第159話 神々の墓標にて

 静寂と闇とが遺跡を包んでいた。


 ”トゥリスの丘”の斜面には大小さまざまの遺構が散在し、頂上には最も巨大な神殿が佇んでいる。

 いずれも長い年月を閲するあいだに風化し、あるいは人為的に破壊され、星明りの下に荒涼たる亡骸を晒すばかりであった。

 いつの時代、誰が、何のためにこれらの建造物を作ったのかは、いまとなっては判然としない。

 古帝国が東方に進出する以前、ガレキアには周辺を支配していた王国の首都みやこが置かれ、交易の要衝として殷賑を極めていた。

 ”トゥリスの丘”の神殿は、この地を治めていた王家の祖霊を祀る廟であったとも、富裕な貿易商たちが旅路の安全を祈って建立こんりゅうしたものであったとも言われている。いずれにせよ、王国の名前すら遠く忘れ去られた今日においては、往時の役割を知る者もすっかり途絶えている。

 いにしえの歴史書の語るところによれば――かつて『帝国』の侵略を受けた際、王は妻子を伴ってこの丘に登り、なかば灰燼に帰した都市を見下ろしたあと、ついにみずから生命を絶ったという。

 それからというもの、住民は亡き王の祟りを恐れて近づかず、行政府も丘の上という立地のために有効な活用法を見いだせぬまま、遺跡群は今日までほとんど手付かずのまま放置されているのだった。


 ナギド・ミシュメレトに扇動された反乱軍がガレキアを占拠してからも、”トゥリスの丘”はやはり捨て置かれた。

 たんに軍事的な利用価値が低いと判断されたためだけではない。

 戎装騎士ストラティオテス同士の決戦の舞台として、市街地から離れたこの場所はまさしくおあつらえ向きだったからだ。

 騎士同士の戦いにおいて、人間はあくまで無力である。人ならざる者たちの死闘が決着するまでは、反乱軍も決して丘に近づくことはない。

 それが市街地を出た途端に追手が失せた理由だとは、むろんアレクシオスやイセリアは知る由もないことであった。


 いま、神殿の前庭テラスは寂然として音もなく、石敷きの広場には崩れた石柱が細くいびつな影を落としている。

 神殿の奥から戛然たる足音が響いた。

 いまにも崩れ落ちそうな石組みの門柱アーチをくぐり、闇の底から浮かび上がった輪郭は二つ。

 恐ろしく巨大な一つと、その半分にも満たないであろうもう一つ――。

 ヘラクレイオスとアイリスであった。

 どちらも戎装はしていない。

 能力の後遺症によって思うように歩けないアイリスの歩幅に合わせるように、ヘラクレイオスはゆるゆると歩を進める。


 前庭テラスに出たところで、二人はほとんど同時に足を止めた。

 ぬるい風が吹いていた。

 薄青色の髪がさらさらと風に流れても、アイリスは気にする素振りもない。髪と同じ色の瞳は、言いようのない憂いの色に揺れている。


「カドライと……エリスは……」


 アイリスは闇の彼方を見つめながら、ぽつりと呟く。


「私たちの、ために……」


 そこで言葉を切ったのは、それ以上何かを言うことが憚られたからだ。

 先ほどまで聞こえていた激しい物音が絶えると同時に、二人の気配も感じられなくなった。

 戦いのなかで、どちらか一方の気配が消え失せる――。

 それが何を意味しているのかは、むろんアイリスにも分かっている。

 分かっているからこそ、どうしても口にすることは出来なかった。ひとたび言葉にしてしまえば、は揺るがしがたい事実に変わってしまう。


「お前が気に病むことは何もない」


 ヘラクレイオスは常と変わらぬ厳かな口調で、あくまで静かに断言する。


「これも奴らが自分自身の意志で選んだことだ」

「でも、私……」

以前まえにも言ったはずだ――自分のことだけを考えろ」


 ヘラクレイオスは丸太みたいな両腕を固く組み、黙然と虚空を見つめている。

 あくまで泰然自若たる構え。ただでさえ並外れて太く逞しい体躯は、いまや大地そのものと合一したような印象さえ帯びている。

 志を共にする仲間を失い、迫りくる敵を前にほとんど孤立しながら、最強の騎士の佇まいにはわずかな動揺も見受けられない。


「でも……ヘラクレイオス、あなたは……」

「俺のことは心配しなくていい」


 はるかな闇の彼方を睨んだまま、男は力強く言い切った。


「俺は負けはしない。誰が相手だろうと――だ」


 言葉だけを取り出せば、強者の驕りと取られても無理はない。

 それでも、不思議なほどに不遜や増上慢を感じさせないのは、おのれの技量に寸毫ほどの疑問も抱いていないためだ。定められた運命であるかのように、あるいは天地自然のことわりであるかのように、ヘラクレイオスはみずからの勝利を確信している。

 アイリスも、それ以上は何も言わなかった。

 ヘラクレイオスの実力は、かつてともに戦場を駆け回った彼女自身が誰よりもよく知悉している。

 北方辺境において、最も多くの戎狄バルバロイを葬り去った騎士――。

 この地上で並ぶもののない力を秘めた無敗の戦鬼――。

 そのヘラクレイオスが、自分ひとりのために戦ってくれようとしている。

 戦いの結末についていかなる疑念も差し挟むべきではない。勝利を祈ることさえ、この男には不要であるはずだった。

 アイリスに出来るのは、ただヘラクレイオスを信じることだけなのだ。


「……ありがとう」 


 あるかなきかの小声で紡がれたその言葉は、はたしてヘラクレイオスの耳に届いたかどうか。

 ヘラクレイオスは答えず、やはり前方を睨めつけたまま、じっと前庭テラスに佇立している。

 と、胸の前で組んでいた両腕をほどいたのは次の瞬間だった。


「来たか――」


 ヘラクレイオスは低く呟く。

 落ち窪んだ瞳が見据える先で、美しい影はゆっくりと斜面を上ってくる。

 生ぬるいはずの夜気は、影が進むごとに一度ずつ温度を失っていくようであった。

 一歩また一歩と、死の気配が近づいてくる。石畳に響くのは、死神の足音にほかならない。

 ふたたび風が吹き渡り、亜麻色の長い髪がたなびいた。


 オルフェウス――――。

 もうひとりの最強の騎士は、いま、戦場に足を踏み入れたのだった。


*** 


 石柱に囲まれた前庭テラスで、二騎と一騎は対峙する格好になった。


「……離れていろ」


 ヘラクレイオスの言葉に、アイリスはちいさく頷く。

 考えるまでもなく、最強の騎士同士の戦いは想像を絶するものになるはずだ。意地を張ってこの場に留まったところで、アイリスに出来ることは何もない。

 なにより、アイリス自身、ヘラクレイオスの足手まといになることを恐れている。

 ひとまず安全な場所に避難し、戦いが終わるのを待つ――それこそが、現状で取りうる最善策であるはずだった。


「気をつけて――ヘラクレイオス」


 ヘラクレイオスは答えなかった。

 ただ、太い首を巡らせ、オルフェウスをまっすぐに見据える。

 それだけで十分だった。差し迫った戦いに全力を傾けるという無言の意思表示であり、勝利の宣誓でもあるのだ。

 アイリスは安堵したように瞼を閉じると、おぼつかない足取りで神殿の奥へと戻っていく。

 次の瞬間、オルフェウスの視界を覆ったのは、灰白色グレーの巨体だった。

 一瞬のうちに戎装を終えたヘラクレイオスは、アイリスを庇うようにオルフェウスの前に立ち塞がる。


「どこを見ている? 貴様の相手はこの俺だ」


 オルフェウスは無言のまま、たたらを踏むように後じさる。

 一方の踵が石畳に触れようかというとき、轟音とともに地面が爆ぜた。

 ヘラクレイオスが巨拳を叩きつけたのだ。

 衝撃が加わった地点はすり鉢状に陥没し、しゅうしゅうと白煙が立ち上る。敷石はまるで玻璃ガラス細工みたいに砕け散り、瞬間に生じた破壊力の凄まじさを如実に物語っている。

 この拳こそがヘラクレイオスの唯一にして最大の攻撃手段であり、最強の騎士と称される所以でもある。


 きらびやかな能力も、一騎当千の武装も、ヘラクレイオスは持ち合わせていない。

 生来の武器といえば、並外れた頑強さと膂力だけだ。

 それでもヘラクレイオスは倦むことなく、ひたすら愚直に拳打を究めた。

 他の騎士を寄せ付けない強さを得たのは、その結果にすぎない。最も多くの戎狄バルバロイを討伐した戦績にしても、みずから栄光を欲した訳ではなく、戦いに没頭するなかで意図せず掴み取っていたものだ。

 いかにオルフェウスといえども、ヘラクレイオスの拳をまともに受けてはひとたまりもない。まして戎装する前であれば、跡形もなく消滅していたとしてもなんら不思議はないはずであった。

 やがて風が白煙を剥ぎ取ったとき、地面に穿たれた破孔クレーターのなかにオルフェウスの姿はなかった。


「――やはり、か」


 破孔を見つめたまま、ヘラクレイオスは得心がいったようにひとりごちる。

 むろん、一撃で仕留めたことを確信した訳ではない。

 オルフェウスはあの一瞬に難を逃れていたのだ。

 から、オルフェウスはどこへ逃れたというのか――。


「そうでなければな」


 ヘラクレイオスは視線を上方へと向ける。

 前庭テラスの四囲に立ち並ぶ石柱、そのなかで最も高い一本の頂上へと。

 真紅の騎士はそこにいた。

 装甲は凍てついた炎のごとく、夜闇にあってますます冴え冴えと輝く。

 片方の爪先で絶妙に均衡バランスを保ちながら、その姿勢はぴたりと安定し、わずかな危うさも感じさせない。

 まるで石柱に戴かれた美しい神像みたいに、オルフェウスはヘラクレイオスを見下ろしている。


 あの瞬間――。

 ヘラクレイオスの拳が繰り出されることを察知したオルフェウスは、戎装と同時に加速に突入し、石柱の頂上へと逃げおおせたのだった。

 ヘラクレイオスの拳の速度は、オルフェウスの初動をわずかに上回っている。

 もし判断が一瞬でも遅れていたなら、いまごろは美しい装甲は無残に打ち砕かれていたにちがいない。

 加速中は事前の入力によって身体を操縦コントロールする以上、敵の攻撃を見てから動いたのでは到底間に合わないのだ。

 そのような場合に生死を分けるのは、ほとんど予知に近い直感であった。


「……来い」  


 ヘラクレイオスはオルフェウスを見つめたまま、くいと手招きをする。

 刹那、オルフェウスの身体はすっかり消え失せていた。

 霧と化して闇に溶けたとしか思えない、それは不可解な消失であった。


 一瞬の間をおいて、オルフェウスがふたたび出現したのは、ヘラクレイオスの背後だった。

 加速能力を発動したオルフェウスは、石柱の頂上から一気に駆け下りたのだ。

 そして、ヘラクレイオスの傍らを通り過ぎざま、”破断の掌”を作動させ、致命傷を与えた――そのつもりであった。


 ヘラクレイオスは背後を振り返りながら、左腕を見やる。肘下の装甲はごっそりと削ぎ取られ、生々しい爪痕を留めている。オルフェウスの攻撃によるものであることは言うまでもない。

 決して浅い傷ではない。

 それでも、すんでのところで九死に一生を得たと言うべきであった。

 あらかじめ防御姿勢を取っていたことで、オルフェウスの”破断の掌”はヘラクレイオスの胴に触れることなく、左腕の装甲を削ぎ取るだけに終わったのだった。


「……次は、外さない」


 戦いが始まってから、オルフェウスが初めて口を開いた。

 冷たい声音が闇に溶けるより早く、真紅の身体はふたたびヘラクレイオスの視界から消えていた。


***


 遺跡の奥へと進みながら、アイリスは時おり背後を振り返った。

 ヘラクレイオスを信頼していない訳ではない。

 それでも、オルフェウスがこれまでの相手とは格が違うことは、アイリスにも分かる。


――お願いだから……。 


 アイリスはもつれそうになる足を前へ前へと動かし、すこしでも戦場から距離を取ろうとする。


――無事に戻ってきて。


 やがて、石柱が等間隔に並んだ部屋を抜けると、神殿の中庭に出た。

 かつて身を清めるための泉と沐浴場があったのだろう一角はすっかり朽ち果て、石積みの遺構に昔日の面影を留めているにすぎない。

 背後で気配が生じたのはそのときだった。

 とっさに振り向こうとして、アイリスはその場に倒れ込む。わずかな段差に躓いて姿勢を崩したのだ。

 アイリスが顔を上げたのと、蒼い装甲をまとった戎装騎士ストラティオテスが闇の奥から現れたのは、ほとんど同時だった。

 有翼の騎士――エウフロシュネーは、アイリスにむかってゆっくりと近づいてくる。


「来ない……で……」

「大人しくしていてくれれば傷つけたりしないよ」


 心底から怯えきった様子のアイリスに、エウフロシュネーは困惑したように肩をすくめてみせる。

 周囲の景色に溶け込み、みずからの存在を完璧に隠蔽カモフラージュする――その能力を最大限に活用し、エウフロシュネーは気づかれることなくアイリスに接近したのだった。

 それが可能だったのも、オルフェウスがヘラクレイオスの注意を引きつけているからこそだ。


「私だってこんなことをするのは気が引けるけど……お姉ちゃんを助けるためなら、手段は選んでいられないからさ」

「何を……するつもり……?」

「ヘラクレイオスに戦いをやめてくれるように頼んでほしいんだ」


 エウフロシュネーはなおも距離を詰めながら、アイリスに語りかける。


「もし言うことを聞いてくれれば、これ以上傷つけあわなくて済むんだよ。今夜だけでも仲間が二人も死んだんだよ。おなじ騎士ストラティオテス同士で殺し合うのは、そろそろ終わりにしたいと思わない?」

「……だめ……」

「なぜ?」

「ヘラクレイオスは……私のために戦ってくれてる……」


 アイリスは、いまにも泣き出しそうになっている。

 エウフロシュネーが伸ばした手から逃れるように後じさりつつ、


「私は、あの人の役には立てないから……だから、せめて……」


 ふらつく身体で懸命に立ち上がろうとする。


「……あの人の足手まといにだけは……なりたくない……」


 身体を起こすと同時に、アイリスは戎装していた。

 限りなく透明に近い装甲をまとった異形は、やはりおぼつかない足取りでエウフロシュネーと向かい合う。

 全身に絡みついた無数の帯が仄かな光を放ちはじめた。それが何を意味しているのかは、アイリス以外には知りえないことだ。


「何を――」

「誰にも……邪魔は……させない!!」


 言い終わるが早いか、アイリスはエウフロシュネーの腕を掴んでいた。

 周囲の空間に亀裂が入ったのは次の瞬間だ。

 奇妙に歪み、本来の座標を失った空間は、アイリスを中心に収束していく。

 エウフロシュネーは逃れようと推進器スラスターを全開するが、一向に脱出することは叶わない。

 それも当然だ。は、もはや意味を失っているのだから。


「お姉ちゃ――――」


 エウフロシュネーの叫びは、誰の耳にも届くことなく虚空に失せた。

 やがて空間の亀裂が閉じ、神殿の中庭が本来の姿を取り戻したとき、二人の騎士の姿はどこにも見当たらなかった。

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