレイオスは傷ついた右腕を庇う素振りも見せず、ふたたび構えを取る。

 すでに傷口からの液体の漏出は止まっている。多量に流れ出たのは、露出した破損部を覆い、保護するためでもあるのだ。


「来い――」


 挑発と呼ぶには、あまりに重々しい言葉であった。

 ヘラクレイオスにはわずかな油断も慢心もない。

 オルフェウスに先手を譲るのは、この状況ではそれが最善手と判断したためだ。

 疾さでは相手に圧倒的な分がある以上、迂闊に動くのは自殺行為と言っても過言ではない。ヘラクレイオスは以上、後手に回ろうとするのは当然であった。

 むろん、次の一撃を受けて生還出来る保証はどこにもない。

 戎装騎士ストラティオテスの急所である胸部を破壊され、一瞬のうちに勝負が決する可能性も否定出来ない。

 すくなくとも、オルフェウスはそのつもりで攻撃を仕掛けてくるはずだ。

 先読みに長けたヘラクレイオスとの戦いにおいて、長引けば長引くほどオルフェウスは不利に追いやられる。それに加えて、加速能力を持つ騎士に特有のエネルギー消耗の問題もある。

 最短最速の決着を望むのは道理であった。


 ヘラクレイオスの眼前から真紅の色が消え失せたのはその瞬間だった。

 思考より先に身体が動いた。

 もはや優れた演算能力を活かした先読みも、模倣エミュレートによる最適解の算出も望めない。

 これまで蓄積してきた戦闘経験と、騎士としての直感がヘラクレイオスを動かしている。わずかな判断の誤りが生死を左右するこの状況において、思考に頼ることはかえって命取りになりかねないのだ。


「む……ッ!!」


 ヘラクレイオスがわずかに後じさった。

 同時に、分厚い装甲に覆われた背面から突き出たものがある。

 真紅の切っ先であった。

 オルフェウスの腕が形を変えた二振りの刃は、この宇宙のいかなる物質よりも細く鋭い先端を持つ。

 触れた物体を消滅させる”破断の掌”に対して、”破断の刃”は貫通と切断に特化している。絶大な破壊力と引き換えに得たのは、敵のもっとも弱く脆い部分を穿つ能力ちからであった。

 いま、美しい剣はさしたる抵抗も受けず、あっさりとヘラクレイオスの胴体――最も分厚く強靭な装甲に覆われた部分を貫いたのだった。 


 ヘラクレイオスの腕が動いた。

 オルフェウスめがけて、左右から挟み込むように両の拳を叩きつける。

 耳を聾する衝撃音が一帯を領したとき、真紅の装甲はすでに遠く飛び退ったあとだった。


「……残念だったな」


 ヘラクレイオスは独り言みたいに呟いた。

 その言葉はオルフェウスに向けてのものか、それとも自分自身に向けたものか。

 いずれにせよ、もう一歩のところで敵を仕留め損ねたのは、どちらも同じであった。


「よく狙え。さもなくば、俺は倒せん」


 腹部から突き込まれた刃は、ヘラクレイオスの全機能を司る中枢部をわずかに逸れていた。

 誤差はほんの数ミリにすぎない。まさしく一髪の差でヘラクレイオスは九死に一生を得たのだった。

 むろん、たんなる偶然ではない。

 ヘラクレイオスは位置を本能的に見極め、みずからそこに身を置くことで、オルフェウスの切っ先を惑わせたのだ。

 オルフェウスは怯むことなく、ふたたび攻撃態勢に入る。


――もう、後はない。

――次の一撃で決着がつく。


 それは、ほかならぬヘラクレイオス自身が誰よりも理解している。

 オルフェウスの攻撃は一撃ごとに鋭さと精度を増している。

 ヘラクレイオスが戦いを通して演算能力をさらに磨き上げたのと同様、オルフェウスも恐るべき速度で成長しているのだ。

 小細工や欺瞞が通用する相手ではない。ヘラクレイオスの経験と直感も、三度目の攻撃までは凌ぎきれないだろう。

 ぎり、と巨拳が鳴った。


――たとえ刺し違えても、奴だけはここで倒さなければならない。


 死線の只中に響いたその音は、ぶつかり合う生命と生命が上げる軋りにほかならなかった。


***


 オルフェウスの両肩のはねが微かな光を放ち始めた。

 翅とは名ばかりのそれは、大気中に存在する電子を吸収したのち、加速・放出することで推進力として利用する加速器ブースターだ。

 あらたに生成された加速器によって、オルフェウスはヘラクレイオスの演算能力を上回る疾さを得た。もはや反撃を恐れる必要もなく、一方的に攻撃を加えることさえ出来る。


 だが、何事にも代償はつきものだ。

 戎装殲騎ストラティオテス・ディミオスへの変形を遂げてからというもの、エネルギー消費量は従来とは較べものにならないほど増大している。

 この姿を維持しているだけでも、体内のエネルギーは減少し続けているのだ。

 ただでさえ長期戦には不向きなオルフェウスである。

 戦闘を継続出来るのは、長く見積もってもあと一分ほどだろう。

 体内のエネルギーが払底すれば、オルフェウスの意思とは無関係に戎装は解除され、戦うことはおろか動くことさえままならなくなる。

 身動きが取れなくなるということは、戦場において死と同義だ。

 そうなる前にヘラクレイオスを仕留め、この戦いに決着を付けねばならない。


 自分を行かせてくれた仲間たちのために――。

 いまはもういない、大切な人が愛したこの世界を守るために――。


 少女の胸には、わずかな恐怖も躊躇いもなかった。

 すべての重荷を振り捨て、疾さの究極に至らなければ、目の前の敵を倒すことは出来ない。


 オルフェウスは加速の態勢に入る。

 加速器はすでに充填チャージを終え、加速と同時に爆発的な推力を生み出すはずであった。

 推進力に身を任せる以上、攻撃は直線的な軌道を取らざるをえない。

 だが、軌道を取ったところで、ヘラクレイオスの反応速度を上回っていれば何の問題もないのだ。

 オルフェウスは、次の一撃にすべてのエネルギーを注ぎ込むつもりだった。

 加速能力も、”破断の刃”も、この期に及んで出し惜しみはしない。

 自分が持てる最大の力を、最速で叩き込む――。

 ヘラクレイオスがどんな策を講じても、必ず追いすがって仕留めてみせる。

 悲愴なまでの決意とともに、オルフェウスは加速中の全挙動をみずからの身体に入力していく。

 もはや後戻りは出来ない。加速が解除されたときには、すでに勝敗は決している。


 やがて、加速に突入すると同時に、オルフェウスの五感は闇に包まれた。

 加速は感覚器センサーの限界を超え、オルフェウスを無音無明の世界へと隔離したのだ。

 石畳を蹴る感覚も、装甲が風をかき分ける手触りも、巨大な推力に押し出される衝撃も、暗闇のなかでは感じることはない。オルフェウスは凝縮された時間が過ぎ去るのを待つだけだ。そのあいだにも、身体はあくまで機械的に動き続けている。


 わずかな時間が流れ、暗闇は唐突に終りを迎えた。

 すこしずつ世界に光と音が戻っていく。

 次の瞬間、目の前に広がった光景に、オルフェウスは我知らず後じさっていた。

 突き出された”破断の刃”は、まっすぐにヘラクレイオスの胸へと吸い込まれている。

 攻撃はこれ以上ないほどの成功を収めた。

 ただひとつ、予期せぬ事態が生じたことを除いては。


「なぜ――」


 震える声で呟いたのは、はたしてどちらだったのか。


 灰白色グレーと真紅のあいだで、二つの色を映し出すものがある。

 みずからの色を持たない騎士――アイリス。

 ”破断の刃”の切っ先は、透明な装甲に覆われた胸部を刺し貫き、ヘラクレイオスの胸に触れることなく停止していた。

 刃が抜けると同時に、アイリスは力なく膝を折る。

 薄青色の髪が石畳に広がったのと、血を吐くような絶叫が”トゥリスの丘”に響き渡ったのは、ほとんど同時だった。

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