第160話 紅殲騎

 エウフロシュネーが目を覚ましたのは、奇妙な場所だった。


 頭上にあるのは空ではなく、足元にあるのは大地ではなかった。

 そこには、上下左右の区別すら存在していないようであった。

 薄墨を流したように模糊とした景色はどこまでも果てしなく広がり、そうかと思えば四方を壁に囲まれた狭隘な小部屋に閉じ込められたような感覚を覚える。

 おそらく、のだろう。


 距離感も平衡感覚も、すべてが曖昧だった。

 自慢の翼と推進器が役に立たないだろうことは、試すまでもなく分かる。

 ここでは自分の意志とは無関係に、あるともないとも言い切れない透明な流れに身を任せて揺曳ようえいするほかないのだ。


 エウフロシュネーは、かつてここによく似た場所を訪れたことがある。

 空のはるか上に広がるもうひとつの世界――宇宙。

 ラケルとレヴィとの戦いにおいて、戎装飛鳥ストラティオテス・ヒエラクスへと変じたエウフロシュネーは、合体した二騎を掴んだまま天上へと駆け上がったのだ。

 上昇するにつれて重力の鎖は少しずつ弱まり、周囲には果てしない漆黒の海が広がっていった。そこは冷たく底知れない、あらゆる生命の息吹から隔絶された異界であった。

 エウフロシュネーはその入口に足を踏み入れたにすぎない。

 それでも、ほんの一瞬覗き込んだ恐ろしくも美しい世界の記憶は、少女の胸にあざやかに刻み込まれている。


 ならば、いま自分を取り巻くこの場所も、やはり宇宙なのか?

 違う――エウフロシュネーは、直感的にそうではないことを理解していた。

 なるほど、どちらも上下左右の区別がなく、酸素を利用する推進器がまるで用をなさなくなるところも同じではある。

 だが、宇宙であればはるか眼下には自分たちが住む世界があり、身体にまとわりつく重力も完全に消失する訳ではない。

 さらに付け加えるなら、装甲が白く凍りつくほどの極寒の環境でもあるのだ。

 ぬるい水に浸かっているみたいに、ただ安穏と流れに身を委ねていられるこの場所は、エウフロシュネーの知る宇宙とは似て非なる空間であった。


 ぼうっと白い燐光が生じたのはそのときだった。

 前方とも上方とも言い難いが、いずれにせよ、エウフロシュネーの目の前であることには変わりない。

 おぼろげに揺れるばかりだった燐光は、次第に人の形を取りはじめる。

 不定形の光は見る間に凝結し、質量を持った無色透明の装甲へと変わっていった。

 戎装騎士ストラティオテスアイリス――。

 自分自身の色を持たない透き通った騎士は、なにもかもが不確かなこの場所にあって、ひときわ幽冥な儚さをまとっている。


「あなたが私をここに連れてきたの?」


 戸惑いながら、エウフロシュネーは手を伸ばす。

 やはりと言うべきか、蒼い装甲に覆われた指先がアイリスに触れることはなかった。

 息が触れそうなほど近くにいるように見えて、実際には無限の距離を隔てているのかもしれない。目に見えるものも、常識に基づいた推測も、ここでは何の意味も持たない。

 


「おねがい――答えて」


 それでも、エウフロシュネーの言葉はたしかに聞こえているようだ。

 再三の問いかけに、アイリスはようやくこくりと頷いた。


「あなたには……しばらくここにいてもらう……」 

「しばらくって、いつまで?」 

「ヘラクレイオスが勝つ……まで」


 アイリスはぽつりと呟いた。

 その言葉はエウフロシュネーへの返答であると同時に、自分自身に言い聞かせているようでもある。


「誰にも……あの人の戦いの邪魔はさせない……」

「そのあいだに私も倒すつもり?」

「心配いらない……戦いが終わったら……元の世界に戻してあげる」


 アイリスの言葉に偽りの響きはなかった。

 この場所のあらゆる物理法則はアイリスの支配下にある。やろうと思えば、エウフロシュネーを存在ごと消し去ることも可能なのだ。

 にもかかわらず、アイリスは自分を狙ってきた敵を前にして、なんらの攻撃を加える素振りも見せない。

 エウフロシュネーが訝しんだのも道理であった。


「ここから出してくれるのはうれしいけど、私たちは敵同士なんだよ。倒せるうちに倒しておいたほうがいいんじゃないかな」

「私は……そうは思わない」


 アイリスはゆっくりと首を横に振ると、


「私……本当は、誰も傷つけたくない……」


 消え入りそうな声で、訥々と言葉を紡ぎはじめた。


「だから……さっきあなたが言ったこと……私は、間違っていないと思う……」

「騎士同士で傷つけあうのは、もう止めようってこと?」

「そう――」


 アイリスの声音には、隠しきれない悲嘆と哀惜の情が滲んでいる。

 語るほどに、もう二度と還らない仲間たちへの思いが胸を埋めていく。


「私……カドライとエリスにも……生きてほしかった……」

「だったら、ヘラクレイオスを止めてよ。そうすれば、これ以上誰かが死ぬことも、傷つけあうこともないんだよ」

「それは……出来ない」


 アイリスはやはり俯いたまま、弁明するみたいに言った。


「あの人は、私のために戦ってくれている……私を助けるために、すべてを投げ出してくれた……今さら止めることなんて、出来ない」

「このまま戦い続ければ、ヘラクレイオスだって死んじゃうかもしれないんだよ」

「……死なない」

「どうしてそう言い切れるの?」

「……約束、したから」


 アイリスはあくまで力強く言い切った。

 先ほどまで言葉の端々に滲み出ていた弱さや後悔は、もはやどこにもない。

 大きな力に背を押されるようにして、アイリスは決然とエウフロシュネーに向かい合う。


「あの人は、私との約束を破ったりしない。何があっても――絶対に」


 アイリスの身体がびくりと跳ねたのは次の瞬間だった。

 透明な騎士はわずかに後退すると、そのまま彫像と化したみたいに動かなくなった。

 尋常ならざる事態の出来しゅったいを悟ったエウフロシュネーは、気遣わしげに問いかける。


「大丈夫……?」

「静かにして――」


 言って、アイリスは中空に手を掲げる。

 ちょうどそのあたりの空間がまるくたわんだかと思うと、薄皮をめくるみたいに剥がれ落ちていった。


「これ、もしかして……」


 エウフロシュネーはおもわず息を呑む。

 空間の向こう側で繰り広げられている凄まじい戦いに気圧されたためだ。

 ヘラクレイオスとオルフェウス――最強と最強の死闘は、早くも決着の瞬間ときを迎えようとしていた。


***


「……無駄だ」


 ヘラクレイオスは拳を構えたまま、低く重い声で呟いた。

 オルフェウスにむかって語りかけているはずのその言葉は、しかし、どこか独り言のようでもある。

 返答など最初から期待していないのだ。普遍の真理を説く賢者のように、灰白色グレーの巨人は静かに言葉を継いでいく。


「いくらあがいたところで、貴様に俺は倒せん。仕掛ければ仕掛けるほど、自分を追い詰めていることに気づかないのか」


 ヘラクレイオスの巨体には、おびただしい生傷が刻まれている。

 戦闘が始まってからまだ五分と経っていない。その間、二騎のあいだで交わされた攻防はゆうに五百を超えている。

 オルフェウスが神速で攻め立てるなら、ヘラクレイオスは正確無比な防御で迎え撃つ。


 逆もまた然りであった。

 ヘラクレイオスの全身を埋め尽くす無数の傷は、その過程でつけられたものだ。

 だが、どの傷も装甲の表面を浅く抉り取るばかりで、致命傷には至ったものはひとつとしてない。

 オルフェウスが手加減をしている訳ではない。生命を奪うつもりで攻撃を仕掛けているにもかかわらず、一髪の差でことごとく躱されたのだ。

 恐るべきは、オルフェウスの加速能力すら凌駕するヘラクレイオスのであった。

 加速中はあからじめ身体に入力した動作パターンに従わねばならない以上、敵にそれを読まれていては、どれほど疾さに優れていても有効な攻撃を加えることは出来ない。


 ここまでの戦いではオルフェウスも傷らしい傷も負っていないが、それも当然だ。

 もし一度でもヘラクレイオスの拳が当たっていたなら、真紅の装甲は原型を留めぬほどに破壊されていたにちがいない。生存していることと、無傷であることは、この戦いにおいてまったく同じ意味を持つのだ。


「まだ――」


 オルフェウスは数メートルも飛び退り、ふたたび攻撃の構えを取る。

 いったん距離を取って仕切り直そうというのだ。

 加速能力を最大限に活かすためには、敵の間合いに近づきすぎてはならない。変則的な動きで敵を撹乱するためには、ある程度の距離が必要となる。

 それは同時に、加速に費やされるエネルギー量が増大するということをも意味している。

 いまのところ払底には至っていないものの、もともと継戦能力には問題を抱えているオルフェウスである。早々に決着をつける必要があることは、彼女自身が誰よりもよく理解している。


「まだ、戦いは終わってない」

「俺には貴様の考えが手に取るように分かる。次にどう動き、どこから攻めるのか……」


 言いつつ、ヘラクレイオスは岩塊みたいな両拳をゆるゆると開く。

 次の瞬間、オルフェウスに突きつけられたのは、二振りの巨大な手刀であった。


「貴様は時間をかけすぎた」


 ヘラクレイオスの頭脳には、が息づいている。

 戦いのなかで得たさまざまな情報を分析し、オルフェウスの挙動を完全に模倣エミュレートしたのだ。

 ヘラクレイオスの優れた演算能力を以ってすれば、意識の一隅に仮想敵を作り出す程度は造作もない。はオルフェウスと寸分違わぬ思考に基づいて動き、ヘラクレイオスが次に取るべき行動を示してくれる。

 演算の過程で生じたわずかな誤差も、現実の戦いを通して少しずつ修正していった。

 結果、その精度はいまやほとんど未来予知と言うべき領域に達している。

 オルフェウスがいかなる軌道で攻撃を仕掛けても、ヘラクレイオスはそれに合わせて完璧な反撃カウンターを繰り出すことが出来る。

 すでに勝敗は決した。手の内をことごとく読まれたオルフェウスは、攻めに転じた時点で敗れ去る運命にある。

 千日手のごとき様相を呈していた戦局は、次の一撃で決着する――そのはずだった。


「それでも、私は戦う」


 オルフェウスは音もなく一歩を踏み出す。


「私を行かせてくれたみんなのために。そして、私自身のために」


 真紅の装甲に変化が生じたのはそのときだった。

 表層に裂け目が走ったかと思うと、分割された装甲は次々に体内に引き込まれ、それに合わせて身体全体が形を変えていく。


 カドライのように装甲を脱ぎ捨てているのではない。――その逆であった。

 オルフェウスは、おのれの血肉を喰らい、それを材料として自分自身を作り変えているのだ。

 より疾く、より強い身体へと。

 最強の騎士に打ち勝つ力を得るために、少女はあらたな姿に生まれ変わる。


「私の大事な人たちがいる世界を、あなたたちに壊させたりしない」


 いま、ヘラクレイオスの前に立つのは、誰も見たことのない異形の騎士であった。

 美しく透き通った真紅の装甲はそのままに、いっそう鋭く研ぎ澄まされた輪郭シルエットが目を引く。

 両肩から伸びた一対の小ぶりなはねは、空を駆けるためのものではない。取り込んだ電子を放出し、瞬時に爆発的な推力を生み出す粒子加速器だ。

 両腕の肘から下は、長大な刃へと変形へんぎょうを遂げている。

 形こそ大きく変わっているが、まぎれもなく”破断の掌”が変化したものだ。

 掌に密集していた刃が分散したことで破壊力は低下したものの、わずかな接触で致命傷を与えることには違いない。


 戎装殲騎ストラティオテス・ディミオス――。


 戎狄バルバロイを、そして戎狄と同じ力を持つ戎装騎士ストラティオテスを殺すための存在――オルフェウスは、忌まわしくも美しいその宿命にふさわしい姿を手にしたのだった。


「……あなたを倒す」


 身じろぎもせずに変形の一部始終を見届けたヘラクレイオスにむかって、オルフェウスは玲瓏な声で告げる。

 聞く者の心まで凍てつかせる声は、永遠不滅の存在であるはずの戎装騎士ストラティオテスにも否応なく死を突きつける。それはヘラクレイオスとて例外ではないのだ。


 ヘラクレイオスの目の前で、オルフェウスの姿は忽然と消え失せた。

 一陣の風が遺跡を吹き抜けていった。

 刹那、色のないはずの風に、ヘラクレイオスはたしかにそれを見た。

 残酷なまでに美しい、血よりもなおあざやかな真紅くれないの色を。

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