第157話 鬼哭啾々(後編)

 春にしてはやけに肌寒い夜だった。


 かつて雅やかな歌詠うたよみ人が花冷えと呼んだのは、きっとこんな夜にちがいない。

 もっとも、風趣を解さない大多数の人間にとっては、過ぎ去ったはずの冬の再来は決して喜ばしいものではない。

 道行く人々は誰もが襟を合わせ、競い合うようにして家路を急いでいる。春のうららかな日差しに気を許し、薄着で外出してしまった後悔が、彼らの歩みを早くしているのだ。


 エリスはそんな人々の群れを離れると、大通りとは反対の方向に足を向ける。

 しばらく進んでいくうちに、周囲の景色は大きく様変わりしていた。

 道沿いに所狭しと立ち並んでいた商店や民家はいつのまにか姿を消し、代わりに白く高い塀がどこまでも続いている。

 塀の上からわずかに覗く屋根瓦は黒々と輝き、庭木はみごとな枝ぶりを道行く人に誇示している。塀の内側に広がる豪奢な空間を想像させるには、それだけで十分だった。


 イドラギア街区――この区画は、帝都のなかでも高級住宅街として知られている。

 街区への居住を許されるのは、元老院議員や各省庁の高官、そして皇帝の親族だけに限られている。どれほど財産があろうと、家柄の卑しい者はささやかな邸宅を構えることも許されない。まして、東方人ともなればもってのほかだった。

 皇帝のお膝元と呼ばれる帝都イストザントにあって、ここはほんのひと握りの特権階級のためにしつらえられた別天地であった。


 いまエリスが目指すのは、イドラギア街区の北西にある屋敷のひとつだ。

 任務を遂行するためであることは言うまでもない。

 エリスにとって、このあたりを訪れるのは初めてではない。以前にも二度ばかり、夜陰に乗じて高官の屋敷に忍び込んだことがある。一人は睡眠中の自然死、もう一人は心臓発作に見せかけ、誰にも気取られることなく始末した。顔も素性も定かではない犠牲者たちは、ただ死にざまによってのみエリスの記憶に残っている。


 家々の門前に立つ兵士たちに見咎められることもなく、エリスは目当ての屋敷へと近づいていく。

 高級住宅街という場所柄に配慮し、地味だが上質な衣服に身を包んでいるためでもあろう。

 兵士たちの目には、どこかの屋敷の召使いか、あるいは通いの愛妾とでも映っているはずだった。エリスの容貌からいえば、後者と考えたほうがしっくりくるだろう。

 エリスが見過ごされたのは、およそ挙動不審とは真反対の落ち着き払った立ち振舞いのためだけではない。

 このあたりに出入りする人間は、取るに足らない小者に見えても、その背後にどんな大物がついているか知れない恐ろしさがある。

 居丈高に誰何すいかすれば、回り回って自分の首が飛ぶことにもなりかねない。

 まして、美しい女ともなれば、どこに紐がついているか知れたものではない。触らぬ神に祟りはないのだ。


 塀と塀との合間を縫うように張り巡らされた細い路地を抜け、エリスは目当ての屋敷の前で足を止めた。

 そして、周囲に人気ひとけがないことを確かめると、音もなく中空に身を躍らせる。

 猫みたいに軽やかな身のこなし。騎士ストラティオテスの身体能力をもってすれば、この程度の芸当は造作もないことだ。

 塀の内側に降り立ったエリスは、すばやく植え込みに身を隠す。

 よく手入れの行き届いた庭はしんと静まり返り、木々の葉が風に揺れるほかには音もない。


 エリスはほとんど腹ばいになりながら、すばやく四方に視線を巡らせる。

 任務に先立って、屋敷のおおまかな見取り図は頭に叩き込んである。

 さほど広くはない。むろん、帝都の一般的な住宅に較べればはるかに巨大だが、総面積はイドラギア街区の平均を下回っている。

 だからこそ、油断は禁物であった。

 屋敷の広さと警備の緻密さは反比例することを、エリスはこれまでの経験から知悉している。

 警備する面積が広いほど注意は散漫になり、狭いほど隅々まで目を行き届かせることが出来るためだ。いかに高位高官といえども、自邸の警備のために動員出来る兵士の数は限られている。おなじ人数の兵士を配置するなら、手狭なほうが警備を密に出来るのは道理だった。


 たとえ発見されたとしても、兵士の息の根を止めることはたやすい。

 それでも、エリスが標的以外の殺生を避けるのは、もちろん温情のためではない。

 暗殺を完璧に遂行するためには、犠牲者の数は最小限に留める必要がある。

 一人が死んだだけであれば、不幸な偶然と片付けられる。

 だが、二人、三人と一夜のうちに屋敷の者が生命を落としたなら、たとえ証拠は見つからなくても、何者かによって殺されたと考えるのは当然であった。

 標的の死にわずかな疑念も抱かせてはならない――それがエリスの暗殺者としての矜持であり、命令者である中央軍が彼女に求めた条件だった。


 慎重に周囲を見回したあと、エリスは植え込みを飛び出し、一気に庭を突っ切る。

 夜風を裂くような疾走は、しかし、わずかな足音も生じさせなかった。

 もしこのとき、エリスの姿を認めたものがいたなら、なにか影のようなものが庭を横切ったとしか見えなかったはずだ。彼はまっさきに目の錯覚を疑い、次いで動物が紛れ込んだのだろうと当て推量をしても、侵入者だとは夢にも思わないはずであった。


 軒下に辿り着いたエリスは、すでに戎装を終えていた。

 指先から不可視の糸を数条ばかり飛ばし、屋根瓦に結びつける。

 直後、紫色の装甲に覆われた身体はふわりと地上を離れ、重力などなきがごとく跳び上がっていた。

 屋根伝いに前進するうちに、庭の一角に設けられた離れが視界に入った。

 事前の調べによれば、標的はそこで起居しているはずだ。

 使用人とおぼしき人影がたびたび渡り廊下を行き交うほかには、屋敷にも離れにも護衛らしい姿は見当たらない。

 これまでの任務のなかでも、今回は特に楽な部類に入るだろう。


 エリスは離れをじっと見つめる。

 標的はまだ眠っていないらしい。離れの採光窓からはぼんやりと薄明かりが漏れ、庭園を覆う闇をやわらげている。

 こんな夜更けまで読書に励んでいるのか。それとも、女を引き込んで房事にでも耽っているのか。

 いずれにせよ、エリスには関係のないことだ。

 ただ、殺す。

 老若男女の別なく、善悪・正邪の弁別さえ放棄して、標的をこの世から消し去ることに専心する。

 それがエリスに与えられた使命であり、人ではない自分が人間の世界に存在を許される唯一の根拠であった。

 

***


――ここのところ、ずいぶん帰りが遅いじゃないか。


 監督役の男は、下卑た薄笑いを浮かべて言った。

 耳朶に触れただけで総毛立つような、それはおぞましい声音であった。

 いままでかろうじて取り繕っていた好色な本性をむき出しにして、男はエリスの全身をねぶるように視線を巡らせる。


――さては、男でも出来たか?


 エリスは答えなかった。

 むきになって反駁したところで、目の前の男を悦ばせるだけなのだ。

 どれほど苛立っても、迂闊に口を滑らせる訳にはいかなかった。ステファノスの存在を知られれば、彼にどんな累が及ぶか知れない。

 それだけは何があっても避けたかった。すくなくとも、彼が帝都を離れるまでは……。


――黙っていれば人間と見分けがつかないとはいえ、物好きもいたものだ。もっとも、任務に障りがなければ、どこで誰に抱かれようと我々は関知しないがね。


 監督役の男の目が語りかけるのは、しかし、言葉とはおよそ真逆の内容だった。

 言え――洗いざらい白状してみろ――。

 貴様のような怪物を好いたのは、どんな男だ。

 そいつの前ではどのように人間の女になりすましているのか。

 どんなふうに愛され、どんなふうに睦み合っているのか。

 エリスは真一文字に唇を結び、ひたすら緘黙することで無言の辱めに耐える。

 口答えをすれば、相手の思う壺だ。二人で過ごした時間の一片も、この男に漏らすつもりはなかった。


――さて……そんなことより、次の任務だ。


 男の声がにわかに冷たさを帯びた。


――今度の標的は、宮廷でも指折りの大物だ。もっとも、さすがに本人を殺しては騒ぎが大きくなりすぎる。貴様が仕留めるのは息子のほうだ。佞臣ねいしんが二代に渡って『帝国』に害をなす前に、災いの芽は摘まねばならない。


 やれるな――と、念を押す男に、エリスはだまって肯んずる。

 それが『帝国』の利益になるというなら。

 そうすることで、騎士ストラティオテスとしての存在意義を全うすることが出来るのなら。

 エリスには、与えられた任務を拒む理由はない。

 監督役の男への好悪の情とは関係なく、おのれに課せられた使命を果たすだけだ。


 すべては胸を張ってあの人を見送るために。

 たとえ我が身が汚れきった濁り水であったとしても、そこに映る月の輝きは損なわれることはない。いまのエリスには、あの月明かりのように優しく、柔らかく照らしてくれる光がある。


 だから、きっと、耐えられる。

 いままでも、そして、これからも――どれほど遠く離れたとしても。


***


「……それにしても、これからはお屋敷も寂しくなるねえ」


 召使いらしい東方人の女が二人、柱の陰で会話に興じている。

 屋根の上に身を置きながら、エリスは年かさの召使いたちが交わす一言一句まではっきりと聞き取っていた。

 意図して聞き耳を立てた訳ではない。エリスのすぐれた聴覚は、本人の意志とは無関係に、数十メートル四方の人間の話し声を自動的に拾い上げてしまうのだ。


「坊っちゃん一人で大丈夫かしらねえ」

「だけど、今回の件は旦那様がじきじきにお命じになったと言うじゃないか。昔から可愛い子には旅をさせろとは言うけどね」

「だからって、なにもあんなに遠くでなくても……」

「本当にねえ。最近は帝都も物騒だし、それに旦那様もだいぶおやつれになって……」


 しばらく立ち止まっていたエリスは、そろそろと前進を再開した。

 有意義な情報を得られるならともかく、召使い同士のおしゃべりにいつまでも付き合っている暇はない。

 「坊っちゃん」と呼ばれていたのは、これからエリスが仕留める標的だろう。

 その命がまもなく終わるとは、あの召使いたちはもちろん、当人でさえ夢にも思っていないはずだった。


 エリスはふたたび庭に降りると、渡り廊下と並行する植え込みに身を潜めながら、すこしずつ離れに接近していく。

 十分な殺傷力を保ったまま糸を操ることが出来るのは、せいぜい五十メートルが限度だ。

 人間を殺めるだけならばさらに二倍の距離を隔てても可能だが、確実性は目に見えて低下する。痕跡を残さずに標的を抹殺するためには、緻密な操作によって必要があるのだ。


 エリスは離れの壁にぴったりと身体をつけると、指先から糸を伸ばす。

 肉眼では決して捉えることの出来ない極細の糸は、言ってみれば体外に露出した神経の末端だ。

 蛇を思わせる動きで壁面を這い進んだ糸は、先を争うように採光窓へと入り込んでいく。

 と、渡り廊下のあたりで足音が生じたのはそのときだった。

 女の歩幅だ。先ほどの召使いの一人にちがいない。


(余計な真似を……)


 予期せぬ闖入者の出現に、エリスは心のなかで毒づく。

 標的が糸の操作範囲から出てしまえば、ここまでの努力も水泡に帰すのだ。

 エリスの糸はすでに標的の身体に絡み始めている。

 あとは、人体の七穴――すなわち、目・鼻・耳・口から体内に侵入し、生命維持を司る脳幹を破壊することで、標的を確実に死に至らしめることが出来る。犠牲となった者は断末魔の叫び声を上げることもなく、眠るようにして一瞬のうちに絶命するのが常だった。


 標的が立ち上がった。 

 直後、大きく姿勢を崩したのは、エリスの糸が運動中枢を破壊したためだ。

 もはや声を出すことも、四肢を動かすことも出来ない。

 自分の身に何が起こったのかを理解する間もなく、一切の生命機能を停止させられたのは、あるいは幸いであったのかもしれなかった。

 どう、と崩折れた身体が床を打った。

 エリスの糸はすでに標的の身体を脱出し、同じ道のりを辿って主のもとに帰還する途上にあった。

 たったいま殺した相手は、はたしてどんな顔をしていたのか。エリスには知る由もない。

 糸は触覚と温度を感知することは出来ても、視覚までは備えていないのだ。

 離れの物音を聞きつけたのか、渡り廊下の足音は、どたどたと激しく床板を蹴りながら近づいてくる。


 エリスはそろそろと壁際を離れる。

 標的を仕留めた以上、長居は無用だ。

 すでに脱出の算段はつけてある。その後は何食わぬ顔で街区を出、ふたたび大通りの人混みに紛れれば、今夜の任務はそれで終わりだった。


「坊っちゃん!!」


 悲鳴は背中で聞いた。

 そのまま立ち去ろうとしていたエリスは、次の瞬間、一歩も動けなくなった。


「ステファノス坊っちゃん、しっかり――」


***


 冷たい雨が降っていた。


 雨粒が川面に落ちるたび、汚れた水に大小の波紋が広がっていく。

 エリスは傘もささず、欄干に背をもたせかかっている。


 その姿勢のまま、少女はまるで彫像と化したみたいにじっと佇んでいる。

 若い娘が雨に打たれているのを気の毒に思ったのか、通行人のなかには気遣わしげに声をかけてくる者もいた。

 そんな彼らも、俯いたエリスの顔を覗き込んだ途端、「ひっ」とちいさな悲鳴を上げて逃げていった。


 約束の日――。

 どれほど待っても、彼は来なかった。

 一縷の望みを抱いてここにやってきてから、どれくらいの時間が経っただろう。

 夜明けから降りだした雨は、昼を過ぎてますます勢いを増したようだった。

 一向に熄まぬ雨のなか、やがて夜の帳が帝都を包んでも、エリスは橋の上から動かなかった。

 冷たいものがたえまなく頬を濡らしていく。

 それが何であるかは、エリス自身にも分からなかった。


――私が殺した。


 エリスはへたり込み、膝を抱く。身体は氷みたいに冷えきっている。雨のせいだけではないはずだった。


――私が、あのひとを、殺した。


 善悪など最初から信じていなかった。

 正義だと言われても、まるで実感など伴わなかった。

 それでも、自分のしていることには意味があると思っていた。

 人間のために。『帝国』のために。この世界がいつまでも続いていくために。

 殺した。ひたすら殺し続けた。殺すことが、自分の使命だから。


 すべて嘘だった。

 いまなら、それが分かる。

 これまで手にかけてきたのは、殺してはならない人々だった。

 あの人がそうだったように。


――――


 エリスは強く唇を噛む。

 口の中いっぱいに血の味が広がっていく。

 それさえも嘘だ。

 騎士ストラティオテスの身体に流れているのは、本当の血ではない。

 人間の血と見分けはつかなくても、それはどこまでも精巧に作られた偽物イミテーションであった。

 血だけではない、皮膚も骨も涙も、すべては人間に似せて作られた偽物だ。

 偽物の身体に宿った魂も、やはり虚偽うそいつわりを固めたものでしかない。


 真実など、最初からどこにもありはしなかったのだ。

 甘やかな夢も、淡い希望も、しょせんはうたかたの幻にすぎなかった。

 人ならざる者が人を装い、人を愛した罪には、その禁忌に見合うだけの罰が下っただけのこと。

 だが、みずからの運命を理解することと、それを従容と受け入れるのは、似ているようでまるで違う。

 エリスは蹌踉とした足取りで一歩を踏み出す。


――なにもかも、終わりにしよう。


 氷雨にそぼ濡れた面貌かおに漲るのは、どこまでも凄絶な決意であった。


――――私ひとりでは死なない。この『帝国くに』も道連れにする。


***


 エリスが消息を絶ったのは、明くる朝のことだった。


 直属の監督役と中央軍の高官数名を殺害し、そのまま帝都を出奔したのだ。

 犠牲者たちはいずれも脳を破壊されながら、その場で生命を奪われることはなかった。ようやく絶命に至ったのは、想像を絶するほどの苦痛のなかで数日を生き延びたあとであった。

 彼らの死に顔に刻まれた悪鬼のごとき形相は、エリスの凄まじい怨嗟と憎悪を写し取ったものにほかならない。

 もっとも、それが本当に彼女の仕業であったかどうかは、検死に当たった軍医も断言を避けた。

 どれほど詳しく調べても、死体にはためだ。

 自然死――医学的な見地からは、そのように結論するほかなかった。

 エリスが手にかけた犠牲者の名簿リストはおびただしい数にのぼる。

 彼女に命令を下した当事者たちがその掉尾を飾ったのは、この上ない皮肉といえた。


 戎装騎士ストラティオテスエリスに関する資料は、北方辺境から帰還した日を境に途絶えている。

 出奔するまでの二年間、ひたすら血にまみれた日々を記録するものはひとつとして残っていない。

 それも当然であった。

 騎士を用いて政治的に対立する人物とその関係者を暗殺していたなど、中央軍にとっては前代未聞の醜聞である。

 本来中立であるべき軍部が政治に介入したというだけでも、大司馬マギステル・ミリトゥムを始めとする上層部の責任追及はまぬがれない。まして、政敵の血縁であるというだけの理由で女子供まで抹殺していたことが表沙汰になれば、選ばれた精鋭エリートたる中央軍の権威は完全に失墜する。

 エリスの任務に関するあらゆる記録は焼却され、事情を知るわずかな関係者には徹底的な箝口令が敷かれた。

 こうして、すべては歴史の闇に葬り去られたのだった。

 どこまでも空虚な少女の履歴には、反逆者の烙印だけが黒く黒く滲んでいた。

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