第156話 鬼哭啾々(前編)

 少女の世界には、ただ死だけがあった。

 過ぎてゆく昨日も、来るべき明日も、日々のすべてはひたすら血の色に彩られていた。

 ただ命じられるがままに少女は殺した。みずからの役目に倦むことなく、飽くまで殺し続けた。

 男を殺した。

 女を殺した。

 子供を殺した。

 老人を殺した。

 病人も妊婦も、乳飲み子もその母親も、東方人も西方人も。

 悪人も善人も、罪人もそうでない者も、一切の区別なく。

 ひとたび標的と定めたなら、その生命を奪うのに何の躊躇いもない。

 それが彼女の使命であり、この世に存在するたったひとつの理由だった。


***


 北方辺境の戦場から戻ったエリスを待っていたのは、処刑人としてのあらたな生だった。

 不可視の糸を自在に操る能力を買われたのだ。

 エリスの糸は、ひとたび人間の体内に入れば、一瞬のうちに標的を絶命に至らしめることが出来る。

 しかも、一般的な凶器や毒薬とは異なり、犠牲者の身体には何の痕跡も残らない。

 経験を積んだ医師がどれほど詳らかに検証しても、自然死と区別することは不可能であった。

 瞬時に脳幹や心臓といった重要な器官を破壊された犠牲者は、おそらく自分が死んだことにさえ気づかないだろう。

 暗殺者としての稀有な素養を見出されたエリスは、他の騎士のように辺境に配置されることなく、ただひとり中央軍の直轄下に置かれたのだった。

 国家にとって不都合な人間をこの世から抹殺する――それがエリスに与えられた任務だった。


――貴様がしているのは、この『帝国くに』の掃除だ。


 監督役の男は、ある夜、任務を終えて帰ってきたエリスに得々とそう語った。


――奴らは生かしておいても『帝国』に害をなす連中ばかりだ。あの連中は社会のゴミなんだよ。ゴミは誰かが片付けなければならん。さもなくば我々は奴らのせいで不利益を被り、やがては滅びることになる。


 だから、貴様がしていることは正義なのだ、と――。

 エリスは否定も肯定もせず、ただ黙って耳を傾けていただけだ。

 それが正しいのか間違っているのかさえ、そのときのエリスには判別がつかなかった。


 日々の任務は、どこまでも単調だった。

 戎狄バルバロイに較べれば、人間はどこまでも柔く弱く、その生命を奪うのは路傍の草花を手折るよりたやすい。

 標的を殺めたところで達成感もなければ、監督役の男が言うような崇高な使命感を日々の任務に感じることもない。

 そのかわり、見ず知らずの人間を手にかける罪悪感に苛まれることもなかった。

 すべては北方辺境で戦っていたころと同じだった。

 あのころは人間の命令に従って戎狄バルバロイを狩っていたように、今度は『帝国』にとって有害な人間を抹殺するだけのことだ。

 殺す対象が変わっただけで、どちらも多くの人間の利益になることには変わりないはずだった。

 どれほど空虚な任務でも、それが人間のためになるのであれば、エリスには拒む理由などあろうはずもない。唯々諾々と命令に服し、やはり機械的に殺し続けるだけだ。

 みずからの行為に矛盾を感じることもないまま、季節は巡り、やがて二度目の春が訪れた。


***


 その日、帝都の歓楽街で任務を終えたエリスは、何事もなかったように現場を立ち去った。

 緊張も高揚もない。それもいつものことだ。相手は日ごとに変わっても、迎える結末は決まって同じなのだから。

 暗殺の舞台となった妓楼の一室で甲高い悲鳴が上がったときには、すでにエリスは大通りの雑踏に紛れていた。


 小川にかかる橋の上に差し掛かったところで、エリスははたと足を止めた。

 背後から声をかけられる気配を感じたためだ。

 まさか、気づかれたというのか?

 そんなはずはない。誰にも気取られることなく、任務は完璧に遂行したはずだ。

 だが、もしそうであるなら、殺さねばならない。

 そういうになっている。人を殺めるのに、それ以上の理由など必要だろうか。

 エリスが振り返ったのと、声が投げられたのは、ほとんど同時だった。


「あの、もし――」 


 声の主は、予想よりだいぶ早いエリスの反応に多少面食らっているようだった。

 西方人の青年であった。

 年の頃はまだ十七、八歳といったところだろう。

 茶色ブラウンがかった金髪と、あどけなさを残す緑色の瞳が印象的だった。

 人目を引くような派手派手しさはなく、取り立てて器量に優れている訳でもない。

 それでも、上品で清潔な身なりと、気品ある所作は、いかにも良家の子息といった風情を漂わせている。


「お嬢さん、お召し物に汚れがついていますよ。ほら、左の袖口……」


 エリスははっとしたように左の袖を見やる。

 探すまでもなく、青年が指摘したものはすぐに見つかった。

 赤茶けた親指の爪ほどの染み。鼻を近づけると、微かな青臭さが立ち上った。

 おそらくは遊女がつける髪油かなにかだろう。

 どうやら、現場を立ち去るときにたまたま付着したらしい。

 エリスが何かを口にするより、青年が手を差し出すほうが早かった。


「これでお拭きなさい。放っておくと、染みになりますよ」


 絹織物の手巾ハンカチであった。

 けっして安価なものではない。世情に疎いエリスにも、その程度のことは分かる。

 青年に手渡されたそれを、エリスはほとんど反射的に突き返していた。


「こんな、受け取れません――」

「与えるのではなく、いっとき貴女に貸すだけです。ご縁があれば、また会うこともあるでしょう。そのときに返していただければ構いません」


 それだけ言うと、青年はさっさと踵を返していた。

 青年の後ろ姿は雑踏にまぎれ、あっというまに塩粒みたいに小さくなった。

 エリスは手巾ハンカチを握りしめたまま、呆然とその背中を見送ることしか出来なかった。


 その日から、エリスの日常に小さな変化が生じた。

 任務を終えたあと、青年と出会った橋を通るようになったのだ。

 多少の遠回りをしても、なるべくあの日と同じ時間に間に合うように。

 任務の行き帰りは、エリスにとって唯一自由になれる時間だった。

 人間の見張りをつければ、かえって標的やその護衛に気取られる可能性がある。エリス単独で行動させるのが最も確実であり、失敗のおそれも少ないのだ。

 そんな貴重な時間も、あの日までは、ただ任務を遂行するための移動に費やされるばかりであった。

 自分の心に生じた変化に戸惑ったのは、ほかならぬエリス自身だ。


――なぜ、あの橋に行きたいと思うのだろう?

――手巾ハンカチを返したいから?


 もちろん、それも理由のひとつではある。

 だが、それ以上に、自分でも理解できない感情が身体を衝き動かしている。


――あの人に、また会いたい。


 それでも、偶然はそう都合よく起こるものではない。

 二度、三度とあの橋を訪れても、青年は姿を見せなかった。

 そぼ降る氷雨に打たれながら、エリスは半ば諦めかけてもいた。

 そして……これが最後と決めていた五度目、ついにエリスは、橋の上に佇む青年を認めたのだった。


「貴女は、あのときの――」


 青年は皿みたいに目を丸くしたあと、子供みたいに破顔した。

 はにかみながら、青年は差し出された手巾ハンカチをそっと懐にしまうと、


「まさか、本当に返しにきてくれるとは思いませんでした」


 心底から安堵したように息を吐いたのだった。


「返すという約束でしたから……」

「この際ですし、本当のことを言いましょう。ああいう言い方をすれば、もしかしたら貴女とまたお会い出来るのではないかと――つまり、その、下心があったんです。たまたま見かけた貴女が、あんまりきれいだったものだから――」


 今度はエリスが目を丸くする番だった。

 エリスの周りにいる男性といえば、監督役を始めとする軍の関係者ばかりだ。

 彼らは戎装騎士ストラティオテスを兵器として扱い、内心では蛇蝎のごとく忌み嫌っている。

 新たしい任務を申し渡すたび、そして報告を受けるたび、彼らの顔に浮かぶ表情は二通りしかない。

 すなわち、人間の皮をかぶった人ならざる存在への侮蔑と、いつか自分たちにその力が向けられるのではないかという恐怖であった。

 いま、青年の顔に浮かんだ表情は、そのどちらとも異なっている。

 それは、エリスにとって、生まれて初めて向けられた純粋な好意だった。


「僕はステファノスといいます。よかったら、貴女のお名前を聞かせてくれませんか?」


 いままで触れたことのないあたたかな感情に、エリスは当惑せずにいられなかった。

 春の日差しが凍てついた大地を溶かしていくように、冷めきっていた心が少しずつ解けはじめている。


「エリス――」


 ほとんど無意識のうちに、エリスは青年の手に触れていた。

 握りかえす指から伝わるのは、柔らく心地よいぬくもりと鼓動。

 数えきれないほどの生命を奪ってきた少女は、いま掌に感じるたったひとつの生命のあたたかさに、恐れるように震えるばかりだった。


***


 それからというもの、橋は二人の約束の場所になった。

 決まった曜日、決まった時間に、どちらともなく橋を訪れる。

 そして、他愛もないよしなしごとを話し、小一時間と経たないうちに解散する。

 男女の逢瀬と呼ぶにはあまりに幼く、ささやかな会合。


 それだけで十分だった。

 遠慮がちに手を握り、浅葱色の髪をもう一方の手で梳いてもらう。

 そのたびに、エリスはこの上ない安らぎと充足感に満たされるのだった。


 場所を変える提案をしなかったのは、二人が会えるのがここだけだということを、どちらも無言のうちに察していたためだ。

 決して好意を口にしなかったのは、たった一言の『愛している』が、このもどかしくもかけがえのない時間を壊してしまうことを恐れたためであった。

 どちらも名前以上のことを知ろうとしなかったのは、それを詮索すれば、もう二度と出会ったころの二人に戻れないと知っていたからだ。

 『帝国』のために日々手を血に染めているエリスにとっては、二人のあいだの暗黙の了解はなによりの救いでもあった。


 ステファノスが折り入って話したいことがあると切り出したのは、そんなある夜のことだった。


「……じつは、近々帝都を離れることになりました」


 ステファノスの声はいつになく沈んでいた。

 水面を見つめながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。


「仕事の都合で、遠い辺境に赴任しなければならなくなったんです」

「それは、いつまで――」

「僕にも分からないんです」


 言って、ステファノスは寂しげな笑顔をエリスに向ける。


「あなたとこうしてお話出来るのも、今日が最後になるかもしれません」

「いつか帝都に戻ってくるなら、それまで待ちます」

「ありがとう。でも……」


 ステファノスはゆるゆると首を横に振る。


「僕のことはどうか忘れてください。短いあいだでしたが、貴女とお知り合いになれて本当によかった。どうかお元気で、エリスさん」


 そのまま数歩進んだところで、ステファノスははたと足を止めた。

 振り返らず、エリスに背中を向けたまま、


「帝都を発つ直前に、僕はまたここに来ます」


 ステファノスはありったけの勇気を振り絞って、なおも続ける。


「いままで、ずっと言えなかったことがあります。二度と会えなくなってしまう前に、貴女に伝えておきたいんです」

「私、ここで待っています。何があっても、きっとここに来ます」

「では、また来週、ここで――」


 恥ずかしさを繕うように駆け出したステファノスを、エリスは黙って見送った。

 やがてその姿が遠い人波に紛れたあと、エリスは欄干に肘を乗せて、濁った水面に目を落とす。

 小川を流れる水は、川沿いの各家庭や工房からの排水によってすっかり汚れ、黒とも灰色ともつかない色に変色している。

 そんな濁り水のなかに、まるく白い月が浮かんでいる。


――なんだか、あの人みたい。


 汚れきった濁り水と交わりながら、なおも輝きを損なわない月は、エリスの目にたまらなく愛おしいものとして映った。

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