第158話 あの月をさがして…

「あんたにも事情があるみたいだけど……」


 イセリアはずいと前に出る。

 エリスとの距離は三メートルあまり。戎装騎士ストラティオテスの脚力ならば、目を瞬かせるあいだに間合いを詰めることも出来る。


「あたしには知ったことじゃないわ。おとなしく降参するか死ぬか、さっさと選びなさい」


 言い終える前に、イセリアは構えを取っていた。


「……なんて、わざわざ訊くまでもなかったかしらね」


 二本の尾が威嚇するみたいに逆立つ。

 エリスの身体から発せられた殺気を敏感に感じ取ったためであった。

 不可視の糸は、どこに張り巡らされているか知れない。

 致命傷を負うおそれはないとはいえ、攻撃を受ける危険リスクは極力減らしておきたいと考えるのは当然だ。エリスがここまでの戦いで手の内をすべて明かしたとは考えにくいということもある。


「私は……負ける訳にはいかない……」

「その身体でまだやるつもり? 言っておくけど、あたしは手加減しないわよ」

「望むところ……よ……」


 エリスの右手が上がった。

 直後、攻撃に備えて防御を固めたイセリアの眼前で展開したのは、予想外の光景だった。

 高く掲げたエリスの右掌から放たれたのは、数千万とも数億ともしれない膨大な数の糸であった。一本一本はやはり極めて細いが、わずかな範囲にあまりにも大量に密集しているため、イセリアにもはっきりと見て取れる。

 灯りひとつない夜闇に紫の輪郭があざやかに浮かび上がった。

 無数の糸はそれぞれ淡い光を放ち、エリスの身体を輝かせているのだ。


「どんな手を使っても、私は勝つ……!! この『帝国くに』を滅ぼすことがへのたったひとつ償いなら、誰にも邪魔はさせない……」


 四方から飛来した糸がイセリアの四肢と尾を絡め取ったのはそのときだった。

 エリスは左手からもひそかに糸を放ち、地面を這わせるようにしてイセリアを取り囲んでいたのだ。

 右手の奇妙な光に気を取られ、さらには尾の警戒も前方だけに振り向けていたために、イセリアの防備にはわずかな隙が生じた。

 エリスはその一瞬を見逃さず、反撃の暇を与えずに拘束することに成功したのだった。


「やってくれるじゃない。でも、さっきのであんたも思い知ったはずよ。あたしに同じ手は通用しない……」

「同じかどうかは、自分の身体で確かめるがいいさ」


 嘲笑うように言って、エリスは右手をイセリアに向ける。

 光の帯と化した糸はイセリアの胸と腹を包み、さらに四肢へと広がっていく。


「ふん、こんな見掛け倒しのハッタリで――」


 言いさして、イセリアは言葉を切った。

 異変に気づいたためだ。

 熱い――。

 光る糸が絡みついた部分に凄まじい熱が生じている。

 一瞬に猛火のなかに投じられたようであった。

 だが、たとえ燃えさかる炎の真っ只中に飛び入ったとしても、戎装騎士ストラティオテスにとっては何の問題もない。千度程度の熱では装甲に変化が生じることはなく、高熱によって内部機構メカニズムにダメージを被ることもないためだ。

 騎士のなかでも屈指の重装甲を誇るイセリアに苦痛を感じさせるのは、自然界には存在しない超高温にほかならない。

 摂氏四千度――糸の内側は、地上に存在するあらゆる金属の融点へと徐々に近づきつつある。


「さっさと放しなさいよ……っ!!」


 イセリアは身体をよじり、必死に拘束を解こうとする。

 だが、懸命の努力もむなしく、五体をいましめる糸は微動だにしない。膨大な数の糸が関節を封じ、さらには糸同士が高熱のために溶着しはじめているためだ。


「無駄だよ。この糸はどんなに足掻いても切れやしない」

「いったい何をするつもりよ……!!」

「私の力ではあんたをねじ伏せることも、操ることも出来ない。だけど、焼き尽くすことは出来る――」


 自信に満ちた口ぶりに反して、エリスの声は苦しげだった。

 無数の糸を超高温状態に導くためには、当然それに見合うだけのが要る。

 体内の全エネルギーを攻撃に振り向け、敵を拘束したまま跡形もなく焼尽させる。

 エリスは、まさしく生命がけでイセリアを仕留めようというのだった。


「これは賭けだよ。私の生命が尽きるのが先か、あんたが溶け落ちるのが先か……」


 イセリアの身体を拘束する糸はすっかり赤熱化し、さらに一部は白化している。

 あまりの高温のために相転移を来たしているのだ。耐熱限界に達した糸は、イセリアの装甲を巻き込んで気体へと昇華しはじめている。

 その現象がすべての糸に波及したときこそ、イセリアの身体は跡形もなく消滅するはずであった。


「最後に勝つのは、この私だ」


***


 灼熱の渦中にイセリアはいた。


 四肢はおろか、指一本動かすことも叶わない。

 しくじった――どれほど悔いたところで、状況が好転する訳でもない。

 差し迫った危機を前にしては、自分を責めるだけ時間を空費することになる。

 ならば、いまイセリアがすべきは、この絶体絶命の窮地を脱する術を探ることであるはずだった。


(今度は本気でヤバいかも――)


 首から下は糸に覆われ、ほとんど繭みたいにみえる。

 その状態では直接目視することは出来なくても、装甲が少しずつ溶け出していることは分かる。

 溶けた装甲は糸とともにたちどころに蒸発し、イセリアの身体はゆっくりと体積を減らしつつある。いまはまだ装甲に保護された内部機構メカニズムにまで熱によるダメージは及んでいないが、すべての装甲が失われるのも時間の問題であった。

 騎士ストラティオテスとしての機能の中枢を焼き尽くされては、さしものイセリアも死は免れない。

 もはや逡巡する猶予は残されていない。一秒ごとに最期の瞬間へと近づいていく恐怖がイセリアを急き立てた。


(早く……早くなんとかしなくちゃ……)


 だが、焦れば焦るほど、思考はますます深い迷路にはまり込んでいく。

 そうするあいだにも、身体を苛む苦痛は際限なく増大していった。

 エリスが出力を上げた訳ではない。熱を遮断していた装甲が失われたことによって、体内の各器官がいよいよ限界に近づいているのだ。


「そろそろ終わりにしてあげる――」 


 囁くようなエリスの声には、毫ほどの油断も驕りもない。

 確実に目の前の敵を仕留める。ただそれだけのために、紫の騎士は全身全霊を傾けている。

 それは、イセリアにとっては敵の過失につけ入る隙がないということでもある。

 このままの状態が続けば、イセリアの身体はあと一分と保たないだろう。

 もはやエリスの勝利は揺るがない――そう思われたときであった。


「なに……?」


 エリスの口をついて出たのは、心底からの驚愕の言葉だった。

 イセリアの身体を包む繭は、一見何の変化も生じていないようにみえる。

 だが、糸を操っているエリスは、その内部で生じた異変を手に取るように感じ取っていた。

 イセリアは各関節の封印シーリングを自分から解き、体内を循環する液体――人間にとっての血液を放出しはじめたのだ。赤黒い染みが繭の表面に浮かび、斑模様をつけていく。


「もう助からないと思って血迷ったのか? ……バカな真似を」


 エリスは半ば呆れたように吐き捨てる。

 騎士の体内を巡る液体は関節を柔軟に駆動させる潤滑油であり、また冷却液としての役割も担っている。超高熱に晒されている状況でそれをみすみす捨てるとは、まさしく自殺行為にほかならない。


「いまさら何をしようと、あんたはもう終わりだ。いい加減に諦めて……」

「勝負はまだ終わってないわよ」


 イセリアの声音には、不敵な響きがあった。 

 死の淵に追い詰められた者にはおよそ相応しくない余裕。

 勝機を見出した者だけに許される、それはまぎれもない反撃の宣告であった。


「……!?」 


 異変が生じたのはその瞬間だった。

 が糸を押し上げ、イセリアの身体と繭とのあいだに少しずつ空隙が生じつつある。

 そんなはずはない――エリスは愕然とイセリアを見やる。

 四肢も尾も、イセリアの身体のあらゆる可動部は完全に封殺している。もはや自分の意志では小指ひとつ動かせないはずであった。

 膨らんだ繭の表層に細い亀裂が走った。

 甲高い炸裂音と同時に、繭の内側から勢いよく噴出したものがある。


 蒸気――正確に言うなら、イセリアの体内を循環していた液体が気化したものだ。

 あらゆる気体は温度が上昇するにつれて膨張する。

 超高熱に晒されたことで気体へと相転移した液体は、密閉された繭の内部で逃げ場を失い、結果として凄まじい圧力を生み出した。

 エリスの作り出した糸の繭はその膨張と圧力に耐えきれず、とうとう内側から破壊されたのだった。

 ひとたび生じた亀裂はまたたくまに繭全体に広がり、ほんの数瞬前までイセリアを固く縛めていた灼熱の檻は、いまやほとんど形を失っている。


「いったい何をした……!?」

「さあ? あたしは駄目元でやれることを片っ端から試してみただけよ。もっとも、こんなに上手く行くとは思わなかったけど」


 イセリアはなおも四肢に絡みついていた糸を振り払うと、エリスにむかって一歩を踏み出す。

 高熱のために身体はところどころ溶解し、黄褐色の装甲はかなりの面積が白く変色している。それでも、イセリアの足取りはあくまで力強い。


「あんたの隠し芸もそろそろネタ切れかしらね――」


 一方、エリスの消耗ぶりはあきらかだった。

 それも当然だ。深手を負っていたところに、生命を削る大技を仕掛けたのである。体力はほとんど払底し、いつ膝を折っても不思議ではない。

 いまエリスを支えているのは、怨嗟と執念であった。

 愛する人を手に掛けたあの日から、少女の胸には二本の楔が深々と突き立っている。決してあがなうことの出来ない罪の証は、死の淵にあってもエリスに倒れることを許さないのだ。


「まだ……私は、こんなところで、負ける訳には……」

「ふうん。そこまでして戦うなんて、よっぽどが大切なのね? 死んじゃったら元も子もないと思うけど」

「あんたに私の気持ちは分からない……分かってたまるものか……」

「分からないわね」


 あくまで悲壮なエリスの言葉に、イセリアはあっけらかんと答える。


「あたしはあんたを倒して生きるわ。まだまだやりたいことはたくさんあるし、好きな人を置いて死ねないもの」

「何も知らないから、そんなことが言える……あんたもいつか裏切られ、私と同じようにすべてを失うことになる……」

「どうかしら」


 イセリアとエリスはほとんど同時に攻撃の構えを取っていた。

 どちらが先手で、どちらが後手かは判然としない。ただひとつ分かっているのは、次の一撃で決着がつくということだけだ。


「あたしは何も失わないし、奪わせやしない――大好きな人も、この世界もね」


 先に動いたのはエリスだ。

 不可視の糸は右手の指先に凝集し、透明な刺剣レイピアを形作っている。

 もはや無数の糸を自在に操り、その一本一本にエネルギーを送り込んで切断するだけの余力は残っていない。イセリアの生命機能を司る中枢を破壊するためには、切断力を一点に集中し、ただ一撃で勝負を決するほかないのだ。

 イセリアの装甲は熱によって著しく劣化し、ほとんど強度を失っている。刺剣の切っ先は苦もなく装甲を貫通するはずであった。


 エリスは紫色の疾風となってイセリアに殺到する。

 対するイセリアの動きは、ひどくにぶい。

 潤滑油を失ったことで四肢をうまく動かせないのか、単純にエリスの速度に追随出来ないのか……いずれにせよ、防御が間に合わないことは明白だった。


――もらった!!


 最後の間合いを駆けながら、エリスは快哉を叫ぶ。

 普段であれば、敵を倒さぬうちに勝利を確信することはない。予断はいかなるときも許されないからだ。

 限界に達しつつある身体と、追い詰められた精神の狭間で、エリスが常の判断力を失ったのも無理からぬことであった。

 刺剣の切っ先がイセリアの胸に突き立った。思っていたとおり、何の抵抗もなく、透明な剣は装甲に潜り込んでいく。


 イセリアの右手が閃いたのはその瞬間だった

 が、エリスの右手首を烈しく打擲する。

 衝撃によって刺剣の切っ先は必殺の軌道を外れ、装甲表面を浅く穿孔するに留まった。

 本来あるはずの手首がないことで、間合いを測りそこねたのだ。


 みずからの犯した失敗に気づいたとき、エリスの身体は左の脇腹から逆袈裟に切り裂かれたあとだった。

 イセリアの爪は胸部を深々と抉り取り、エリスの身体に残ったわずかな生命力を無慈悲に刈り取っていく。

 騎士ストラティオテスの最も重要な器官をことごとく破壊され、エリスは黒血を噴き上げながら仰向けに倒れる。

 もはや立ち上がる気力も残っていない。体内に残った最後のエネルギーを使い果たしたとき、エリスの意識は永遠に消滅するはずだった。


「……あたしの勝ちよ」


 戎装を解いたイセリアは、ぽつりと呟く。

 勝ち気で自信家の少女には似合わない、それはひとりごちるような勝利の宣言だった。


「最後に言い残すことがあるなら、聞いといてあげるけど」


 エリスは横たわったまま、戎装を解いた顔をわずかに横に振る。

 声を出す力も残っていないのだ。ささやかな意思表示を送るのが精一杯であった。


「じゃあね。あたしはまだやらなきゃいけないことが残ってるの。あんたのおかげですっかりボロボロにされちゃったけど、休んでる間はないわ」


 イセリアはそれだけ言って、エリスに背を向ける。

 とどめを刺さないのは、慢心のためではない。最後まで油断すべきではないことは、むろん承知している。

 それでも、最後の力が尽きるまで戦い抜き、いまや生命の終焉おわりを待つばかりとなった彼女に攻撃を加えることは、イセリアにはどうしても出来なかった。


 遠ざかっていくイセリアを見送ったあと、エリスはかすかな光を追って視線を上方に向ける。

 いつのまにか夜空におぼろげな月が出ていた。

 まるい月であった。


――また、会えた。


 瞳のなかで月が溶けていく。

 涙に溺れた月は、あくまでやさしく、死にゆく騎士を照らしている。

 エリスは手を伸ばそうとして、それが叶わないことを知る。

 どれほど願っても、けっして触れることは出来ない。

 ただ祈るだけだった。


――ねえ、今度、生まれ、変わったら……。


 エリスの頬を涙の粒が伝った。

 あの日から決して流すことのなかった涙は、乾いた地面に吸われていく。


――あなた、と、おなじ、…………。


 エリスはゆっくりと瞼を閉じる。

 黒雲が月を覆い隠し、ふたたび闇が”トゥリスの丘”を包んでいく。

 二度と開かれることのないエリスの瞳には、いつまでも消えることなく、やわらかな月が浮かんでいた。

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